第83話《霧牙》
霧が音もなく広がっていった。
空気が濃く、湿り、視界が白く溶けていく。
「……出たな。フォグウルフじゃ」
バルドランの声が低く響く。
灰のような影が、霧の中でうごめいていた。
ナユは息をのむ。
「見えない……けど、感じるのです!」
瞳に淡い光が宿る。
《魔力感知》――世界が輪郭を取り戻す。
霧の中に青白い線が浮かび、狼たちの動きがまるで絵のように視えた。
『魔力反応、前方三。側面二。後方に一、回り込み行動』
ミラの声は冷たく無機質に響く。
「回り込み!?リカちゃん、右後ろなのです!」
「了解っ!」
リカリーネの炎矢が霧を裂き、一体を貫く。
けれど霧はすぐに補い、影は増え続けた。
「くっ……これじゃきりがない!」
バルドランが杖を構え、空気を震わせる。
「恐れるな!魔力の流れを読め!敵は霧を操るが、存在を消す事は出来ん!」
「はいなのです!」
だが、霧の奥――ひときわ濃い影が動いた。
群れの中心。
フォグウルフの群れを率いる大型個体。
低い唸り声が響いた瞬間、空気そのものが押し潰された。
『危険。圧力値上昇。衝突予測、0.7秒後』
ミラの声が走る。
「来るのです!!」
その時だった。
セバスチャンが一歩前に出た。
静かに、右手を胸の前に掲げる。
「王の威を、刃と成せ――《王威・一閃》」
空気が、一瞬で変わった。
圧が走り、風が震え、霧が弾け飛ぶ。
フォグウルフ達の動きが、まるで糸を切られたように止まった。
その双眸に映るのは、畏怖。
――その瞬間、ナユの胸の奥で何かが跳ねた。
(この“圧”……知ってるのです!赤ちゃんの時、あの人が……!)
脳裏に、微かに蘇る映像。
まだ幼い頃感じたあの息苦しい威圧。
それと同じだ。
『解析開始。魔力波形……異常値検出。圧力、通常の十倍。……分類不能。』
「ミラ、それ……セバスチャンの力なのです」
『結論:人間の出力ではありません』
ミラの声が、わずかに震えていた。
セバスチャンは一歩も動かずに言った。
「……下がりなさい。これ以上、子供達の訓練の邪魔をしないでもらおうか」
王威がすっと消える。
弾かれたように、フォグウルフ達は霧に紛れて逃げていった。
「ひ、退いていく……!」
リカリーネが杖を下ろし、息を吐く。
バルドランはゆっくりと頷いた。
「……これが、“王威”か。まさか、お主伝説の……」
セバスチャンは静かに微笑む。
「ただの“叱責”です。そして、今はナユ様達の執事でございます、それ以上でもそれ以下でもありませぬ」
ナユはその横顔を見上げた。
「すごいのです……まるで世界が止まったみたいだったのです」
「お嬢様には、まだ早い力です。しかし――いつか、見上げるだけでなく、見据える力を」
「うん……絶対、そうなるのです」
その横で、ミラが淡々と告げた。
『解析結果、保存完了。……今のを“威圧”と呼ぶのですか?』
「そう、なのです」
『理解。……少し、怖かったです』
ナユは小さく笑った。
「大丈夫なのです。怖いのは、強くなる為の一歩なのです」
◆
「今日の記録:フォグウルフとの初戦。ミラの警告とみんなの連携で無事生還。セバスチャンの“王威”を見たのです……あの時の威圧と同じ。でも、今度はちゃんと立っていられたのです!日報完了」




