第67話《愛称》
夕刻の庭に、風が通り抜けた。
手合わせの余韻がまだ残る空気の中で、二人は噴水の縁に並んで座っていた。
「……まさか、ここまでとは思いませんでしたわ」
アニシアが小さく息を吐く。
闇の魔法を制御しきれず破壊した芝生を見つめ、くすりと笑った。
「でも、凄かったです。アニシアの魔法、凄く綺麗でした」
「ありがとうございますわ、ナユ様」
その“様”の響きに、ナユは思わず眉を寄せた。
「……ねぇ、アニシア。わたしに“様”付けるの、やめてください」
「え?」
「だって、アニシアの方が貴族だし、わたしなんてただの庶民ですよ?」
「でも、あなたは“奇跡の子”ですもの。陛下が直々に認めた――」
「そ、それでもダメっ!お友達なのに“様”なんて呼ばれたら、くすぐったくて仕方ないです!」
「お友達……」
アニシアは目を瞬かせた。
その言葉を噛みしめるように、ゆっくり笑う。
「……じゃあ、こうしましょう」
「え?」
「あなたが私の事を“アニス”って呼んでくれたら、私も“様”をやめますわ」
「え?」
「昔からの愛称ですの。家族と、ごく近しい人しか呼ばないけれど――ナユ様なら、いいですわ」
「ほ、本当ですか!?」
「もちろん。さあ、どうぞ」
アニシアが身を乗り出す。
ナユは顔を真っ赤にして、喉を鳴らした。
「……ア、アニス」
「っ……!」
アニシアの肩が小さく跳ねた。
「今の、なんだか心臓に悪いですわ……!」
「ええぇ!?な、なんで!?ごめんなさい!?」
「ごめんなさいじゃありませんわ!その……」
アニシアは両手で顔を覆い、隙間から覗く瞳が潤んでいた。
「くすぐったいだけ、ですわ……」
ナユは照れくさそうに笑い、少しだけ前に身を寄せた。
「じゃあ、今度はアニスが言う番ですよ」
「えっ……」
「“ナユ様”じゃなくて、“ナユ”って」
「そ、そんな……いきなり……!」
「言わないなら、わたしもアニスって呼びません」
「む、むぅ……っ」
アニシアは頬を膨らませ、ぷいと横を向く。
しばし沈黙――そして小さく息を吸い込んだ。
「……ナユ」
「は、はいっ!」
「っ……きゃっ!」
二人の声が重なり、同時に顔が真っ赤になる。
「な、なによもう!先に声を出すなんて反則ですわ!」
「ご、ごめんなさい!?でも、嬉しかったから!」
「もうっ……ほんと、ずるいですわね!」
アニシアが笑い、ナユも笑った。
噴水の水音が、二人の笑いに溶けてゆく。
屋敷の陰から覗いていたセバスチャンは、静かにため息をついた。
「……尊い。実に、尊いですな」
噴水の水音が静まり、夕暮れが庭を包みこむ。
ナユは笑いながら空を見上げた。
「……今日も、いい日だったね」
金色の光が二人の髪を照らす。
アニスも隣で、小さく微笑んだ。
「ええ。――私も、そう思いますわ」
その言葉を最後に、二人はゆっくり立ち上がり、屋敷の中へ戻っていった。
夕陽の中に、二つの影が並んで伸びていく。
それは、未来へと続く“始まりの道”のように見えた。
「今日の記録:アニシアが“アニス”に。呼び方が変わるだけで、距離も変わる。互いに名前を預け合った日。これぞ友情の進化。日報完了。」




