第65話《再会》
庭に初夏の風が抜けた。
緑の匂いと、朝の光。
訓練を終えたナユは、掌に残る微かな温もりをそっと解いた。
「お嬢様、お水です」
「ありがとうなのです!!」
ミナが差し出す水差しを受け取り、ひと息つく。
その時、門前で馬車の止まる音がした。
セバスチャンが現れ、静かに一礼する。
「お客様でございます。アンダルシアン公爵家のご令嬢――アニシア様」
胸が、きゅっと鳴った。
忘れようがない名前。
王城の大広間で、小さな手を握ってくれた、あの子の。
馬車の扉が開く。
黒い絹のような髪、灰色の瞳。
裾をつまんで、可憐に礼。
「ごきげんよう。ご無沙汰しておりましたわ、ナユ様」
その声音に、記憶がたちのぼる。
口が自然と動いた。
「……アニシア」
アニシアが柔らかく微笑む。
「覚えていてくださって嬉しいわ」
思わず駆け寄って、両手を取る。
「もちろんです!えへへ……その、背も雰囲気も、すてきに成長してます!」
「ふふ。礼法もお勉強も、たくさんありましたもの」
ナユは胸を張る。
「わたしも、ちゃんと大きくなりました!でも今日はアニシアの勝ちです!」
「勝ち負けなのね?」
ミナが肩を震わせ、セバスチャンが小さく咳払いした。
「お嬢様、はしたのうございます」
「す、すみません……」
くすり、と笑いがこぼれ、庭の空気がやわらぐ。
並んでベンチに座る。
湯気の立つ紅茶、揺れる光。
アニシアのまつげが、かすかに影を落とした。
「……実は、少し息が詰まってしまって」
灰色の瞳が揺れる。
「礼法に学問に、稽古に。そのどれもが大切だと分かっているのに、うまく呼吸ができない時があるの」
言葉を待ってから、ナユは小さく頷いた。
「来てくれて、ありがとう。ここでは深呼吸していいんです」
アニシアが目を丸くし、それから微笑む。
「深呼吸……いい言葉ね」
「それと、今日は“がんばらない”練習をしましょう」
「がんばらない、の練習?」
「うん。お散歩して、お喋りして、たまにお茶をおかわりして。がんばらないで、ちゃんと回復するのも、強さのひとつです」
ふっと、アニシアの肩の力が抜けた。
「……そんな発想、初めて言われたわ」
「社――じゃなくて、人生の知恵です」
ミナが紅茶を注ぎ足し、セバスチャンが一歩さがって見守る。
金の髪と黒の髪が、並んで陽を受けた。
光と影が、ちょうど良いところで重なって、庭の色が少し濃くなる。
「ねえ、ナユ様」
「はい」
「あなたは……どうしてそんなに、ぶれずにいられるの?」
少し考えてから、答える。
「毎日、少しだけ“できたこと”を書いているから。だから、迷子になりにくいんです」
「……素敵ね」
「アニシアも、きっと大丈夫。今日は“会いに来られた”って書けます」
灰色の瞳が、ほんの少し潤んで笑った。
「書いてみるわ。今日のわたしは、がんばらないで、会いに来られた――と」
「合格です」
ふたりの指先が、テーブルの上でそっと触れ合う。
セバスチャンは目を細め、ミナは頬を緩めた。
風が、また一本、庭の木を揺らした。
「今日の記録:アニシアと再会。黒髪が光ってた。深呼吸と“がんばらない練習”を提案。笑顔、回復。次は一緒に散歩の予定。日報完了。」




