第50話《誘拐》
夜明け前。
王都の空はまだ藍に沈み、街灯の残光がかすかに路地を照らしていた。
その静寂を破ったのは、遠くで上がる叫び声と焦げた油の匂いだった。
「……火だと?」
セバスチャンは執務室の窓を押し開け、外を見下ろした。
屋敷の裏手――隣家の物置が炎に包まれている。
濃い黒煙が夜気を裂き、風下に広がっていく。
「おそらく放火。しかも……手際が良すぎますね」
彼は眉をひそめ、手早く外套を羽織る。
主君一家を守るのが自らの責務。
だが、この規模では火が屋敷に及ぶ危険もある。
「ご主人、奥様、外へ避難を」
両親は寝間着のまま廊下に飛び出した。
母がナユの部屋へ駆け寄ろうとするのを、セバスチャンは制する。
「ナユ様はこちらで守ります。どうか離れて」
「で、でも――!」
「時間がありません」
低く断ち切る声。
母は震える唇を噛み、夫に肩を掴まれたまま廊下を後退った。
その瞬間、屋敷の裏口の鍵が音もなく外れた。
薄暗い廊下に忍び込む影が二つ。
黒衣の男たちは火薬と油の臭いをまとい、言葉も交わさず進む。
「標的は子供一人。三分で済ませる」
片方が懐から魔具を取り出し、淡い紫光を放った。
空気が歪み、屋敷全体に魔封じの結界が張られる。
外からの魔力感知を完全に遮断するそれは、以前の失敗の教訓だった。
ナユの寝室。
薄いカーテン越しに朝の光がうっすらと差し込んでいる。
ベッドの上では、幼い少女が静かに眠っていた。
その胸の奥では、見えない“鼓動”が淡く脈打っている。
扉が軋む。
黒衣の一人が足を踏み入れ、もう一人が背後で結界を維持する。
「こいつが……“奇跡”を使う子か」
布を取り出し、口元に当てようとした瞬間――。
ぱちり、と音がした。
空気が震え、床板に白い火花が散る。
「魔力障壁……!? 赤子が、だと……!」
侵入者が慌てて腕を引く。
その手首に焦げ跡が走り、苦痛に呻く声が漏れた。
しかし、即座にもう一人が魔具を構え、薄紫の霧を放つ。
ふっと、ナユの意識が遠のいた。
世界が歪み、瞼が重くなる。
夢と現の境に、冷たい腕が伸びた。
屋外。
セバスチャンは火元に到着し、外套を翻す。
掌を掲げ、風を起こす簡易の風魔術で炎を押さえつける。
ぱちぱちと火が消え、煙だけが残った。
「……早すぎますね。これは陽動です」
彼は即座に踵を返す。
屋敷の魔力の流れが、先ほどから妙に乱れている。
胸の奥で嫌な感覚が広がった。
廊下に戻った瞬間、風の流れが途絶えた。
空気が重い。
まるで何かに“塞がれている”。
「……魔封結界。仕掛けられましたか」
セバスチャンの目が細まる。
静かに指先を鳴らすと、指輪の内側に刻まれた魔紋が輝いた。
微弱な音波が壁を這い、屋敷全体を探る。
――反応、一つ。子供の部屋。
瞬間、彼の姿が掻き消えた。
寝室の窓。
黒衣の男が麻袋を抱え、屋根へと飛び移る。
結界の内側で、セバスチャンの声が響いた。
「貴様ら……何をしている」
空間が歪み、黒衣の背後に影が立つ。
恐怖に駆られた男が短剣を振るったが、刃は空を裂くだけ。
次の瞬間、腕がねじ曲げられ、地に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
セバスチャンは無表情のまま、もう一人の首筋を軽く押す。
男は昏倒し、魔具が手から滑り落ちた。
その刹那、外へ逃げた最後の一人が麻袋を抱えたまま屋根を越えた。
追撃は届かない。
ナユの気配が、闇の向こうに消えた。
セバスチャンは拳を握りしめ、静かに呟いた。
「……やはり、ロスルドか。フェルネか……」
床に転がる黒い羽飾りを拾い上げる。
金の糸が織り込まれたその紋章には、見覚えがあった。
――王城直属の研究派閥、“秘学院”の紋。
窓の外、夜風が冷たく頬を撫でる。
セバスチャンは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……お嬢様。必ずお連れ戻します」
麻袋の中、揺られる暗闇。
遠くで蹄の音。
眠りの底で、ナユの指がかすかに動いた。
――まだ、終わらない。
「今日の記録:火事。屋敷の外で煙。走る音。声。目が開かなくて……光が消えた。誰かの腕の中……冷たい空気……日報完了。」




