第208話《野営》
白脈山陵の手前に広がる平地に、夕焼けの色がゆっくり落ちていく。
長く歩き続けた一行が足を止めると、張り詰めていた空気がふっとゆるんだ。
「ここで一泊だ。各班、指示通りに動きな!」
ガルドナの声が、広場に短く響く。
生徒達が一斉に返事をし、それぞれの班ごとに散っていく。
ナユ達の班は、冒険科と魔法科、騎士科が混ざった小さな一団になっていた。
荷物を降ろした瞬間、足元からじんわり疲れがせり上がってくる。
「ふあ……少しだけ、足がじんじんなのです」
「よく歩いたものね。でも、ここからが本番よ」
メリアが肩を回しながら、空を見上げる。
白脈山陵の稜線が、暗くなり始めた空を背中にくっきりと浮かんでいた。
「ナユさん、水汲みはボクが行くよ。足、まだ慣れてないでしょ?」
ルゥが笑いながら、水袋を肩にかける。
「僕も一緒に行きます。道の途中で使えそうな草も見ておきたいですし……」
ティトが少し恥ずかしそうに言うと、メリアが手を挙げた。
「じゃあ私は薪集めね。ナユは――」
「テントなのです!わたし、こういうの好きなのです!」
ナユが勢いよく答えると、メリアの口元が緩んだ。
「分かったわ。じゃあお願いね」
それぞれが役割に散っていき、平地のあちこちで子ども達の声が混ざり合う。
布を広げる音、杭を打つ音、水の跳ねる音。
だんだんと「野営地」の形になっていくのが面白くて、ナユは何度も周りを見回した。
『楽しそうですね、ナユ。テント設営の効率は、あと二割ほど上げられますよ』
「今日は楽しむ日なのです。効率は七割でいいのです、ミラ」
小声で返事をしながら、紐を引き、布を持ち上げる。
少し歪んだけれど、ちゃんと雨はしのげそうな形になった。
「おお……ちゃんと立ったのです!」
「ナユ、上手だよ!」
戻ってきたルゥが感心したように見上げる。
ティトも濡れた水袋を置きながら、小さく頷いた。
「……すごいです。僕、こういうの苦手なので、助かります」
「では次はティト君の番なのです。お腹が空いてきたのです」
「が、がんばります……!」
焚き火の場所が決まり、火打ち石の音がカチカチと響く。
やがて小さな火花が乾いた薪を舐め、橙色の火が立ち上がった。
ティトが鍋を用意し、手際よく水と刻んだ野菜、干し肉を入れていく。
薬草をひとかけらだけ砕いて加えると、ほのかな香りが湯気と一緒に広がった。
「……いい匂い」
メリアが思わずつぶやく。
他の班の生徒達も、ちらちらとこちらを見ていた。
「ティト君、すごいのです。ほっとする匂いなのです」
「よ、良かった……。遠征だと、皆、緊張してますから……少しでも落ち着けたらいいなって」
その言葉に、ナユの胸の奥がほんのり温かくなる。
魔法でも剣でもないところで役に立とうとする姿勢が、きゅっとまぶしかった。
日が完全に落ちる頃、あちこちの焚き火に火が入り、野営地全体が柔らかな光に包まれた。
食事を終えると、先生達から見張り当番の指示が飛ぶ。
「夜の見張りは交代制だ。名前を呼ばれた班は、時間を守って起きろ」
ガルドナの後ろで、オルフェンが腕を組み、暗い空を見上げている。
「白脈山陵の麓では、魔物はそう多くない。だが油断は禁物だ。魔力の流れも、平地とは少し違う」
静かな声だったが、生徒達の背筋にすっと冷たい線が通った。
『確かに、魔力の分布が僅かに乱れていますね。今は気にするほどではありませんが』
「明日から本番なのです、了解なのです」
ナユは心の中だけで答え、寝袋に潜り込んだ。
焚き火の音と、遠くで誰かが笑う声。
その全部が混ざり合って、夜の野営地のリズムを作っていく。
◆
ナユ達の班の見張り当番は、夜の中頃だった。
月が高く上り、空気がひんやり澄み始めた時間帯。
「……少し、冷えるのです」
焚き火に手をかざしながらつぶやくと、隣でルゥが小さくくしゃみをした。
「ボク、耳が冷たくなってきた……」
「ティト君、スープはもう一杯いけるのです?」
「温め直します。すぐです……」
メリアは少し離れた場所で、あたりをぐるりと見回していた。
夜の山風が草を揺らし、ときどき枝がきしむような音を立てる。
「……何もないわね。静かすぎるくらい」
『音の少なさは、時に危険の前触れでもあります』
「ミラ、怖いこと言わないのです」
そう返した瞬間だった。
野営地の外れ、焚き火の光が届かない闇の中で、何かがかさりと動いた。
「……今の、聞こえました?」
ティトの耳がぴくりと動く。
ルゥも顔を上げた。
「ガルドナ先生?」
メリアが声をかけようとした時、闇からぬるりと這い出る影があった。
四つ足で、背中に棘のような突起をいくつも生やした小型の魔物。
目だけが、焚き火の光を反射してぎらりと光る。
「ひっ……!」
近くの生徒が短く悲鳴を上げた。
その声に反応したように、魔物が低く唸り、野営地の縁へとじわじわ近づいてくる。
「メリアさん、下がるのです」
「え、ええ……」
ナユは一歩前に出ようとした。
身体強化の魔法を発動しようと、意識を集中させ――
その瞬間、空気がすっと冷えたように感じた。
銀色の線が、闇の中を横切る。
いや、それは初めからそこにあったかのように自然で、気づいた時にはもう終わっていた。
魔物の首が、焚き火の明かりの中で静かに地面へ転がる。
残った体が一歩分だけ前に出て、遅れて崩れ落ちた。
「……騒ぐな。小物だ」
焚き火の向こう側に、黒い衣を羽織った影が立っていた。
確か騎士科の人だったかな?とナユは密かに思う。
抜かれた剣には、血の跡さえほとんど残っていない。
光を受けた刃が一度だけ瞬き、すぐに鞘へ戻された。
「……怪我人は?」
短い問いかけに、生徒達が慌てて首を振る。
誰も傷ついていないことを確認すると、レナレスはほんの僅かにだけ頷いた。
「見張りを続けろ。必要なら先生を呼べ」
それだけ告げると、影のように歩き去っていく。
足音は、草の音に紛れてほとんど聞こえなかった。
残された焚き火の前で、ナユはぱちぱちと燃える火を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……すごいのです」
「今の、見えた……?」
メリアが息を呑んだまま言う。
ルゥも尻尾をふるふる震わせながら頷いた。
「ボク、剣が光ったのしか分からなかった……」
「僕もです……。あんなに静かに倒せるなんて……」
胸の奥が、くすぐったくなるように高鳴っている。
剣の速さも、迷いのなさも、すべてが見事で、少し羨ましかった。
『あの剣技、記録しておきますか?』
「お願いします、ミラ。いつか、ああいうふうに動けたら素敵なのです」
焚き火の明かりが、夜空へと小さな火の粉を飛ばしていく。
遠くでフクロウの声がし、山のシルエットが、真っ暗な空に溶け込んでいった。
「今日の記録:白脈山陵の手前で初めての野営をしたのです!ティト君のご飯がほっとする味で、あの子の剣がとても速くてびっくりしたのです!ちょっと怖かったけど、みんな無事で良かったのです!日報完了!」




