第204話《不穏》
朝の王立学園都市レリティアは、昨日と同じようでいて、どこかだけ違っていた。
空は変わらず澄んでいる。
風も穏やかだ。
けれど、足元の感触が、ほんの少しだけずれているような感覚があった。
ナユは、冒険科の教室の席に座りながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。
石畳を歩く生徒達の足音。
遠くの訓練場から聞こえる木剣の打ち合う音。
すべて、いつも通りの音だ。
それなのに――。
(……なんだか、変なのです)
理由は分からない。
けれど確かに、昨日までの“いつも”と、今の“いつも”の間に、見えない一枚の膜が挟まったような感覚があった。
「ナユさん、どうしました?」
隣の席から、ティトが顔を覗き込んでくる。
「朝からずっと、窓の外を見てますよ」
「うーん……ちょっと、考え事なのです」
「考え事?」
「世界の事、とか……です」
「朝からそんな重い事考えるのは、ナユさんくらいですよ」
ティトが小さく笑った。
前の席では、ルゥとメリアがひそひそと話している。
ルゥがこちらを振り返り、声を潜めて言った。
「ねえ、聞いた?騎士科にさ、今朝すごいのが入ってきたらしいよ」
「すごいの?」
メリアも身を乗り出す。
「転入生だって。しかも、めちゃくちゃ若いって」
「どれくらいです?」
「六歳くらいって噂」
ナユの耳が、ぴくりと動いた。
「……そんなに小さいのに、騎士科なのです?」
「らしいよ」
ルゥが肩をすくめる。
「しかもさ、騎士科の教官が朝から妙にピリピリしてたんだって」
「試験が大変だった、とか?」
「それならいいんだけどね。なんか、“扱いに困ってる”って感じだったらしい」
メリアが口元に指を当てる。
「ちょっと怖いですね……」
ナユは、無意識に胸元に手を当てた。
(……騎士科)
理由は分からない。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
オルランドの事は、誰にも話していない。
話すつもりも、今はなかった。
それでも、心の奥に“何かが始まった”という感覚だけが、小さく残り続けている。
授業が始まる鐘が鳴る。
教室のざわめきが、ゆっくりと静まっていく。
講義はいつも通りだった。
基本魔力制御。
簡易結界の構成。
冒険科一年の、基礎中の基礎。
ナユは、黒板を見ながら、きちんとノートを取っていた。
内容は理解出来ている。
けれど、集中の端々で、どうしても意識が外へ引っ張られる。
(……見られてる、ような気がするのです)
視線。
それも、教室の中ではない。
もっと遠く。
学園のどこか、別の場所から。
昼休み。
中庭のベンチで、四人は並んで昼食を取っていた。
「ナユさん、今日はちょっと元気ないですね」
ティトがパンを手に言う。
「そう?」
「うん。いつもより、ぼーっとしてます」
「そんな事ないのです」
ナユは首を振る。
「ただ、静かなだけなのです」
「それを“元気ない”って言うんだよ」
ルゥが笑った。
「でもさ、騎士科の転入生、ちょっと見てみたいよね」
「見に行くのは、やめた方がいいですよ……」
メリアが不安そうに言う。
「騎士科って、雰囲気だけで近寄りがたいですし」
「それは、分かる」
ルゥがうなずく。
「でもさ、なんか気になるんだよね。“おかしな転入生”って」
その言葉を聞いた瞬間、ナユの胸の奥が、きゅっと音を立てた。
(……おかしな、子)
理由はない。
根拠もない。
ただ、無性に気になる。
ナユは、知らず中庭の奥――騎士科の校舎がある方角へと視線を向けていた。
その瞬間。
遠く。
本当に遠くから。
ほんの一瞬だけ。
視線が、ぶつかった。
誰のものかは、見えない。
姿も分からない。
ただ、“見られた”という感覚だけが、確かに残った。
ナユは、小さく息を飲んだ。
(……やっぱり、変なのです)
昼の風が、静かに中庭を吹き抜ける。
木々の葉が揺れ、いつもと同じ音を立てる。
それでも、世界は昨日と同じではない。
まだ誰も、それに気づいていないだけで。
噂と、視線と、名も知らぬ一人の存在。
それらが、静かに同じ学園の中へと入り込んでいた。
今日という日常は――
すでに、小さく歪み始めていた。
「今日の記録:授業はいつも通りだったのです。ルゥさんとティトさんとメリアさんが、騎士科の変な転入生の噂をしていたのです。わたしは何も話していないのに、なぜか少し胸がざわざわしたのです。学園のどこかから、見られたような気もしたのです。不思議な一日なのです。日報完了」




