第202話《潜入》
夜明け前の王立学園都市レリティアは、霧に包まれて静まり返っていた。
外壁を覆う淡い結界の光が、夜の名残をかろうじて押し留めている。
黒い外套を纏った小さな影が、その外周をゆっくりと歩いていた。
レナ。
それが、今の彼女の名だった。
甲冑は纏っていない。
外套の下は、ごく普通の人間の子供の服装。
背丈も、体格も、六歳ほどの少女にしか見えない。
魔族は年齢を重ねても見た目には反映されない、それ故に今回のような潜入にはうってつけだ。
門の前には、すでに早朝の登校を待つ生徒達の列が出来始めていた。
親に手を引かれた低学年の子供達の中に、レナは何の違和感もなく紛れ込む。
(……ここが、人の育つ場所)
見上げる学園の塔は高く、白い石造りの壁が朝靄に溶けていた。
魔王城とは、あまりにも異なる気配。
剣よりも、学問と育成の気配の方が濃い場所だった。
門番の前に、学院の職員が立っていた。
手には名簿と、封蝋の施された書簡の束。
「本日の編入生はこちらです」
淡々とした声だった。
レナの視線が、わずかに動く。
その書簡の一通は、すでに数刻前にこの場へ届けられている。
後見人の署名、身元証、基礎適性の推薦状。
すべてが整えられていた。
それを整えたのは、この街の外にいる“協力者”だった。
人間の身分を扱う事に長けた、人間側の裏の手。
門番が名簿を読み上げる。
「レナ。騎士科編入扱い。年齢、六歳……もっと幼く見えるな」
名を呼ばれ、レナは一歩前へ出た。
「ここに入る理由を、簡潔に」
職員がそう告げる。
「剣を、学びたい」
短く、静かな声だった。
職員は視線を落とし、書類と顔を見比べる。
「……確かに、試験免除の推薦が付いている」
それ以上は問わなかった。
推薦状の封蝋は、レリティアの正規紋。
疑う理由は、どこにもない。
「本日から仮配属とする。まずは騎士科初等部へ」
「了解した」
それだけで、通された。
門をくぐった瞬間、学園内の空気が戻ってくる。
朝のざわめき。
足音。
笑い声。
魔王城では決して聞こえない音。
(……陛下の残留魔力の反応はこのレリティアにある……陛下に“変化”を与えた何かは、ここにある……興味深い)
歩きながら、レナは学園全体の魔力の流れを感じ取る。
その中に、ひときわ澄んだ光があった。
昨日、遠くから感じ取ったあの“揺らぎ”。
(……いる、なんだこの化け物じみた魔力は)
レナには特殊な魔力感知スキルがあった。
それは騎士科の方向ではなかった。
冒険科の方角。
しかし、今すぐ向かう事はしない。
今の立場は、あくまで“転入生”。
いきなり別科へ干渉すれば、痕跡が残る。
まずは、学園の内側に“席”を作る。
剣を学び。
人を知り。
気配を読む。
それが、陛下の変化を正しく測る唯一の方法。
(……黒剣騎士レナレスは、ここではただの“子供”だ)
レナは、小さな背中で騎士科の校舎へと歩いていく。
その歩幅は幼く。
だが、足運びに迷いは一切なかった。
(光の子……まさかな……)
運命の交差点は、すでに同じ学園の中に生まれていた。
黒剣騎士は、ついに人の育つ場所へと足を踏み入れたのだった。




