第201話《騎動》
夜の闇が、魔王城を静かに包み込んでいた。
闇を切り裂く灯火は少なく、ただ冷たい風が長い回廊を吹き抜けていく。
黒剣騎士レナレスは、一人城の回廊を歩いていた。
甲冑は纏っていない。
黒い外套だけを羽織り、足音をほとんど立てずに進む。
(……陛下の“気”が、変わられた)
彼女は足を止め、天を仰いだ。
胸の奥をざらりと撫でる違和感。
それは恐怖でも不安でもない――明確な“揺らぎ”。
昼間、玉座の間で陛下が戻られた時。
空気が、ほんの僅かに柔らかくなっていた。
冷たい鋼のような魔圧が、刃先を収めたかのように。
(この千年、あの方の波が乱れた事など、一度もなかった)
レナレスは拳を握る。
それは騎士としての忠誠ではなく、一個の剣士としての本能だった。
「――動く、か」
背後から声がした。
堕天の翼を失った男、ロズエルが廊下の闇から現れた。
「……相変わらず、気配を殺すのが下手ですね」
「おや、私を迎えにでも来たのか、黒剣騎士殿」
「違います。貴方が陛下の私室前をうろつく方が問題です」
ロズエルは微笑み、胸に手を当てた。
「陛下の御身を案ずるのは、忠臣として当然でしょう?今宵は……何かが違う。貴女にもお分かりになるでしょう?」
「ええ。感じています」
レナレスの声は静かだった。
しかしその眼差しは、誰よりも鋭い。
「ですが、我々が踏み込む領域ではありません」
「ふむ、貴女にしては随分と慎重だ。いや――興味深い。陛下の変化を“怖れて”いるようにも見える」
「恐れてはいません。敬意を持って観察しているだけです」
ロズエルは唇の端を歪めた。
「ならば、貴女の“観察”が無礼にならぬ事を祈りましょう」
言い捨てて、ロズエルは闇の中へと戻っていった。
その背中には、狂信と陶酔が入り混じっていた。
レナレスはしばらく動かず、ただ沈黙した。
そして、ゆっくりと視線を前へ向ける。
(……陛下は何かを掴まれた。それは“外”にあるものだ)
人間界の方角へ、僅かに指先を伸ばす。
黒い霧がレナレスの足元を包み、淡く輝いた。
「――確認が必要です」
低く呟き、足音を立てずに歩き出す。
誰にも気づかれぬまま、彼女は城を抜けた。
夜明け前の空に、一筋の影が走る。
黒き騎士、レナレス。
その行き先は――学園都市ルーメリア。
主の残留魔力を追う。
そこに“光の子”の影があるとはこの時のレナレスは知らない。




