第200話《変化》
玉座の間に戻ったのは、夜が王城を深く包み込んだ頃だった。
黒い床石に、静かな靴音が一つだけ落ちる。
玉座に座る前に、魔王は短く息を吐いた。
張りつめていた空気が、遅れて揺れる。
「……お戻り、ですか」
最初に声を上げたのはロズエルだった。
「半日もお姿が無かったので心配しましたよ!」
感情を抑えきれない声だった。
立場も距離も忘れたような一歩を踏み出し、しかし直前で止まる。
「……余計な心配だ」
魔王は、いつもと変わらぬ声で答えた。
「戻った。それで十分だろう」
その言葉に、ロズエルは胸に手を当て、深く息を吐いた。
「……ご無事で何よりです」
その背後で、サバリネが腕を組んだまま静かに見つめていた。
「姿を消した理由は、聞かせていただけるのですよね?」
魔王は、視線だけを玉座の前に向けたまま答える。
「良い出会いがあった。それだけだ」
その一言に、空気が僅かにざわめく。
「……出会い、ですか」
ザヴェルが低く呟く。
「珍しい言葉を使われますね」
「そうか?」
「ええ。魔王様が“出会い”と口にされる事など、ほとんどありませんので……それこそ、勇者ゼノアとの出会いの時以来ですかね……」
魔王は、一瞬だけ目を伏せた。
「それほどの事なのだろう」
ロズエルが、抑えきれずに尋ねる。
「……敵、ではなかったのですか?」
「敵ではない」
きっぱりと断じられた。
「脅威でもない。少なくとも、今は」
間違いなく“何か”があった。
だが、魔王はそれ以上多くを語らない。
サバリネは、興味深そうに目を細める。
「魔王様」
「何だ」
「その“出会い”は……世界に影響しますか」
僅かな沈黙。
そして、魔王は静かに答えた。
「いずれ、な」
ロズエルの喉が、無意識に鳴った。
「それは……良い意味で、ですか?」
「どちらにも転ぶ」
その言葉は、曖昧でありながら確かな予感を孕んでいた。
玉座の間に、再び静寂が戻る。
やがて、魔王は静かに立ち上がった。
「今宵は休む」
「かしこまりました」
四天王が、揃って頭を下げる。
だが、ロズエルだけは少しだけ顔を上げたままだった。
「……本当に、ご無事で」
「しつこい」
だが、その声はどこか柔らかい。
魔王は玉座の間を後にし、奥の回廊へと歩いていく。
闇は静かにその背を包み込んだ。
その先にあったのは、壁に掛けられた、一本の剣。
魔王は、その前で止まった。
聖剣ルミナリス。
これまで、何度手を伸ばしても“拒まれてきた”剣。
触れれば弾かれ、決して応えなかった光。
だが――
今宵は、違った。
柄に添えた指先に、拒絶がなかった。
光が、静かに脈打つ。
剣が、初めて“重さ”を持った。
「……ほう」
魔王は、ゆっくりと柄を握った。
弾かれない。
拒まれない。
むしろ、応じるように、淡い光が刃を走る。
「変化、か」
誰に言うでもなく、呟く。
それは敗北でも、屈服でもない。
ただ、確かに――
魔王という“存在”が、一段階、上がった証明だった。
剣を壁へ戻し、魔王は踵を返す。
闇の中で、その背に宿る気配だけが、わずかに変わっていた。
その夜。
魔王城は、何事もなかったかのように静かだった。
だが確かに――
世界は、また一歩だけ、姿を変えたのだった。




