第199話《紹介》
王城の門を出ると、石畳の通りには夕方の人波が戻り始めていた。
商人の呼び声と、馬のいななきと、遠くの鐘の音。
いつもと同じ王都の風景だった。
ナユは、その中を歩いていた。
すぐ隣には、黒い気配を静かに纏ったまま歩く魔王の姿がある。
「このまま、家に行くのです」
「構わぬ」
短い返事だった。
けれど、拒む気配はない。
歩きながら、ナユはふと顔を上げた。
「そういえば、あなたの名前を聞いてないのです」
「名か」
魔王は一度だけ空を見上げた。
「……我に名はない。呼び名など、必要とした事も無かった」
「それは不便なのです!」
ナユは即答した。
「呼びやすい方が良いのです。名前をつけてもいいのです?」
「名付けとは、軽いものではないぞ。召喚主が名を与えれば、魔力を喰う。下手をすれば主が倒れる」
「魔力なら、いくらでもあるのです」
にっこりと笑って、ナユは胸を張った。
「だから、大丈夫なのです!」
魔王は小さく息を吐く。
「……好きにしろ」
「うーん……そうなのです。じゃあ――」
ナユはしばらく考え込み、やがて目を輝かせた。
「“オルランド”なのです!」
「オルランド?」
「うん!とある世界で、一番強くてかっこいい人の名前なのです!」
その瞬間、空気が震えた。
黒い雷が淡く脈動し、周囲の空気がピリついた。
魔王――いや、オルランドは僅かに目を見開いた。
「……なるほど。悪くない」
「気に入ってくれたのです?」
「名に、力が宿った。どうやらお前の“イメージ”が反映されたようだ」
ナユは嬉しそうに笑う。
「これで今日から“オルランド”なのです!」
「……好きに呼べ」
やがて、馴染みの門が見えてくる。
石造りの塀と、重厚な鉄の門。
いつも通り、衛兵が二人立っていた。
「ただいまなのです」
ナユが手を振ると、衛兵達は一瞬だけ固まり、それから慌てて敬礼した。
「お、お帰りなさいませ、ナユ様……そちらの方は……?」
「今日から、わたしと契約した人なのです」
衛兵はそれ以上聞かなかった。
聞いてはいけない、と本能で悟った顔だった。
門が開く。
庭を抜けて玄関へ向かう間も、オルランドの足取りは変わらない。
「ここが、お前の住まいか」
「そうなのです!お家なのです!」
ナユはくるりと振り返り、にこっと笑う。
「ようこそ、なのです」
扉を開けると、すぐに足音が近づいてきた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
セバスチャンが姿を現した。
その背後から、ミナと、お父様、お母様も顔を出す。
「ナユ、遅かったじゃない……」
「王城から急なお呼びと聞いていたが、無事だったか」
「はいなのです!」
ナユは胸を張る。
「ちゃんと無事に戻ってきたのです。それで――」
横へ退き、オルランドを見せる。
「この人が、その……今日わたしと契約した、魔王――じゃなくて、オルランドなのです!」
空気が止まった。
ミナが小さく息を呑む。
お母様の指先が震える。
お父様は、無意識にナユの前へ一歩出た。
セバスチャンだけが、僅かな間の後、静かに頭を下げた。
「遠路はるばる……お疲れ様でございます」
オルランドは、その礼を受け止めるように視線を落とす。
「この家の主か、かなりの実力を隠し持ってるな?」
「いえ、私は使用人に過ぎません」
父が、咳き込みながら一歩進み出た。
「わ、私がナユの父だ。今日は……娘が世話になった」
「命は取られておらんから、そういう事になるな」
「取る気は最初から無かったのです」
ナユがさらりと補足する。
「こういう契約は、無理やりだと後が面倒なのです」
オルランドは一瞬だけ沈黙した。
「……発想が商人のそれだな」
「ちょっとした昔の、クセなのです」
両親が同時にナユを見る。
「ナユ、あなた……魔王……オルランドさんと戦ってたの!?」
「はいなのです。ちゃんと勝ったのです」
「そうでなければ、ここにはおらん」
オルランドの一言が、さらりと重みを足した。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、セバスチャンだった。
「……契約、でございますか」
「はいなのです」
ナユはこくりと頷く。
「わたしが呼んだ時に来てくれるのです。緊急の時とか、組手をして欲しい時とか、そういう時に」
「まるで業務委託のような言い方だな」
「はいなのです。わたしが発注して、オルランドが対応するのです」
「我は一応、魔族の長なのだが」
「ですから、他社の社長さんなのです」
屋敷の空気が一瞬だけ凍った。
「……他社?」
「掛け持ち契約みたいなものなのです。本業も大事なのです」
ミナが、そっとナユの袖を引く。
「お、お嬢様……それ、怒らせてない……?」
「今の所は、耐えられているな」
オルランドは静かに息を吐いた。
「我にも、我が国で為すべき事がある。この家に常に留まる事は出来ぬが、それで構わぬのだな?」
「構わないのです。呼んだ時だけでいいのです」
「その“呼び出し”は、いつでも可能なのか」
「はいなのです。契約で魔力が繋がっているのです」
お父様とお母様が、同時にナユを見る。
「ナユ。本当に危なくはないのか」
「命だけは、保証する」
オルランドが、先に言った。
「この娘が望まぬ限り、我はこの家にも、この国にも手を出さぬ」
お父様は、長く息を吐いた。
「……分かった。すぐには受け入れきれんが、今はナユの判断を信じよう」
「ありがとうございますなのです」
ナユはぴょこんと頭を下げる。
「ただし」
お母様が、きゅっと眉を寄せる。
「ナユ、命を賭けた組手は禁止よ」
「命は賭けないのです。ちゃんと労災の出ない範囲でやるのです」
「労災という概念が通じぬ相手なのだがな」
オルランドの呟きに、家族全員の視線が刺さった。
「……努力はしよう」
オルランドが、ほんの少しだけ肩をすくめる。
重かった空気が、僅かに緩んだ。
「では、お食事にしましょう!オルランドさんも帰る前にどうぞ!」
ナユの母が物怖じせずに食事を勧める。
オルランドが、ナユの方へ向き直る。
「お母様とセバスチャンが作るご飯は絶品なのですよ!」
「いただこう」
魔王は目を細めながらそう言った。
◆
食事が終わり、夜が更けてくる。
「今日は一度戻る。我にも心配する家臣がいるのでな」
「分かったのです」
ナユは笑う。
「今日は契約してくれてありがとうなのです。また来てくださいなのです」
「……業務連絡のように言うな」
それでもオルランドは、夜空を見上げる。
「では、まただ」
静かな闇が足元に集まり、深い影が門の形を取った。
その姿は、闇に溶けるように消えた。
残されたのは、いつもの玄関先と、信じがたい静けさだけだった。
「……ナユ」
お母様が、そっと娘の肩を抱く。
「本当に、無茶はしないでね」
「大丈夫なのです」
ナユは、その腕の中で小さく頷いた。
「契約は、絶対なのです!」
お父様とセバスチャンとミナは、その言葉にそれぞれ違う意味で頭を抱えた。
「今日の記録:王様との話が終わって、オルランドと一緒に帰ったのです。途中で名前をつけてあげました。“オルランド”なのです! とっても強そうな名前なのです。お父様とお母様に紹介したら、すごく驚かれました。労災の話はあんまり通じなかったのです。オルランドは一度帰りましたが、呼んだらすぐ来てくれるのです。これから、どうやって上手く付き合っていくか考えるのです。日報完了」




