外伝105.5話《聖夜》【前編】
冬の王都は、白い吐息で満ちていた。
雪はまだ降っていない。
それでも空気は鋭く、指先の感覚がゆっくりと奪われていく。
石畳の道を、ナユは小さな靴音を立てながら歩いていた。
外套の中で、体は冷えていない。
だが、街の“冷たさ”は、肌よりも先に胸へと染み込んでくる。
(……寒いのです)
屋台の灯り。
人々の往来。
どれも平和な冬の王都の光景だった。
その端で。
ナユは、ひとりの子供に目を止めた。
小汚れた外套。
靴は左右で高さが違う。
頬は赤く荒れ、指先は紫がかっている。
年の頃は、自分と同じくらい。
(……おかしいのです)
ただ貧しい、というだけではない。
怯え方が、異質だった。
子供は、裏路地へと入っていく。
ナユは足音を殺し、《シャドウメア》を薄く重ねて後を追った。
石壁に囲まれた狭い空間。
そこにあったのは、古い建物――孤児院だった。
扉の向こうから、怒鳴り声が響いた。
「飯が遅ぇんだよ!」
乾いた音。
鈍い衝撃音。
続いて、子供の押し殺した泣き声。
ナユの足が止まった。
(……は?)
怒りが、音もなく胸に満ちた。
ナユは壁越しに、遠隔で《レイ・エッジ》を一点だけ撃ち込んだ。
刃は木製の机だけを切り裂き、神父の目の前で止まる。
「……誰だ!」
同時に、ナユの声が響く。
「やめるのです」
「ガキが口を出すな!」
「虐待は許されないのです」
「子供のくせに何が分かる!」
ナユは、静かに言った。
「分かるのです。痛いのは、嫌なのです」
神父は嘲笑った。
「この寒さで生きていけると思ってるのか!俺がいなきゃ、こいつらは死ぬんだ!」
その瞬間。
「セバスチャン」
低く、短い一言。
次の瞬間、空気が変わった。
「――はい。お嬢様」
気配もなく現れたセバスチャンに、神父の顔色が変わる。
「今回の件、王城へ報告するのです」
「やめろ!それをしたら、こいつらは凍え死ぬぞ!」
ナユは、静かに一歩踏み出した。
「それなら」
「わたしが、守るのです」
「子供が何を――」
「この方は男爵の爵位をお持ちです」
セバスチャンの声が、冷たく響いた。
「名は、ナユ=ハルメリア様になります」
その名を聞いた瞬間、神父の膝が崩れた。
だが、子供達はまだ震えている。
濡れた床。
破れた毛布。
このままでは、本当に凍え死ぬ。
ナユは、外へ向けて手を伸ばした。
「風よ……水よ……!!」
空気に、細かな水気が集まる。
それを、風が包み込む。
水が凍り、風が形を与えた。
庭先に、静かに生まれたのは――淡い白の雪。
だがそれは、冷たくない。
触れても、痛くない。
凍った空気を解きほぐす、優しい雪だった。
奪われていた体温が、ゆっくりと戻っていく。
子供達の震えが、少しずつ止まった。
その光景を見つめていた少女が、ぽつりと呟く。
「……あったかい……」
ナユは、少女に微笑んだ。
「大丈夫なのです」
その夜。
それは、ただの冬の夜だった。
だが――
その少女にとっては、確かに“奇跡の夜”になった。




