第1話《転生》
はい、始まりました!!
異世界転生もの!!!
2026/03/24 加筆修正しました。
女が落ちてきた。
夜のオフィス街だった。
終電までは、まだ少しある。
けれど街はもう一日を終えた顔をしていて、立ち並ぶビルの窓だけが白く冷たく光り、そこに残された人間の時間だけが、回収されずに吊るされているみたいに見えた。
男は肩を落として歩いていた。
くたびれた革鞄が、歩くたびに脚へ当たる。
スマホはさっきから震えっぱなしだ。
――資料、明日の朝までに再確認お願いします。
――先方への返答、今夜中に要相談です。
――すみません、資料どこにありますか?失くなりました!
知るか!
知らないし、今聞くな。
資料を失くしたのはお前だろうが。
喉まで出かかった言葉を、男はいつものように飲み込んだ。
反論した所で仕事は減らない。
誰かが雑に投げた物は、結局いちばん拾いやすい人間の所へ落ちてくる。
黙って片づけるのが、一番早い。
そうやって今日まで生きてきたし、たぶん明日もそうするのだろうと、半ば諦めたように思っていた。
赤信号で足を止める。
ぼんやりと点滅する横断歩道の白線を見ながら、ふと、どうでもいいことを思い出した。
昔は、休みの日に当てもなく歩くのが好きだった。
知らない駅で降りて、細い路地に入り、古びた喫茶店や小さな書店を見つける。
誰に見せるでもない写真を撮って、気になった物を一つだけ買って帰る。
そんな、なんでもない時間が好きだった。
いつからだろう。
休日は寝るための日になり、起きても仕事の通知を確認し、明日の段取りを考えるようになったのは。
自分の時間は、少しずつ削られて、気づけば形も残っていなかった。
せめて今度の休みくらいは、どこか遠くへ行こうか。
そんなことを、ほんの少しだけ思った、その時だった。
風が変わった。
上から、空気を裂く音がした。
反射で顔を上げる。
黒い夜空の中、何かが落ちてくる。
人だった。
長い髪が夜に散る。
女の人だ、と理解した瞬間には、もう遅かった。
「えっ――」
声は途中で潰れた。
次の瞬間、全身を叩き潰すような衝撃。
骨が軋む。
肺が悲鳴を上げる。
地面が視界いっぱいに迫って、次には遠ざかる。
自分が倒れたのか、世界が傾いたのかも分からなかった。
息が出来ない。
痛い。
寒い。
身体の内側から、自分というものが少しずつ抜け落ちていくみたいだった。
滲む視界の端に、女の横顔があった。
若い。
泣いていたような顔だった。
唇が震えて、何かを言う。
ごめんなさい。
たぶん、そう言った。
サイレンはまだ聞こえない。
誰かが叫んでいる。
足音が近づいてくる。
けれど全部、薄い膜を隔てた向こう側みたいに遠かった。
死ぬのか、と男は思った。
こんなふうに。
朝から晩まで働いて、他人の尻拭いをして、帰ったらコンビニ飯でも食って寝るだけの一日だった。
特別なことなんて何もない。
明日の昼は、少し良い弁当でも買おうか。
今度の休みは、昔みたいに知らない街を歩いてみようか。
そんなことを、ようやく少し考え始めた所だった。
これで終わりなのか。
もう一度、自分の時間を取り戻すこともなく。
誰かに急かされずに、一日を丸ごと使うこともなく。
やり直す余地すらないまま。
ふざけるな、と思った。
だが怒鳴る力もない。
代わりに浮かんだのは、我ながら嫌になるほど仕事人間らしい考えだった。
――まず、状況確認だ。
何が起きた。
誰が落ちてきた。
責任はどこにある。
どうして自分が死ぬ。
そこまで考えて、意識が途切れた。
◆
気がつくと、男は白い場所に立っていた。
白い、というより、何もない。
床も、壁も、天井もない。
ただ透き通るような光だけが、どこまでも静かに満ちている。
「……ここは」
声は出た。
身体も動く。
なのに、生きている実感がない。
心臓が打っている感じも、肺で息をしている感じもないのに、自分だけがここにある。
前方に、一つの存在がいた。
人の形をしている。
だが、人間ではないと一目で分かった。
柔らかな光の中に立つその姿を見ているだけで、胸の奥のざわつきが不思議と静まっていく。
怖いはずなのに、理屈より先に理解してしまう。
神だ、と男は思った。
相手は男と目が合うと、ためらいなく深く頭を下げた。
「申し訳ない」
まっすぐな謝罪だった。
取り繕いも、逃げもない声音だった。
男は一瞬、言葉を失った。
神は頭を下げたまま続ける。
「君は本来、あの夜に死ぬ運命ではなかった」
男の胸の奥が、ひやりと冷えた。
「だが、あの女性が落ちる瞬間、本来なら彼女だけが終わるはずだった因果に、君が巻き込まれた。私の手違いだ。運命の継ぎ目を誤った」
「……つまり」
喉が妙に乾く。
「本来なら死ななくてよかった俺が、そっちのミスで死んだと」
「そうだ」
神は顔を上げた。
その表情に、言い訳はなかった。
「彼女は生きた。君は死んだ。入れ替わるようにして」
男は黙り込んだ。
理不尽だと思う。
怒りもある。
叫んで責め立ててやりたい気持ちもある。
人生を丸ごとひっくり返されて、平気でいられるわけがない。
けれど目の前の神は、最初から逃げていない。
自分の落ち度だと認めて、頭を下げている。
そのせいで、怒りの向け先が逆に定まらなかった。
「……最悪ですね」
ようやく出た言葉が、それだった。
「その通りだ。本当にすまない」
「謝って済む話じゃないですよ。こっちは人生ごと潰れてるんです」
「分かっている」
「分かってるなら、せめて事前に報告と連絡と相談をしてほしかったな……」
言ってから、男は自分で少し笑った。
死んだ直後に報連相。
本当に、自分はどうしようもなく仕事に毒されているらしい。
神はわずかに目を細めた。
「極限でも、自分を見失わないのだな」
「違いますよ。ただ、会社員は事故のあとでも思考回路が業務なんです」
吐き捨てるように言ってから、男は息を吐いた。
「……で、俺はこれからどうなるんですか」
「道は二つある。このまま天へ行くか、別の世界で新しい生を得るかだ」
「元の世界には戻れないんですか」
「出来ない。君の死は、すでに確定してしまった」
その言葉は、想像以上に重かった。
戻れない。
会社にも、部屋にも、昨日までの自分にも。
駅前の安い定食屋にも、仕事帰りにたまに買っていた缶コーヒーにも、面倒だと思いながら慣れてしまった生活の全部にも。
もう二度と。
男はしばらく目を閉じた。
思い返す。
朝の満員電車。
夜の通知音。
休日にまで入り込んでくる仕事。
誰かのミスを、当たり前みたいに拾わされる毎日。
自分の人生なのに、自分の裁量がどこにもなかった日々。
それでも、生きているうちに変えられるかもしれないと、どこかで思っていた。
少しずつでも取り戻せるかもしれないと。
だが、その“少し先”は、もうない。
だったら、次は。
次くらいは。
失敗してもいい。
遠回りしてもいい。
誰かの正解じゃなくていい。
せめて一度くらい、自分で選んだ結果で生きてみたい。
男は目を開けた。
「じゃあ、転生でお願いします」
「分かった」
「あと、美少女で」
神が初めて、はっきり黙った。
「……美少女?」
「大事ですよ」
男は真顔で言った。
「どうせ新しい人生なら、今までと徹底的に違うほうがいい。中途半端が一番駄目です。それに……浪漫でしょう?」
「浪漫で人生の条件を決めるのか」
「死んだ後くらい、浪漫で決めさせてくださいよ」
「君は思ったより図太いな」
「理不尽に死んだんです。これくらい図太くなきゃやってられません」
神は困ったように眉を下げた。
だが、その口元にはわずかな苦笑が浮かんでいた。
少なくとも、この願いは呆れられても、退けられはしないらしい。
男はそこで、もう一つの願いを口にする。
「それと、絶対に欲しいものがあります」
「聞こう」
「どんな願いでも叶えられる力をください」
白い空間に沈黙が落ちた。
神の表情が、わずかに厳しくなる。
「……それは大きすぎる。世界の均衡を壊しかねない」
「でも、今回の件はそっちの手違いでしょう?」
男の声は静かだった。
怒鳴りはしない。
その代わり、一歩も引かなかった。
「俺の人生が一つ、そっちの都合で消えたんです。新しい命を一つもらって終わりじゃ、釣り合わない」
神は男を見つめた。
試すように。
量るように。
「君は力が欲しいのか」
「違います」
男は首を振った。
「欲しいのは、選べる余地です」
白い光の中で、その言葉だけが妙にはっきり響いた。
「前の人生は、何もかも勝手に決まっていく感じだった。仕事も、時間も、都合も、優先順位も、全部誰かが持っていった。俺はそれに合わせて、削れていくだけだった」
声が、自分でも驚くほど澄んでいた。
怒りよりも先に、諦めていたことが分かる。
その諦めを、ようやく言葉に出来た気がした。
「もう嫌なんです。何も選べないまま終わるのは」
一歩、踏み出す。
「正しい願いじゃなくていい。綺麗な生き方じゃなくていい。失敗しても、遠回りしてもいい」
「でも、今度こそ自分で決めたい」
「自分で望んで、自分で責任を取って、自分の人生を進みたいんです」
神の表情が静かに変わった。
わずかに、哀しむように。
「……そうか」
やがて神は手を差し出した。
その掌に、小さな光が灯る。
「ならば与えよう。一日に一度だけ。どんな願いでも、この世界の理を越えて叶える力を」
男の鼓動が強くなる。
「本当に?」
「ただし、万能であっても無責任ではない」
神の声は、先ほどまでとは少し違っていた。
優しいだけではない、重さを帯びている。
「願いは必ず世界に波紋を残す。小さな願いでも、人の運命を変え、街の形を変え、時に国さえ揺らす」
男は息を呑んだ。
「そして一度叶えた願いは、なかったことには出来ない。救いのつもりが災いになることもある。善意で踏みにじることもある。それでも望むか」
光が、わずかに脈打つ。
試されているのだと分かった。
便利な力を欲しがった子供としてではなく、その先を背負えるかどうかを見られている。
男は迷わなかった。
「責任込みで受けます」
「……よろしい」
神が頷いた瞬間、光が男の足元から立ちのぼりはじめる。
身体の輪郭が淡くほどけていく。
意識が遠くへ引き延ばされる。
「君が向かう世界は、今、平穏とはほど遠い」
神の声が、少し遠くなる。
「飢え、病み、奪い合い、明日を願うことすら難しい者が大勢いる」
男は目を見開いた。
「だが同時に、だからこそ願いは意味を持つ。君が何を選ぶかで、救われるものも、壊れるものも出るだろう」
世界が揺れる。
視界の端で、白い光の向こうに何かが見えた気がした。
暗い夜ではない。
もっと濃い、もっと重い闇。
そのどこかで、かすかな泣き声のようなものが聞こえる。
その寸前、男の脳裏にあの夜の女の顔がよぎった。
泣きそうな横顔。
震える唇。
ごめんなさい、という声。
「あの人は……これから、生きるんですか」
消えかけた声でそう問うと、神は短く答えた。
「生きる。君の死を背負って」
男は目を閉じた。
それが救いなのか、罰なのかは分からない。
あの女がこの先、どんな顔で生きていくのかも知らない。
けれど、もし自分の死に意味を与えられるとしたら、それはたぶん、次をちゃんと生きることだ。
もう、誰かに勝手に使い潰させない。
神の手違いでも。
運命の都合でも。
他人の都合でも。
今度こそ、自分で選ぶ。
光が弾けた。
そして男は、新しい人生へ落ちていった。
――遠くで、赤ん坊の泣き声がした。
――それに重なるように、誰かの切羽詰まった声も。
その声が助けを求めているのだと理解するより早く、男の意識は深い闇へ沈んでいった。
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