【アップ】2025年3月16日主日公同礼拝/讃美歌とMy noteもあります
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
https://blog.ameba.jp/ucs/top.do
【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(不思議のパルプンテ)
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
※過去にアップした記事を再掲載しております^^
【本日のメッセージ】
https://www.youtube.com/live/T4yPuATbxEI
【ブログ】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12891076767.html
(ブログを見てくださると聖書を閲覧できます)
讃美歌~♬
讃美歌154番
https://www.youtube.com/watch?v=RP6b9jM078s
1)地よ 声たかく 告げ知らせよ
きょうイェス君は よみがえれり
いのちの君は あまつ園に
われらを召して 入れたまえり
2)とこよのひかり てりかがやく
みくらにいます 君を仰がん
あめより漏るる かちうたにぞ
地なるわれらも 声をあわせん
3)あめよ よろこべ つちよ うたえ
ものみなともに ほめたたえよ
イエス君きょうぞ よみがえれる
ああかぎりなき さかえの日よ
讃美歌526番
https://www.youtube.com/watch?v=tCeCRg3XCiQ
1
主よわが主よ 愛の主よ
主はわが身の 救い主
かくまで主を愛するは
今日初めの 心地して
2
主は十字架を まず負いて
愛の御手を伸べたもう
かくまで主を愛するは
今日初めの 心地して
3
生ける時も 死ぬる日も
声の限り かく歌わん
かくまで主を愛するは
今日初めの 心地して
4
玉の冠 受くる時
この歌をば 主にささげん
かくまで主を愛するは
今日初めの 心地して
2025年3月16日 礼拝説教 聖書箇所
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマの信徒への手紙10章9節
主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」
イザヤ書28章16節
はじめに
キリストのまったき救いへの感謝の応答、信仰告白について学びを新たにしたい。
1
「(あなたの)口でイエスは主であると公に言い表し」と、使徒パウロは、「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉」という、福音の奉仕者たちが、宣べ伝える福音(勝利の宣言)を具体的に明らかにする。それは、「イエスを主」と告白すること。「主」とは、生けるまことの神という御名。真のキリスト教(聖書の教え)は、ただお一人の神の御子、独り子でいます、「主」、イエス・キリストにおいてほかに、救いはないという福音の真理を伝える。「キリストは律法の目標(終わり)」とは、キリストが、完全な義を満たす方として律法に終わりとなられたこと。それは、決して、人の行いによっては果たすことはできない。かつてどれほど心をかたくなにし、偶像をむなしく礼拝していたとしても、聖霊は、「イエスは主」と告白させてくださる(コリント一12章3節)。パウロ自身、ダマスコ途上で、天からの光とイエスの問いかけと命令の中で、召命を与えられた(使徒9章)。それは、十字架にかけられたナザレのイエスについて完全に方向転換(回心)を迫られた時。
2
「(あなたの)心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるから」。イエスを主と告白することは、事実上、復活の主イエスを信じることと一つ。キリスト信仰は、受肉(降誕)し、十字架と復活・昇天(着座)の主、生けるキリストにおいてのみ正しく認識され、告白される。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2章6~8節)と初代教会の賛美歌詞において告白されるとおり。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになり」「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」(同9~11節)。
イエス・キリストは、罪人の身代わり死なれただけでなく、悪と死の力をうちやぶってくださった。イエスを主と告白することは、イエスが、まことの神にしてまことの人であることを告白すること。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」(ヨハネ10章29.30節)と、
主イエスは、御自身のもとに来る者を確かに守り、信仰告白に導いてくださる。
3
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」とは、以上の事柄を要約して確認するもの。「故に、心に信じて義に至り、口で告白して救いに至る」と訳される。それは、まことの信仰の明確な目標、キリストの義と、本当の救いを明らかにする。さらに「故に、聖書は、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いている」と証しし、「故に、ユダヤ人とギリシャ人の区別(相違)はなく」「故に、すべての人に同一の主がおられ、彼(主)を呼び求めるすべての人を豊かに(祝福される)」。「故に、『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』」パウロの思いは、ただ一つ、同胞のイスラエルの救いのみならず、すべての人が救われて、キリストの栄光をほめたたえる希望の告白に生きること。
おわりに
真の預言者は、「信ずる者は慌てることはない」と告げた。今や、信仰は「主キリスト」において確かなものとして認められる。義と救いも、そして、生涯と、世界の終末も。
(My note)
二〇二五年三月一六日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「どうして、イエス・キリストは、人間になられたのと同じ人格において、神でなければならなかったのですか。」
「死に打ち勝ち、私達の為に、救いに値するものとなるためです。」
「もしわたしを信じ、私に留まって居るなら、あなた方は本当に私の弟子です。またあなた方はその真理を知ります。その真理は正しい」とイエス様は弟子達を始め、全ての人に伝えた。罪を犯す者達は罪の奴隷。その奴隷の内からキリストの真理(正しい信仰)により救い出されねばならない。これは全ての人に共通の救いである。イエス様は天の父なる神様の一人子、でもその事を当時の人達を始め、現代でも罪の内の人々は信じない。キリストに依り救われる為には、信仰に於いて神様の真理をただ信じる事、その事に尽きるのである。
(公同礼拝)
『ローマ人への手紙』(第一〇章五〜一三節)
『イザヤ書』(第二八章一六〜一八節)
両箇所は、先週からの学びの続きである。
信仰は先ず、聖書に聴く事が大事である。聖書に聴くとは、神様が人に教えた義(正義)を知り、その正義を実行する事に在る。これがイエス様の時代(当時)の人々を始め、現代人にも手強く、難しいものである。
心から自分の言葉と感情で祈る上、その祈りがその正義に沿わねばならない。
「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスを甦らせたと信じるなら、あなたは救われる」
心の底からキリストの真理・正義を信じれば、その口から出るものは、その真理と正義から出るものになる。礼拝の時でも讃美歌を歌う時でも、心から神様を信じ、その喜びと恵みを感じる思いからその行動を続ける事が大事になる。
教会内でも、自分の救いを人生・経験を通して証し、礼拝の時は心から神様の御言葉に耳を傾ける。でもそれが終わればその直後にもう別の心と入れ替えて居り、神様に聴く真理・正義を忘れた様に行動し、俗世に戻って居る。この事はよく見られる人間の行為に在り、本当に救われて居るかが誠に問われるのである。詰り礼拝や賛美が、習慣・儀式・ゴッコで終わっては成らないと言う事。でなければ、その全てが口先だけの信仰と成る。
他の宗教にしても同じであり、現代人は腰掛け程度に「自分を守って欲しい・自分に何らの利益をもたらして欲しい」とだけ祈り、宗教に寄り付き、それがある程度満たされたり、諦めて終われば、その宗教を離れ、とにかく自分中心の生活に戻る。神様が主ではなく、ただ自分が主と成って居り、それを当り前とし、これも習慣で自分に慣れさせる。これで現代、多くの宗教と人間の関係と内実が成り立って居ると言えよう。
キリストの真実・正義のみが唯一救いであるとする上で、邪教に於いても人々はその宗教を「自分(自分達)の都合の好い道具」として見て考え、自分・自分達中心の生活の一部として居る。
熱心に信仰生活を歩む上でも「自己完結の信仰」を保つ事が多く、この場合、
「キリストは、全て信じる者に義を得させる為に、律法の終りと成られたのである。」(『ローマ人への手紙』第一〇章四節)
と言う御言葉が置き去られる事になり、その意味も救いも無視した姿勢で生きて行く事になる。「信仰とはこう言うものだ!」と人が自分で取り決め、聖書の内容・御言葉を人間の解釈のみに終始させ、神様とイエス様の存在を決めれば、その決めた人が神となり、人間である故の傲慢・邪教に繋がる悪魔の側に立つ事に成る。この「自己完結の信仰」の点でクリスチャンもノンクリスチャンも本当に躓き易く、常に注意して信仰を見直し、聖書に聴かねばならない。何がそうさせるのか?これを問う必要がある。
その場合の多くは、船の船頭をイエス様でなく、自分に置き換えて居る事、自分の聖書解釈が行き過ぎ、人間主観の世界(経験による感情)に埋没し、聖書の御言葉を見落とす事に始まって居る。これにより都合の好い御言葉だけを拾ってその時の自分の糧にして、信じた心算になる事が、罪の内に在る人が多くする事に在る。
そしてその場合でも、全ての人は信仰に依る良心の声を聴き、自分の軌道修正の必要を知る事がある。その声を、果してどれだけ注意深く聴き、受け留め、実行に移せるかが大事になる。
この信仰の点で他人の事は問題に無く、常に自分の信仰がどうキリストの真理・正義に向き合うか?が重要であり、その事だけを問い、先ず遜る事が大事となる。
パウロは、サウロである時に神様の御声を聴き、その人生が一八〇度変えられ、信仰に生かされる人になった。ペテロもイエス様に付き従い、自分の信仰は本物だ(誰より厚い)と自分で自分に信じて居ても、その直後にイエス様を裏切り見捨て、その後にイエス様に改めて諭され励まされ、愛されて信仰に強い人となった。誰にでも、この瞬間が必ず訪れる。人知れずこの時期が訪れ、その時に神様に聴き、信仰に依る良心に従い、神様から与えられる働きを実行する事が大事になる。
その人が自分を知る以上に、神様はその人の事を全てご存知である。その人の生前・死後を知って居られ、地に誕生した理由をご存知であり、その人が生きる為のエネルギーの全てをご存知である。その上で全ての人には自由な選択肢が与えられて居り、それは罪人である人の信仰の成長に必要とされ、人はキリストの信仰に依り、正しい人生を歩む事がいつでも必要と成る。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Caffe〜
榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」
https://www.youtube.com/watch?v=MCyjy8BuIIw&t=2s
「SEIZE THE DAY / 今を生きる」
https://www.youtube.com/watch?v=A7Aobi9nmWM
イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)
https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin
不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬