99. 限界と告白
ノエルは、気配に肩を震わせて目を覚ました。喉が焼けて、舌に金属の味。こめかみが脈打ち、視界の端が暗い。――目の前に、リヴィアの顔。
思わず跳ね起きる。胸がきゅっと掴まれ、肺が空気を拒む。
「……失礼しますね」
リヴィアが立ち上がり、出ていこうとする。
その瞬間、ひそやかな白花の香りが鼻先をかすめ、痛む頭の縁だけが少しやわらぐ。逃したくなくて、ノエルの指が――掴むというより、縋るように伸びた。
「待って、リヴィア。謝りたくて」
「そのこと、ですか」
コン、コン――。
扉を叩く乾いた音が、杭のように頭蓋へ打ち込まれる。
「ノエル様ぁ! いらっしゃいますよね? 中に入ってもいいですか?」
「……ノエル、呼んでいますよ」
「……いやだ」
「え?」
「いやなんだ」
自分でも幼い言い方だと思う。けれど、喉がうまく動かず、これ以上の言葉が出てこない。
「ええと、では、私は行きますね?」
「それも嫌だ」
「……ノエル?」
リヴィアがこちらの異常に気づく。
せっかく会えたのに、またあのむせ返るムスクに世界を支配されるのが――怖い。心底、怖い。
「お願い、リヴィア。行かないで」
「……とりあえず、彼女には帰ってもらいます。ノエルは、ここで隠れていてください」
リヴィアはブランケットを肩まで掛けてくれる。
布の闇は心地よいのに、匂いは遮れない。甘く重たい香りが布目を抜けて侵入し、胃が反転する。指先が冷たく痺れ、こめかみの鼓動が速まる。息を吸う、二つ、吐く、三つ――うまく整わない。
扉が開く気配。匂いが濃くなる。吐き気を嚙み殺し、気配を消す。
「あれ? ノエル様は?」
「今はここにいません。ご用件は?」
「ノエル様に用があるの。あなたには関係ありませんわ」
「……関係なくは、ありませんね。私は彼の婚約者ですから」
「……ああ、あなたが」
空気が、氷のように冷えた。
「あなたが、オスカー・シュタインに色目を使って陥れた――リヴィア・ラヴェルナね」
「……何の、ことでしょう」
「とぼけないで。去年の式典で、あなたがオスカーに“自分を誘拐するように”唆したのでしょう?」
(――!?)
王族が伏せたはずの件だ。よりにもよって、リヴィアに。怒りが胸を焼くが、動けば吐く。歯を噛んでやり過ごす。
「そんなことはしていません」
「ノエル様から聞きましたよ。式典前もずっと一緒で、仲睦まじかったって。婚約者の身で、なんてふしだら」
(そんな話、したこともない……)
「彼とは実行役員として一緒に仕事をしていただけです」
「そうかしら? まあ、ノエル様はまもなく私の婚約者になりますから。早めに次のお相手を探しておいた方がいいと思いますよ。――得意でしょう?」
「……どういう意味ですか」
「いずれわかります。彼は、私のものですから」
バタン。
残ったのは、甘い重さだけ。ノエルはブランケットを外し、震える手で額を押さえながらリヴィアを見る。
彼女はしばらく扉を見つめ、それからも振り向かない。沈黙が落ちる。耳鳴りが、沈黙の上で鳴り続ける。
「……ノエル、どういうことですか?」
責める色を帯びた声。言葉が喉で砕ける。
「……わからない」
「なぜ、彼女が“あのこと”を?」
「わからないんです!!」
自分の声が跳ね返り、頭の内側で爆ぜる。視界の縁がさらに黒く縮む。
(また、やってしまった)
後悔が波のように押し寄せ、膝から力が抜ける。ドアノブが鳴る。行ってしまう――その想像だけで胸が締め上げられ、指が勝手に伸びた。
「……お願い、行かないで、リヴィア。話を――させてほしい」
ムスクが一段と濃くなった気がした。脈が合わず、呼吸が空回る。頭痛が鼓動と同じリズムでがんがんと鳴る。白花のかすかな余香に、最後の意識を縋りつかせる。
「お願い、リヴィア……」
視界がすうっと遠のき、音が水の底へ沈む。ノエルの意識は、そこで途切れた。
*
「……ノエル?」
まぶたの縁に柔らかな影が落ちる。目を開けると、至近にリヴィアの顔があった。
光をすくう亜麻色の髪、長い睫毛の影に澄む薄紫の瞳――ここ数日、何度も脳裏で反芻した“欲しかった景色”が、手の届く場所にある。
息を吸うたび、白花の香りが胸の内側をやさしく撫でていく。
さっきまでの頭痛の縁がほどけ、呼吸が整う。これほど心が静まる香りがあるだろうか、とノエルは思う。あまりにも都合がよすぎて、現実感が薄い。
(そうか、まだ夢の中か)
最近見た夢はどれもリヴィアが背を向けていなくなる夢だった。そして、ノエルを追ってくるのはあのムスクの香り。
久々に見るリヴィアが優しげな表情を浮かべる夢は、心地よかった。
「……リヴィア、好きなんです」
「え?」
自分でも驚くほど、声は弱く、低く、真っ直ぐだった。
「好きだから……いなくならないでください」
情けない、と一瞬思う。けれど、これが夢ならば、素直に伝えても良い気がした。
格好つけず、素直に、自分が何度も言うと誓っても、いつしか怖くて言えなくなっていた言葉を。
「ノエルは、本当に私のことが好きなんですね」
「……だから、そう言っているじゃないですか」
「ふふ。私も、ノエルのことが好きですよ」
胸の奥が、ほどける音を立てた気がした。
こんな返事、現実で聞けるはずがない――そう思うほどに甘い。
「……覚めたくないなぁ」
「覚めるって、何から?」
「だってこれは夢でしょう。現実のリヴィアが僕を好きだなんて、あり得ません」
「どうして、そう思うんですか?」
「“もうキスはしない”って言われました。……僕のこと、嫌いになったんだと」
言いながら、視界が滲む。腕で目元を覆う。
たとえ夢でも、彼女に涙は見せたくない。
「……私が、ノエルに気持ちを伝えていなかったから。不安にさせたのね」
リヴィアがそっと腰を上げる気配に、遠ざかる予感が胸を刺す。
だが次の瞬間、ソファの沈みが近づき、彼女はノエルのすぐそばに腰かけた。
(夢だから、距離が近くても許してくれるのか)
そんなことをぼんやりと考えていると、リヴィアの左手がノエルの顔の近くに置かれ、覆っていた右腕をやさしく外す。指先が手首をなぞる温度に、心拍が一段高鳴る。
満ち足りた笑み――神々しさと悪戯心がひとしずくずつ混ざった、危ういほど美しい表情。
薄紫の瞳がノエルを射止め、そのまま唇に、羽のように柔らかなものが触れた。
現実が、口づけの温度で輪郭を持つ。意識が一気に澄む。
(……え、ちょ、ちょっと待って)
「ごめんなさい、ノエル。私、ずっと言えていないことがあったの」
「言えて、いない……こと?」
混乱する頭から、かろうじて声を出す。
「私も、ノエルのことが好き。だから――私の恋人になってくれないかしら」
微笑みが近づく。二度目の口づけは、さっきより少しだけ深く、ためらいを洗い流す調子で。
ノエルの胸に巣食っていた“これは夢だ”という声が、溶けて消えていく。
(だって、リヴィアが自分のことを好きなんて、そんなわけ)
覚醒する意識で急速に状況を把握しようとする。
「……り、リヴィア、どうして」
「まだ、私がノエルを好きだって、わかってくれない?」
「いや、そういうんじゃ、なくて――」
言葉の継ぎ目を、彼女はもう一度塞いだ。角度を変え、呼吸の合間を掠めるように、深さを少しずつ増やしてくる。
そのたびに、白花の香りが胸の奥を波立たせ、熱が身体のどこかに集まり、理性の足場がきしむ。
(あ、まずい)
「わ、わかりましたから! もう、大丈夫なので!」
「……本当に?」
「本当に!」
名残惜しげに唇が離れ、最後にひとつだけ軽く触れてから、リヴィアは上体を起こした。
密室、至近距離、彼女の笑み――これ以上は危険だ、とノエルの良心がかろうじて告げる。
呼吸は整い、意識は冴え、さっきの出来事がすべて現実だと理解する。
ノエルも身を起こし、向かい合う。リヴィアは満たされた顔でこちらを見ていた。さっきの神々しさは影を潜め、今は少し小悪魔めいた光が瞳に宿る。
「ええと……」
言葉を選ぶ。
「リヴィアは、本当に……僕のことが好き、なんですか?」
「キスが足りなかった?」
「いや! 今日はもう十分です!」
「じゃあ、また今度、ね」
「また今度……」
喉が渇く。小さな一言が、次を予感させる甘い罠のように響く。心臓が、うるさい。
「恋人に、なってくれるのですか」
「ええ。私もノエルが好きだから。――恋人に、なってくれる?」
「……夢じゃ、ないんですね」
「違うって、言っているでしょう」
笑みとともに、三度目の口づけ。
白花の香り、指先の体温、睫毛がかすめる微かな感触――どれもが、夢では持ち得ない密度で“今”を刻む。
ノエルは、胸の奥で静かに頷く。
「……リヴィア、好きです」
その言葉に呼応するように、口付けはより深くなる。
世界が、やっと正しい位置に戻った気がした。




