89. セリーヌの誘い(リヴィア視点)
ノエルと口論になった夏休み直前の日から、リヴィアは彼に会う勇気をなくしていた。
そのまま迎えた夏休みは、悶々とした憂鬱に包まれて始まった。朝はすでに日が高く昇っているというのに、リヴィアはベッドに沈んだまま。分厚いカーテンの隙間から漏れる光さえ、今は眩しくて仕方がない。
はしたない――そう分かっている。貴族令嬢として怠惰に横たわる自分を、頭では戒めている。
けれど、体は鉛のように重く、起き上がろうとする意志をあざ笑うかのように動かない。
『セリーヌが、リヴィアを騙している』
あの日、ノエルに投げかけられた言葉が何度も胸を抉った。彼の真剣な眼差しと共に蘇るその響きは、まるで冷たい刃のように鋭く心に突き刺さる。
セリーヌは――大切な親友だ。
セレスティアで共に学び、笑い、泣き合った仲間。フェルナディアに来てからも、ずっと寄り添ってくれた。
ノエルのことも、パニック障害のことも……打ち明けられるのは彼女だけだった。そのセリーヌを、「騙している」と言われるなんて。
だが、確かに、ノエルが言う通りセリーヌに疑念がないわけではなかった。
相変わらず留学の目的ははぐらかされたまま。都合が良かったから、とは一体何なのか。
『リヴィアのことは――何があろうと信じています。でも、セリーヌは違う』
ノエルの声が脳裏に反響する。
自分を信じてくれている――その言葉は本来なら喜ぶべきもののはず。なのに、その直後に告げられた否定は、あまりに重く鋭く、まるで自分の半身を切り裂かれるような痛みだった。
ノエルも、セリーヌも、どちらも大切。
けれど、その立場は決定的に違う。
ノエルは婚約者であり、やがて夫となる存在。
セリーヌは親友であり、留学が終われば遠い国へ帰ってしまう存在。
理屈で考えれば、比べるまでもない。
――なのに、どうしてこんなにも迷ってしまうのだろう。
どうして心は、どちらか一方を選ぶことを拒むのだろう。
ため息が、熱を帯びた胸の奥から零れ落ちる。
そんな時だった。
屋敷に、セリーヌとアメリアが突然訪ねてきた。
「お嬢様、セリーヌ様とアメリア様がお見えです」
使用人の報告に、リヴィアは思わず目を瞬いた。
重たい心を無理に押し上げ、鏡の前で身なりを整える。
乱れた髪をまとめ、蒼白な顔にわずかに紅を差し――なんとか貴族令嬢としての体裁を整える。
庭園にお茶の用意をさせ、応接室に案内された二人のもとへ向かう。
「わぁ、ひどい顔ね」
開口一番、セリーヌがそう言った。彼女らしい、容赦のない直球。
「やっぱり、あの男のせいでしょ? だから早く別れなさいって言ってるのよ」
「ノエルと……何かあったのかしら?」
セリーヌとアメリアの掛け合いに、リヴィアは返す言葉をなくした。
胸の奥を掴まれるような痛みに耐えながら、なんとか微笑んで話題を逸らす。
「……今日は、二人揃ってどうしたの?」
「アメリアとは、たまたま王城で会ったの。少し顔色が悪かったから、リヴィアのところに一緒に行く?って声をかけたら、ついてくるって」
「王城で?」
「ええ。セリーヌも私も、王妃様主催のお茶会に呼ばれていて。侯爵家以上の令嬢限定の集まりだったのですけれど……さすがに疲れてしまって」
「二人とも、大変だったのね……」
セリーヌはともかく、確かにアメリアは少し疲れているように見える。
普段の彼女と比べると、それが珍しく感じた。
「それでね、リヴィア。今日はあなたを誘いに来たのよ」
「誘い?」
「そう。旅行に行きましょう!」
セリーヌの瞳が、楽しげに輝いた。
その明るさに、一瞬だけ胸が軽くなる――けれど同時に、強い戸惑いも押し寄せる。
「旅行……?」
リヴィアが戸惑う間もなく、扉の方から声がかかった。
「お嬢様、お茶のご用意が整いました」
「……ええっと、詳しい話はその後で聞くわね」
*
ラヴェルナ家の庭園にあるガゼボは、今日も涼やかな風が通り抜けていた。
リヴィアはセリーヌとアメリアをそこへ案内し、お茶の準備をさせる。
「涼しくていいわね」
「ええ、本当に外とは空気が違って見えますわ」
セリーヌとアメリアが感嘆の声を上げる。
リヴィアは小さく頷き、先ほど中断した話を切り出した。
「それで……旅行ってどういうこと?」
「私、せっかく留学してきたんだし、最近は暑いじゃない? だから避暑に行きたいなって」
「避暑って……急すぎない?」
「実はもう予約してあるの!」
にこにこと告げるセリーヌ。どうやらリヴィアが行くことは、最初から決定事項らしい。
「相変わらず行動力あるのね……」
「セレスティアまで留学してきたリヴィアにだけは言われたくないわ」
図星を突かれ、思わず苦笑する。
確かに、今のリヴィアには予定などない。
ノエルと過ごすはずだった時間を考えて、女子生徒からの誘いもすべて断ってしまっていたのだから。
「まあ……予定はないけど。一応お父様には聞かないと」
「いいじゃないか、行ってきなさい」
唐突に響いた低い声に、リヴィアは驚いて振り返った。
そこには、父アラン・ラヴェルナが立っていた。
「お、お父様!」
慌てて立ち上がり、セリーヌとアメリアも淑女の礼を取る。
「セリーヌ・ヴァロット嬢にアメリア・グレイスフォード嬢か。いつもリヴィアがお世話になっていると聞いている」
「いえ、お世話になっているのはこちらの方ですわ」
「特にセリーヌ嬢、君にはセレスティア時代にリヴィアが随分世話になった」
「私もリヴィアのおかげで、楽しい学生生活を送ることができました」
穏やかなやりとりが続いたかと思えば、父はふと表情を曇らせた。
「……君が留学してきたと聞いた時は驚いたが、リヴィアがまた楽しい学生生活を送れているなら嬉しい。あの若造と四六時中一緒、というわけでもなくなったようだからな」
「お父様! ノエルのことは認めてくれる約束だったはずです!」
リヴィアは即座に反論した。
アランは苦々しげに口を歪める。
「認めはしたさ。だが――娘が気に入らない男に取られるのは、どうにも気に食わん」
隣に控える執事バルサックが「ごもっとも」とばかりに頷いているのが、余計に腹立たしい。
「旅行だが、せっかくだし行ってきなさい。今は夏休みだ。放っておけば、あの若造が押しかけてくるに決まっている」
「お父様! ノエルはそんなこと……!」
「いや、ある。断言できる」
妙に自信満々である。
「昔だってそうだっただろう? リヴィアが留学中、毎日毎日山ほど手紙を送ってきて……屋敷の倉庫が塞がるかと思った」
「倉庫って……!」
「しかも文面が全部『会いたい』だの『声が聞きたい』だの! お前に見せる前に、私がチェックして燃やしてやったんだぞ!」
「燃やしたんですか!?」
リヴィアは椅子から立ち上がりかけるほど驚いた。
セリーヌは堪えきれず吹き出し、アメリアは顔を手で覆って肩を震わせている。
「……あの若造の情熱に、屋敷が迷惑しているのは事実だ」
「だからって燃やすことないでしょう!」
「私は娘を守っただけだ」
どや顔である。
「とにかく。旅行に行け。あの若造が来る前に遠くへ逃げれば、私も心安らかに仕事ができる」
「理由がひどすぎます!」
「理由などどうでもいい。結果的にお前が楽しめればそれでいいのだ」
そうしてアランは、二人の客に「ゆっくりしていきなさい」と言い残し、その場を去っていった。
残されたリヴィアは、額を押さえてため息をつく。
「……ほんと、もう」
「リヴィアのお父様、最高ね」
「ノエル……ご愁傷様ですわ」
2人とも表に出すか出さないかの違いはあれど、笑っているのは確かだった。
「……理由はともかく、お父様の許可もせっかく出たことだし、行きましょうか」
「そう来なくちゃ!」
セリーヌが嬉しそうに声をあげた。
「さて、決まったことだし――出発は明後日よ!」
「明後日って……ずいぶん急ね。もう少し余裕を持ってほしいわ」
半ば呆れながらも、リヴィアは返事をした。
「その……わたくしも、ご一緒してよろしいかしら」
少し気まずそうに、アメリアが口を開いた。
「え? 二人分しか宿は予約していなかったけど……変更できるでしょうし、たぶん大丈夫よ」
「珍しいですね。アメリアは、あまりこういうのに興味がないかと思っていました」
「少し……王都を離れたくなっただけですわ」
「何かあったの?」
「何か、というほどではありません。ただ、ちょっと頭を冷やしたくて」
アメリアは小さく笑って誤魔化す。
「それに……卒業したら、こうして女性だけで旅行なんて難しいでしょう?」
「それはそうね」
「確かに」
リヴィアもセリーヌも頷いた。貴族令嬢のほとんどは婚約済みで、卒業から数年以内に結婚するのが通例だ。結婚後も自由に動き回る者はいるが、子を授かればそうもいかなくなる。
だからこそ――いまの時間は貴重なのだ。
一同が同意したところで、リヴィアはふと思い出した。
「そういえば、肝心の行き先を聞いてなかったわ」
「ああ、言ってなかったわね。ここよ!」
セリーヌは、使用人から地図を受け取り、机に広げて指差す。
その場所を見た瞬間、リヴィアの心臓が大きく跳ねた。
――そこは、ノエルの領地の山間部。
しかも、魔石の産地のすぐ近くだった。
「ここ、避暑地としては穴場なんですって! しかも近くに有名な湖もあるらしいの」
「……ノエルの、領地なのね」
「あの男のことだし、休暇中も研究ばかりしてるんじゃない? 同じ領地にいたって、どうせ会わないわよ」
セリーヌはあっけらかんと言い放つ。
だがリヴィアの胸の奥は冷たい不安で締めつけられていた。
「どうして、ここに?」
「ある人に勧められたの。いまから行くなら混んでる場所ばかりだから、穴場だって」
「確かに、高山地帯は涼しいですし……王都からは少し距離もありますから、ちょうどいいのかもしれませんわね」
アメリアとセリーヌが楽しげに会話を続ける。
けれどリヴィアの耳には、その声はもう遠く霞んでいた。
地図に示された赤い印を見つめるたびに、胸の奥がざわつく。
――魔石鉱山。
あの夜、無残に荒らされた研究室。散らばった書類。奪われかけた魔石。
(まさか……セリーヌ?)
脳裏に浮かぶのは、ノエルの真剣な表情。
「セリーヌが怪しい」と告げた声が、鋭い棘となって蘇る。
――違う。セリーヌは親友。私を裏切るはずがない。
そう言い聞かせても、心の奥で別の声が囁く。
それなら、なぜわざわざ魔石の産地の近くを選んだの?
なぜ、留学の目的を話そうとしないの?
笑い声の中で、リヴィアはひとり血の気が引いていくのを感じた。
(……確かめなきゃ。本当に、セリーヌなのかどうか)
忘れかけていた疑念は、もう消えそうにない。
むしろ黒い影となって、リヴィアの胸にじわりと広がっていった。




