88. 眠れぬ夜
寝る支度を済ませ、ノエルは深呼吸をしてから寝室の扉をノックした。ゆっくりと扉を開けると、まだリヴィアの姿はない。
部屋にはベッドが二つ並んでいる。
(……二つあってよかった……!)
思わず胸を撫で下ろす。もし一つしかなかったら、その瞬間に理性が焼き切れていただろう。
ノエルはソファに腰を下ろした。
リヴィアが来る前にベッドに潜り込むのはさすがに気が引ける。
(……どうしてリヴィアは、同室を了承したんだ?)
口論の後、まともに言葉を交わしてもいないのに。しかも彼女からは「キスはしない」と宣言までされている。
それなのに「一緒に寝てもいい」などと……。セリーヌの入れ知恵なのは想像がつくが、真意は読めない。
ノエルの脳裏に、今日のリヴィアの姿が次々と蘇る。
――リヴィアの細く柔らかな体つきを出した薄黄色のワンピース。
――細いけど意外とあるらしい、「バランスがいい」と評された体つき。
――風呂上がりの紅潮した頬と濡れた髪。
(……だめだ、思い出すな俺!!)
自分で自分に鉄槌を下す。
これから同じ部屋で寝るのだ。余計な妄想は破滅のもとでしかない。
必死で気を紛らわせようと立ち上がったその時、扉がこんこんと叩かれた。
(……リヴィア?)
恐る恐る扉を開けると――
入ってこようとしたリヴィアと、至近距離で鉢合わせる。
「わ、すみません!」
あまりの近さに、ノエルは思わず後ずさる。扉が後ろでバタンと閉まり、二人きりの空間が完成した。
「……っ」
ノエルは息を呑んだ。
リヴィアは髪をゆるく編み、肩に流している。
身につけているのは昼間のワンピースよりさらに薄手の白い寝間着。胸元は緩やかに開き、ほのかな谷間がのぞく。裾も短く、白く細い足があらわになっていた。
そして何より、少し自信なさげに立つ彼女の姿が、妙に艶やかに映る。
(……これ、拷問では?)
本日二度目のツッコミである。
ノエルは慌てて顔をそむけ、手で視界を塞いだ。
「り、リヴィア、どうしてそんな格好を……」
「ご、ごめんなさい! 女性だけの旅だったから、寝間着はこれしか持ってきてなくて……」
「と、とりあえず、これを……!」
ノエルはソファにあったブランケットを押し付けるように渡した。
「は、はい……ありがとうございます」
リヴィアは慌てながら肩に掛ける。
これで少しは視線を向けられる……はずだった。
「ノエル、その……似合いませんでしたか?」
「え?」
「私の服が変だから隠せっていうことかと思って……。セリーヌもアメリアも大丈夫だって言ってたから」
(……やっぱり犯人はセリーヌか!)
ノエルは頭を抱えたい衝動に駆られる。
「ち、違います! ただ……」
「ただ?」
「……刺激が、強すぎて」
リヴィアは目を瞬かせ、少しうつむいた。
「……はしたなかったですか?」
「いや、違います。ただ……僕にはちょっと早すぎただけで……」
実際のところ、ブランケットでは谷間くらいしか隠せていない。だが「ないよりはマシ」だと必死に自分を納得させる。
「……もう、寝ますか。明日も早いですし」
これ以上の会話に耐えられる気がしない。ノエルは自ら提案し、布団に逃げ込む準備をしたのだった。
「ちょっと待ってください。ノエルに話したいことがあって」
「……はい」
リヴィアの真剣な声に、ノエルの背筋が自然と固くなる。
(まさか……ここで婚約破棄を言い渡されるのか?)
理性と煩悩がせめぎ合う今、そんな爆弾を落とされたら確実にノックアウトだ。
「セリーヌのことで」
「……セリーヌ?」
「はい。ちょっと、座ってお話ししますか」
そう言ってリヴィアはノエルの手を取って、ソファに誘う。その後ろ姿から覗く白いうなじが、無駄に目に毒だった。
ノエルが腰を下ろすと、リヴィアも一人分の間を開けて隣に座った。けれどその距離では、短い寝間着から伸びる白い足がいやでも目に入る。
(……もう一枚、ブランケットが欲しい)
「この前、ノエルにセリーヌのことを言われて……私、自分でも信じられなかったんです」
リヴィアが口を開き、ノエルは慌てて思考を切り替える。
「そりゃあ、親友のことですから、すぐには信じられませんよ」
「でも……セリーヌが何かを隠しているのも感じていたんです。だから、私なりに彼女を探ってみました」
「リヴィアが?」
「ええ。私なら、セリーヌから直接聞けるかと思って……」
「また大胆な……」
リヴィアは真剣な表情で続けた。
「セリーヌは、確かに何か隠している気がします。わたしと一緒にいる時も、何度かそれを匂わせるようなことを言っていました」
「……」
「留学の目的だって、はっきり話してくれません。“色々あって利用させてもらった”としか」
「利用、ですか」
「ええ。それに今回の旅行先を決めたのもセリーヌなんです。フェルナディアには避暑地なんて他にいくらでもあるのに……わざわざ鉱山の近くを選んで。理由を聞いても“誰かに勧められたから”としか言わなくて」
ノエルの胸の中で、疑念が強まっていく。
「だから……状況的にセリーヌが怪しいのは、確かにそうだと思います」
「……」
「でも、私は……それでもセリーヌを信じたいんです。私の、大事な親友だから。国益のために彼女が諜報をするなんて、信じたくありません」
リヴィアの瞳が揺れる。
ノエルは静かに息をつき、微笑んだ。
「……わかりました。」
「わかりましたって、ノエルは、それでもいいんですか?」
「リヴィアが信じると決めたなら、それで十分です。僕は――リヴィアのことは全部信じるって、決めていますから」
その言葉に、リヴィアはノエルをじっと見つめたかと思うと、不意にガバッと抱きついた。
「ちょ、ちょっと待ってリヴィア! だめです!」
「あ、ご、ごめんなさい。つい……抱きしめたくなって」
慌てて離れるリヴィア。ふたたび一人分の距離を空けて腰掛け直す。
「……つい抱きしめたくなって抱きしめていいなら、僕はもう一生抱きしめてますけどね」
小さな声で呟いた言葉は、幸いリヴィアには届かなかった。
「え?」
「いえ、なんでもないです」
ノエルは慌てて話を戻す。
「それで、まだ何か?」
「はい……。セリーヌのことを信じてはいます。でも、彼女には実家が付けた“護衛兼監視”がいます」
「監視?」
「セリーヌのご両親はとても厳格で……あの奔放な性格を危ぶんで、常に誰かを付けているんです。しかも、その両親は政治的な影響力が強い方々。娘を国益のために利用してもおかしくないんです」
ノエルは思わず身を乗り出す。
「じゃあ、セリーヌ本人は白でも、監視役は黒かもしれない、ということですね」
「はい。結局セリーヌを警戒するのと同じことになってしまうんですけれど……」
「なるほど……。でもリヴィアの考えはわかりました。僕も研究室を荒らした犯人について、もう一度洗い直してみます」
「お願いします」
リヴィアはホッとしたように微笑み、ソファに深くもたれかかった。
そして小さくあくびを隠す仕草を見せる。ノエルは立ち上がり、自然にリヴィアへ手を差し出した。
「そろそろ寝ましょうか。リヴィアは、どちらで寝ますか?」
「……私は、窓側でお願いします」
「じゃあ僕はドア側を」
リヴィアはその手にそっと自分の手を重ね、立ち上がる。
ソファ横の灯りを落とすと、部屋はベッドサイドのランプだけに照らされ、やわらかな陰影に包まれた。
その瞬間、リヴィアの指先にぎゅっと力がこもる。
「リヴィア?」
「……あの、ノエル。実はもうひとつ、お話ししなきゃいけないことがあって」
胸の奥がざわつく。ここで婚約破棄を切り出されるのでは――そう覚悟した矢先。
「……私、暗いところがダメなんです」
「暗いところが……ダメ?」
「はい。真っ暗になると、呼吸が浅くなってしまって。……だから、苦手で」
(……なんだその可愛さは)
「じゃあ、ランプはつけたままにしますね」
「はい……お願いします」
安堵したように胸を撫で下ろすリヴィア。その表情にノエルは一瞬、心臓を掴まれたような気がした。
ベッドへと導き、手を放そうとした瞬間、再びリヴィアが指を絡めてくる。
「……ノエル、今日は久しぶりに会えて、嬉しかったです」
「……はい」
「おやすみなさい」
ふわりと柔らかく微笑むと、リヴィアはそっと手を離し、シーツに身を沈めた。
ノエルも慌てて自分のベッドへ潜り込み、目を閉じる。
……だが。
(いや、寝られるわけないだろ!?)
隣から聞こえる小さな寝息が、静かな夜に甘美な拷問のように響く。
覚醒と煩悩に挟まれながら、ノエルは一睡もできぬまま朝を迎えるのだった。




