86. ヘタレの烙印
宿に到着すると、ユリオご希望の温泉宿は、思った以上に人で賑わっていた。貴族向けの宿は数が少ないうえ、シーズン中とあってどうやら満室らしい。
建物自体はかなり大きく、付き添いを含めた大所帯でも宿泊できるように設計されている。家具はアンティークで揃えられ、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
宿には三人部屋や一人部屋はなく、二人部屋を二部屋予約してある。
部屋割りは後で決めようということになり、フロントで案内を受けようとしたその時――
「どうして部屋が予約されていないのかしら?」
「大変申し訳ございません。本日は満室でして……ご予約では二名様と伺っておりました」
フロントで揉めている声が耳に入る。
領内で貴族とのいざこざがあればアーデン家に報告が来る。放置するのも面倒事の元だろう。ノエルは二人を待たせ、声の方へ向かった。
「でも、私たち三人なのよ。なんとかならない?」
「本当に申し訳ございません……明日には、一部屋開くのですが」
フロントに詰め寄っていたのは、三人の女性。
後ろ姿だけで見覚えがある気がした。――いや、間違えようがない。
こちらに気づいた一人が振り返る。
「え、きゃあ! ノエル!?」
「リヴィア?」
リヴィアは小さな悲鳴を上げると、サッとセリーヌの後ろに隠れてしまった。
(え、なんで化け物を見るみたいな反応!?)
ノエルは胸をえぐられるような気分になる。
「どうしてここに……?」
「あら、あなたこそどうしてここにいるのかしら?」
セリーヌが首を傾げる。
「どうしてって……いや、それは僕の台詞ですよ」
いたのは、セリーヌとリヴィア、そしてアメリア。
そういえば、レオンが「アメリアは旅行に出ている」と言っていた。それがまさか、この二人と一緒だったとは――完全に想定外だった。
「ノエル、どうした?」
背後からレオンとユリオが追いついてくる。
「レオン様?」
「……アメリア」
「あーっ、セリーヌ! 偶然だねー!」
ユリオは歓声を上げてセリーヌに駆け寄る。
レオンも、表情を崩さないままアメリアの傍へ歩み寄った。
「ちょ、ちょっとセリーヌ! ノエルには会わないって言ってたじゃない!」
リヴィアが慌ててセリーヌに訴える。
(いや待て、僕そんなに避けられる存在……!?)
ノエルはズシンと衝撃を受けた。
「私は何も知らないわ。……たぶん、そこでニヤニヤしてる男が勝手にやったんでしょうね」
「セリーヌがアーデン領に行くって聞いたから、もしかして会えるかなーって思って」ユリオが即答する。
「宿まで聞いてたくせに何が“会えるかなー”よ。ストーカーじゃない」
「そ、そんなぁ……!」
セリーヌの容赦ないツッコミに、ユリオは肩を落とした。
だが、やっていることはまごうことなきストーカーである。
「だって! セリーヌと一緒に旅行したかったんだよー!」
宿のロビーにユリオの情熱的な叫びが響き渡り、ノエルはこめかみを押さえた。
(ああもう……頭が痛い)
「レオン様は、どうしてこちらに?」
「……ユリオに誘われて、だな」
アメリアが静かに問いかけに対し、レオンにしては珍しく歯切れが悪い。
その答え方だけで、ノエルは悟った。どうやら、最初から共犯だったらしい。何も知らなかったのは自分だけ――。
「お前ら……はかったな?」
ノエルが睨むと、ユリオがあっけらかんと答える。
「だってノエルに言ったら、絶対リヴィアに連絡するじゃん! 内緒で来るにはお前を巻き込むのが一番早かったんだよ!」
「事前に連絡するのは、礼儀として当然だろうが」
「そんなことしたら、セリーヌに断られるんだよぉ!」
その言い草からすると、すでに一度断られていたらしい。だからこそ、偶然を装ってここまで来たというわけだ。
「レオン様も、知っていていらっしゃったのですか?」
「……ああ。すまない。女性だけでの旅と聞いて、心配だった」
「まあ、私の場合は急でしたし……ご心配をおかけして申し訳ありません」
「いや。無事ならそれでいい」
普段通り淡々と答えるレオンに、アメリアはそれ以上追及せず柔らかく微笑んだ。二人の間には、他人が口を挟めない空気がある。
そんな中、ノエルの視線は自然とリヴィアへと向かう。彼女はいまだにセリーヌの後ろに隠れたままだ。
(……やっぱり、先日の口論のせいで嫌われたのか? 顔を見るのも嫌というほどに?)
胸が締め付けられる。
「リヴィア。どうしてそんなに隠れているんですか……?」
「……恥ずかしくて」
「恥ずかしい?」
怪訝に首を傾げ、改めてリヴィアを見やる。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
今日は制服でもドレスでもなく、夏らしい軽やかな装い。
薄黄色のワンピースは滑らかな生地で、彼女の細い体のラインを柔らかく映し出す。膝丈のスカートから伸びる白い手足は陽光に照らされ、きめ細やかな肌が眩しく見えた。
(な、なんだ……この破壊力……!)
不意を突かれたように、言葉がこぼれる。
「……かわいい」
沈黙。
リヴィアは耳まで真っ赤になって俯いた。
「なあに、ジロジロ見ちゃって。やらしいわね」
セリーヌの冷ややかな声が飛んでくる。ノエルは慌てて目を逸らし、後ろめたさから咳払いで誤魔化した。
「……アメリアも、その……似合ってる」
「あら……ありがとうございます」
レオンの思いがけない言葉に、アメリアは頬を染め、品よく笑む。
「セリーヌもかわいいね!」
空気を読まないユリオの声が場に響く。
セリーヌは一瞬、呆れたように目を細めたが、言葉を返す代わりにユリオの頭を軽く小突いた。
その場には、ほんのり甘い空気をまとった二組と――互いに視線を合わせられず、気まずい空気をまとったノエルとリヴィアが残ったのだった。
「それで、どうして先ほど宿の人とお話を?」
ノエルが尋ねると、セリーヌが肩をすくめた。
「ああ、そうだったわね。三名で予約したはずなんだけど、二名分しか受け付けられていなかったのよ」
「きっと、わたくしの追加分の変更が反映されなかったのでしょうね」
アメリアが補足する。
「それで急いで一部屋確保しようとしたんだけど、今日はもう満室で……」
ノエルは宿の従業員に確認する。
「そうなんですか?」
「大変申し訳ございません。本日はご予約のお客様でいっぱいでして……」
「他の方との調整もできないのですか?」
「はい。皆さま貴族のお客様ですので、こちらからは……」
「近くに他の宿は?」
「こちらの宿以外は、平民向けのみでして……」
「それじゃあ、宿を変えるわけにもいかないな」
ノエルは小さくため息をつく。貴族と平民の宿では勝手が違いすぎる。妙齢の女性を平民用の宿に泊めるなど、絶対にできない。
従業員が困り顔で助けを求めてきて、ノエルも同情しかけたその時。
「……あなたたち、この宿に泊まるんでしょう?」
セリーヌが切り出す。
「え? まあ、そうですけど……」
嫌な予感が背筋を走る。
「悪いけど、今日だけ相部屋、できないかしら?」
「はあっ!?」
思わず声が裏返った。
「幸い、婚約者同士が二組もいるんだもの。なんとかなるでしょ。明日にはもう一部屋用意できるって言ってるし」
「いやいや、なんとかって……!」
「じゃなきゃ、私たち泊まるところがないのよ。お願い」
セリーヌの視線に押される。未婚の男女が同部屋なんて、あり得ない。
(文化の違いなのか?!)
ノエルはレオンへ助けを求める。
「悪いがノエル、頼んだ」
「頼んだって! お前とアメリアで組めばいいだろ!」
「……自信がない」
「は? 自信って何の?」
「手を出さない自信だ」
「な、何をおっしゃってるんですかレオン様!」
アメリアが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「事実だ。婚姻前に手を出されたくはないだろう?」
「……っ、それは……!」
「じゃあ、ノエルとリヴィアが相部屋ってことでいいわね?」
「ま、待て!」
「ヘタレなお前なら手を出すこともないし」
「それは同意だわ」
レオンとセリーヌの息の合った掛け合いが続く。
二人に外堀を埋められ、ノエルは視線をリヴィアへと向けた。彼女は真っ赤な顔で目を見開いている。
(……これは、完全にアウトなやつだ)
「ちょっと待て! 相部屋以外の選択肢もあるだろ!」
「ユリオ、お前が責任持って外の宿に行け」
「え、なんの責任?」
「平民用でもお前なら平気だろ!」
「平気だけど! セリーヌと同じ宿に泊まれる機会を逃すとか絶対に嫌だ!」
「嫌だ、じゃないだろ……」
ユリオは案の定、断固拒否。こうなったら経験上、説得は不可能だ。
ノエルはユリオの説得を諦め、レオンに視線を移す。が、明らかに貴族なレオンを平民街に放ったらどうなるか。
あまり良いことが起こる未来は見えなかった。
領主の息子として、それは看過できるものではなさそうだ。
「……わかりました。僕が平民宿に泊まる」
項垂れるノエル。リヴィアと同室で心が揺れかけたが――耐えられる自信がない。
そのとき。セリーヌがリヴィアの耳に何か囁いた。リヴィアははっと顔を上げ、小さく息を呑むと、震える声で口を開いた。
「ノエル、わたしは……大丈夫なので。ここに泊まってください」
(……は?)
一瞬で頭の中が真っ白になる。婚姻前に男女が同室など、この国では非常識もいいところだ。だがリヴィアのその言葉は――まるで合意を示すようで。
「いや、でも……」
「ノエルは、何もしないって……信じていますから」
……なにも、しない。
その瞬間、ノエルの額に「ヘタレ」の烙印が押された気がした。信頼の証なのか、それとも男として見られていないのか。
「ふふ……やっぱりヘタレね」
セリーヌが口元を隠し、くすくす笑う。案の定、仕掛けたのはこの女だった。
「おいおい、ここまで淑女に言わせて断るのか?」
ユリオが茶化す。
「ぐっ……わかりました」
「決まりね!」
観念したようにノエルが答えると、セリーヌはと楽しげに宣言し、宿の従業員へ部屋割りを伝えた。




