84. 可愛いの意味
翌日、ノエルはミレイユと約束の時間に部屋を訪ねた。
扉をノックすると、柔らかな声が返ってくる。
「どうぞ」
中に入ると、明るい陽がレースのカーテン越しに差し込み、部屋全体がやわらかな光に包まれていた。ミレイユがベビーベッドのそばに腰を下ろし、小さな赤子を抱いている。
「フィー、ほぉら、ノエルおじさんがきましたよ」
「お、おじさん……」
普段は少し凛とした印象の義姉が、母親の顔で砕けた口調をしていることに戸惑う。
そして“おじさん”という言葉。――そうか、自分はもう、そう呼ばれる立場なのか。
「ほら、ノエル。この子がフィーよ」
ミレイユの腕の中にある小さな命に、ノエルは息を呑んだ。白く柔らかな肌、小さな手、胸の上で上下するか細い呼吸。
まるで宝石よりも繊細で、触れれば砕けてしまいそうなほど儚い。
「……兄上に似てますね」
「ノエルにも似ているわ。レオニスもノエルも義父様に似ているでしょう? アーデン家の血が濃いのかもしれないわね」
自分にも似ていると言われ、頬が少し熱くなる。
確かに、女の子ながら顔立ちはどこか凛々しく、愛らしさの中に中性的な印象もあった。
恐る恐る指を差し出すと、小さな手が伸びてきて、ぎゅっと掴む。
思った以上の力強さに、ノエルの口から思わず笑みが漏れる。
「……本当に、小さい」
「抱っこしてみる?」
「えっ……ぼ、僕がですか?」
情けなく裏返った声。
「当然よ。叔父なんだから」
促され、ぎこちなく腕を差し出す。
ミレイユがそっと赤子を預けると、ノエルはまるで壊れ物を抱えるように固まった。
「ちょ、ちょっと待ってください。頭は……ど、どう支えれば」
「力を入れすぎないで。フィーも苦しいわ」
「は、はいっ!」
緊張で体がこわばり、案の定、フィオナが「ふえ……」と声を上げる。
「ど、どうしよう!? 泣かせましたか!?」
「ふふっ、泣いてないわ。ただ、あなたが固すぎるのよ」
ミレイユが支えを添えると、フィオナは不思議そうにノエルを見上げ、やがて小さくあくびをした。
その無垢な仕草に、ノエルは胸を撃ち抜かれたように見入る。
「……可愛い……」
小さく呟いたその瞬間、フィオナの手がノエルの頬に伸び、ぺちぺちと叩いた。
あまりにも小さな手。けれど、その温もりは驚くほど大きく、胸の奥を揺さぶる。
(もし……この腕に抱いているのが、リヴィアとの子どもだったら……)
不意にそんな未来を想像してしまい、息を呑む。隣でリヴィアが笑みを浮かべ、小さな命を二人で覗き込む光景。名前を呼ぶ声と、それに応える泣き声。――胸の奥がじんわりと熱を帯び、言葉にならなかった。
「ね、意外と似合ってるわよ?」
ミレイユがからかうように微笑む。ノエルは反論しようと口を開いたが、フィオナが指を握ったまま離さない。結局、言葉を飲み込み、その温もりをただ確かめ続けた。
「こうしてみると、ノエルもレオニスとそっくりね。あの人も、最初はフィーを抱くたびに固まってたわ」
「兄上がですか?」
「あの人、ああ見えてカッコつけだからね。特にノエルの前では」
ノエルにとってのレオニスは、文武両道・隙のない完璧な兄。何でもそつなくこなす、いわゆる天才肌だと思っていた。
だが、ミレイユの前ではどうやら違う顔を見せているらしい。
「そういえば兄上、前に『産後の恨みは一生ものだから、絶対に失敗しない』って言ってましたよ」
式典の折に聞いたことを思い出し、思わず告げ口してしまう。
「ええ、知ってるわ。私も言われたもの」
「実際はどうだったんですか?」
「あまりにしつこくフィーの近くにいて、寝るのまで邪魔するから追い出したの」
「わぁ……」
昨日のデレデレ具合を思い返せば、容易に想像できてしまう。
「ふふ、まあそんな様子も、可愛いんだけどね」
「可愛い……ですか?」
「ええ」
ミレイユは言葉を切り、フィオナをノエルから受け取ってベッドに寝かせた。フィオナは吊るされたおもちゃに夢中になり、小さな手を一生懸命に伸ばしている。
その姿を、ミレイユは慈しむように見つめた。
「僕は……兄上に可愛いなんて思ったことないですけど」
「ふふ、そうでしょうね。思っていたら逆に怖いわ」
その時、ドアの方に気配がした。
ふと振り返ると、レオニスが静かに「しー」と合図をしながら近づいてきている。
ミレイユはフィオナに夢中で気づいていない。
話題をつながねばと焦ったノエルの脳裏に、ふと研究室でリヴィアから「かわいい」と言われた時のことがよみがえる。
「……義姉上。女性が男性に対して“かわいい”って言うのは、どういう時なんでしょうか」
「リヴィア嬢に言われたの?」
「……いえ」
「その間は“はい”と同じよ」
(ぐっ……!)
返答に迷うノエルを見て、ミレイユはやわらかく笑いながら続ける。
「女性が男性に“かわいい”と思う時はひとつだけ」
「……はい」
息を呑みながら答えを待つ。
「それは――その人を好きな時だけよ」
「……は」
「いい? 女性にとって“かわいい”は最大級の愛情表現なの。不器用な様子も、拙い一面も、愛しくて仕方がない……そう思えた時にしか出ない言葉なのよ」
「……本当に?」
「本当よ」
ノエルは思わず問い返し、そしてふと口にしてしまう。
「じゃあ義姉上も……兄上のことを好きだから、そう言うんですか?」
「ええ、もちろんそう。あの人の不器用なところだって、可愛くて仕方がないの」
「だそうですよ、兄上」
「!」
ミレイユがはっと振り返ると、そこには顔を覆って立ち尽くすレオニスの姿が。
耳まで真っ赤になっている兄の様子に既視感を覚え、ノエルは血は争えないなと妙に納得してしまう。
「……ノエル!」
ミレイユが顔を赤くして睨むが、怒りよりも照れが勝っており、全く迫力がない。
「ミレイユ……僕も、君が可愛くて仕方がない」
ようやく体勢を立て直したレオニスが、彼女の腰に手を回し、唇を近づける。
――さすがに、これ以上は居た堪れない。
ノエルはそっとフィオナに手を振り、静かに部屋を後にした。
*
自室に戻ると、ノエルはベッドに腰を下ろした。先ほどのミレイユとの会話が頭を離れなかった。
――「女性が男性に“かわいい”と思うのは、その人を好きな時だけ」
その言葉が何度も胸の中で反響する。
(リヴィアが……僕に、かわいいって……)
研究室で、不意に告げられたあの言葉。あの時はその言葉以上に、リヴィアとの距離が近く、そちらにばかり気を取られてしまっていた。
だが、ミレイユの断言を聞いてしまった今――揺れ動かないではいられなかった。
(もし、あれが本当に……そういう意味だったとしたら)
想像するだけで顔が熱くなる。“かわいい”と告げられた自分の不器用さまで愛しいと感じてくれていたのだとしたら――。
「……いや、ありえない」
首を振る。
リヴィアはまっすぐで、優しくて、時に鋭いほど強い人だ。
そんな彼女が、自分のような不器用で弱さばかりの情けない男を“好き”などと――。
(でも、もし……本当に、そうだったら)
胸の奥で、温かくて苦しいような痛みが広がる。否定したいのに、心は否応なくその可能性を探してしまう。
「……リヴィア」
名前を呼んだだけで、どうしようもなく切なくなる。
彼女の笑顔を思い浮かべた瞬間、どれほど会いたいと願っているかに気づかされる。
「今すぐにでも……確かめたい」
だが、それは叶わない。その言葉の真意を確かめるには、あまりにも時間が経ち、二人の間の距離が開きすぎていた。
あの距離を、どうやって埋めればいいのか――今のノエルには答えが見つからなかった。
ノエルはただ、握りしめた拳に力を込めながら、胸の中の熱を持て余していた。




