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82. 揺らぐ信頼

夏の陽射しは容赦なく窓を叩き、石畳の庭を白く照らしていた。青々とした木々の葉が風に揺れるたび、きらめく光が研究棟の床に散る。だが、その眩しさとは裏腹に、ノエルの胸の内は重く沈んでいた。


今日は、貴族院の最終登校日のため、明日から夏休みになる。

こんな気持ちのまま、夏休みに入ることは嫌だったが、どうしようもできないのも事実だった。


頭から離れないのは、ミューディス教授の言葉だ。

――セリーヌが内通している可能性。

――リヴィアを研究から外せ、という忠告。


リヴィアを外すなど、考えるまでもなく有り得ない。けれど、リヴィアが信頼を寄せているセリーヌを疑うことなど……彼女を傷つけるのは必至だ。

せめて、何か確かな証拠があれば。


そんな思いを抱えたまま、昼休み。レオンは家の用事で不在で、この日はユリオと二人で食堂の隅に腰を下ろしていた。


「なあ、ノエル。最近リヴィアとどうなんだ?」

「……どうって、なんで急に」

「いやさ。お前がそんな暗い顔してる時って、大体リヴィア絡みじゃん。なんかあったのかなって」

「……言いたくない」


ユリオは、こういう時だけ妙に勘がいい。


「ふーん……。なあ、こんなことないって分かってるんだけどさ」

「どうした」

「お前、セリーヌと恋人なんじゃないだろうな」

「は、はぁ!? なんでそうなる!」

「いや、二人でガゼボで密会してたって噂になってんだよ」

「確かに話したけど……それはリヴィアのことについてだ。恋人なんて、あり得ない」

「だよなー。あー、安心した」


ノエルが呆れ顔をすると、ユリオはすぐにニヤリと笑って逆襲してくる。


「そういうお前はどうなんだよ」

「俺か? この前デートしてきた!」

「……デート?」

「ああ、街にケーキ食べに行かないかってセリーヌから誘われてさ! めっちゃ並んだけど、その間ずっと話してて、楽しかったぞ」

「……セリーヌから?」


ユリオが無邪気に語るその光景が、どうにも腑に落ちない。

彼女の性格を思えば、裏に何かがあるようにすら思えてしまう。


「その時にな、ノエルとリヴィアのことも色々聞かれたぞ。普段どんな感じとか、一年目はどうだったとか」

「……話してないよな?」

「もちろん話したさ! セリーヌに聞かれて答えないとか無理だろ?」

「この裏切り者め……」

「おいおい、そんな顔すんなって。別に隠すことでもないだろ?」


(それは……そうかもしれないけど)

胸の奥に、小さな棘のような違和感が残る。


「他に、何か聞かれなかったか?」

「うーん……ノエルたちの研究の話には、結構食いついてたな。俺も事件以降は深く関わってないし、“ノエルの領地で取れた特殊魔石を解析してるらしい”くらいしか言ってないけど」


(セリーヌが……魔石に?)


その言葉に、心臓が小さく跳ねた。なぜ彼女が、そこまで研究に興味を示すのか。


「なあユリオ。セリーヌって、王城に行ったりしてるのか?」

「え? さあ、分かんないな」

「……だよな」

「でも、王城に行くくらい普通じゃないか? 一応国賓扱いの留学生なんだし、用があっても不思議じゃないだろ」

「……それは、そうなんだけど」


教授の声が脳裏によみがえる。

――“自国に情報を流している”

――“研究は戦に利用される可能性がある”


そして、イリオスから託された言葉も。『何かあれば報告してくれ』


セリーヌの留学の真意は、いまだに掴めていない。笑顔の奥に何があるのか――。

ノエルの胸に芽生えた疑念は、静かに根を張っていった。




ユリオと別れ、研究室に戻ったノエルは、扉の前に佇むリヴィアの姿を見て足を止めた。

彼女は扉を開けたまま、呆然と立ち尽くしている。


「リヴィア? どうしたんですか」

「……ぁ、ノエル」


振り返った顔は驚きと困惑に曇り、普段の落ち着きが欠けている。胸騒ぎがして、ノエルは駆け寄った。

扉の奥を覗き込むと、研究室の中は惨憺たる有様だった。机の上の資料は床に散乱し、本棚からは本が引き抜かれて無造作に投げ出されている。


「……一体、どうして……」

「わかりません。私が来た時には、すでにこんな状態で……」

「と、とにかく、中に入って確認しましょう。何かなくなったものがあるかもしれない」


二人で足を踏み入れる。紙の擦れる音が足元から響き、室内の静けさを一層際立たせた。ノエルは手近の資料を拾い上げながら、冷静に状況を見極めようとする。


「犯人はどうやって中に入ったんでしょうか……?」

「わからない。この研究室には強固な結界があるし、鍵を持っているのは僕とリヴィアだけのはず」

「……ですよね」

「リヴィア、魔力の痕跡とか、感じませんか」

「いいえ。何も……。もし魔術が使われていたなら、必ず残滓が残るはずです」

「……そうですか」


ノエルは魔石を入れている魔封箱を確かめた。

中は空。もっとも今は夏休み直前で、しばらく研究室には来ない予定だったため持ち帰っている。

だが、本来なら閉じられていたはずの蓋が半端に開いていた。


(狙いは……やはり魔石か)


研究室にあるものといえばこれまでの解析結果や採掘情報を載せた資料くらいだ。だが、それを奪うなら、もっと秩序立って持ち去るはずだ。

床に散らばる様子は、あくまで何かを探した形跡――。


「狙われたのは、魔石……そう考えるのが自然ですね」


隣でリヴィアが呟く。彼女も同じ結論に至ったらしい。


「夏休み直前で持ち帰っていたので助かりましたね……」

「ええ。不幸中の幸いです」


リヴィアが散らばった資料を丁寧に拾い始めたので、ノエルも黙って手伝う。

やがて、荒れ果てた部屋は少しずつ元の形を取り戻していった。


幸いにも、隅の古い本棚には手がつけられていなかった。みるからに埃を被った背表紙に、犯人は目もくれなかったのだろう。


「……終わりましたね」

「うん」


二人はソファに腰を下ろした。だが、座った場所の間には、人が二人入れるほどの距離が空いていた。その隙間が、今の関係を象徴しているようで、ノエルの胸に小さな痛みを残す。

沈黙が落ちる。

だがノエルの思考は、静かに渦を巻き始めていた。


(誰が……なぜ、ここを荒らした?)

(教授の言葉……セリーヌの動き……そしてこの襲撃……)


胸の奥に浮かんだ疑念が、形を持って迫り出してくる。


「一体、誰がやったんでしょうか……」

「わかりません。でも……先ほど話したように、狙いは魔石だったのだと思います」


魔石が狙われた――その事実に、ノエルの胸がざわめいた。

ユリオとの会話が蘇る。『セリーヌに、魔石について聞かれた』

そして、ミューディス教授の声――“内通している可能性がある”。


疑念は膨らむ一方だった。しかも、こうして実際に被害が出た以上、もう胸に秘めておくことはできない。ノエルは意を決し、リヴィアに向き直った。


「リヴィア。今日は……セリーヌと一緒にいましたか?」

「え? ……今日は別行動でした」


リヴィアはセリーヌと一緒にはいなかった。つまり――アリバイはない。


「リヴィア……今回の件、もしかしたらセリーヌが関わっている可能性はありませんか?」

「……え?」


リヴィアの瞳が大きく揺れる。


「彼女について、よくない噂を耳にしました。特殊魔石のことを聞きまわっているとか、ノルゼアと繋がっているとか」

「……」

「リヴィアも、何か聞かれたことはありませんか? 些細なことでも構いません」

「……ありません」

「本当に? 気になることは、なにも?」

「ありません!!」


リヴィアは声を張り上げた。

その声は、怒りと悲しみの入り混じった響きだった。


「ノエルは……セリーヌを疑っているんですか?」

「……正直に言うと、そうです。もちろん、リヴィアの親友であることは理解しています。でも、怪しい点があまりに多すぎる」

「セリーヌは絶対にやっていません!」

「……セリーヌが、リヴィアを騙している可能性は?」


その一言に、リヴィアはきゅっと口を閉ざした。沈黙が、二人の間に重くのしかかる。


「……ノエルは、私のことを信用できないのですか?」

「違います。リヴィアのことは――何があろうと信じています。でも、セリーヌは違う」

「……セリーヌは、私の大切な親友、なんですよ?」


その言葉を最後に、リヴィアは視線を逸らした。



沈黙が落ちる。



ノエルは言葉を探したが、喉の奥で絡まって出てこない。


「……ごめんなさい。少し、一人にさせてください」


掠れるような声でそう告げると、リヴィアは立ち上がった。ノエルが何か言おうとした時には、すでに背中が扉の方へと向かっていた。


ドアが開く音。そして、静かに閉まる音。

研究室にはノエルだけが残された。

さっきまで隣にいた温もりが嘘のように消え失せ、部屋の広さがやけに虚ろに感じられる。


「……リヴィア……」


名前を呼んでも返事はなく、ただ散らかった資料の残滓だけが二人の言い争いの痕跡を物語っていた。


ノエルは拳を握りしめた。彼女を疑いたくはない。彼女を失いたくもない。

それでも――「守るために疑う」という矛盾に、胸を苛まれるのだった。

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