表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
80/106

80. その程度の存在

研究室で、リヴィアに再度頬へキスをされた翌日。ノエルは今日も、研究室の前の扉の前で立ち尽くしていた。


(……どうすればいい)


昨日、ようやく告白の返事を聞こうと腹を決めた。胸の奥で何度も言葉を組み立て、タイミングも計って——その直後のキス。それで完全にペースを持っていかれた。頬に残る感触は、もう消えているはずなのに、思い出すたびに心臓がひと跳ねする。


(ダメだ、流されるな。今日こそは聞くんだ……)


拳を握り、息を深く吸い込む。扉の向こうに彼女がいる——そう思うと、胃のあたりがぎゅっと縮む。しかし、これ以上時間を引き延ばすのはもっと悪い。


(覚悟を決めろ……!)


意を決して取っ手を押し下げた。扉が開き、視界に広がったのは——暗く静かな室内。人の気配はない。


(……え?)


あれだけ扉の前で逡巡していた時間はいったいなんだったのか。拍子抜けしつつも、ノエルは研究机に向かって腰を下ろす。


(……来たら聞こう)


そう決める。だが、待っているだけでは緊張で頭が空回りするのは目に見えていた。

幸い、仕事はいくらでもある。

昨日リヴィアから受け取った解析結果のまとめを机に広げる。端的で無駄がなく、要点がすぐにわかる資料——彼女らしい。


(やっぱり、昨日話した通り構造解析を優先だな……)


教授から貸与された大学院の機器リストを見返し、使えそうな装置に印をつける。

そうやって作業に没頭しようと努めているうちに、時計の針が静かに進んでいった。



——ガチャリ。


扉の音に顔を上げると、そこから覗くリヴィアの姿があった。

だが、いつもと違う。いつもは教室の光を背負うように入ってきて、その存在感で空気がぱっと明るくなるのに——今日は、光を纏っていない。


(……なんだか、覇気がない?)


少ししゅんとした表情。それはそれで可愛いと思ってしまう自分に、軽く戸惑う。


「……リヴィア?」


問いかけても、彼女は扉のところから動かない。入り口に立ったまま、視線を逸らしている。何かを隠しているような、言い出せないことがあるような——そんな空気。


「どうしました? 中に、入らないんですか?」


自分でもわかる。声がわずかに上ずっていた。心配と、不安と、ほんの少しの期待が入り混じっている。


「リヴィア?」


何度呼んでも反応が鈍い。ノエルは席を立ち、彼女を迎え入れようと扉へ歩み寄った——その瞬間。


「その……ごめんなさい!」


まるで近づくことを拒むように、はっきりとした声が飛んできた。


「……え?」


思わず足が止まる。


「ごめんなさいって、何に?」

「わたし、ほっぺでも家族以外にキスしたらダメだと知らなくて!」

「え……」


理解が追いつかない。けれど彼女は、一息で続ける。


「もうしないので、安心してください!」


高らかな宣言。ノエルの脳内で、昨日の頬へのキスが、無情にも「最後の一回」として上書きされる。


「え、ちょっと待って……もうしない?」

「はい! もう、しませんので!」


胸の奥で何かが音を立てて崩れた気がした。


「今日は、もう恥ずかしいので失礼します。明日は……明日にはちゃんとするので、ごめんなさい」


そう言って、扉の隙間がぱたりと閉じる。静寂だけが残った。


(……フラれた?)


『もうしない』

その一言が、棘のように心に刺さる。昨日まで、自分は彼女の恋人候補だと信じたかった。それが今、足元からすくわれたように思えて——息が浅くなる。


(まさか、明日……婚約解消を言われる……?)


最悪の想像が、頭をよぎる。

もし継続できても、そこに恋人としての居場所はないのだろうか。

机の端に手をつき、ゆっくり腰を下ろすつもりが、そのまま椅子の上で小さくうずくまってしまった。

ただ一つ確かなのは——今日、ノエルは恋人になる絶好の機会を、自分の手で取り逃がしたということだった。




昼休みになり、ノエルはようやく重い腰を上げて部屋を出た。あの後、研究計画を続けようとしたが、まったく手につかなかった。


今日は誰とも昼食の約束をしていなかったのが救いだった。さすがに、この気持ちのまま人と向き合って食事をする気にはなれない。


トボトボと肩を落としながら食堂へ向かう。中庭の脇を通り過ぎようとした、その時——


「ああ、いたわね」

「……ヴァロット嬢?」


不意に声をかけられて振り向くと、セリーヌが立っていた。


「あんたを探してたのよ。リヴィアが一緒じゃないのは好都合だわ。こっちに来て」

「今は、そんな気分じゃないのですが……」

「いいから来なさい。大事な話よ」


有無を言わさず、彼女はノエルの腕を軽く引いて中庭のガゼボへと連れて行く。ここは男女が二人でいれば「恋人同士だ」と噂される場所だ。だが、リヴィアに“もうしない”と宣言された今、そんなことを気にする余裕はなかった。


「……それで、ご用件は?」

「あなた、どうしたの? いつもの張りがないじゃない」

「……いろいろありまして」


——主に、リヴィアのせいで。


「まあいいわ。それで、あなたはリヴィアのこと、どう思っているの? ただの婚約者として繋いでいるだけじゃないわよね」

「……それをあなたに答える必要がありますか?」

「あの子の親友として聞いているのよ、ノエル・アーデン。答えて」

「僕は……」


普段なら即答できる問いだった。だが、今は——リヴィアに拒絶された直後だった。


「……答えられないのね」


セリーヌの目が鋭くなる。何も知らないくせに、と反発心が芽生えかける。


「親友だからといって、あなたに答える義理はないと思いますけど」

「はっ。だからリヴィアを“監禁”なんて目に遭わせるのよ」

「……なぜそれを」

「リヴィアから聞いたのよ。あなたが同じ実行役員だったことも、防げなかった無能だということもね」

「……」

「私がそばにいれば、絶対にあんなことにはならなかったわ。少なくとも、あの子にトラウマなんて負わせない」

「……トラウマ、ですか」

「ええ。でも、あの子があなたに話していないってことは——あなたは“その程度”の存在だってことよ」


言葉の棘が深く刺さる。口の中が乾き、反論が浮かばない。


「……リヴィアには、フラれたので」

「……は? あの子が、そう言ったの?」

「ええ。さっき。“もうキスもしない”と宣言されました」

「……ふっ」


セリーヌは口元を押さえ、こらえきれずに笑った。それは楽しげというより、どこか意地の悪い笑みだった。


「それにはいろいろ誤解がありそうだけど……面白いから、このままにしておくわ」

「誤解……?」

「とにかく、これ以上リヴィアを泣かせたら許さない。なんとしてでもノルゼアに連れて帰るから」


それだけ言い残し、セリーヌは踵を返して去っていった。

残されたノエルは、ベンチに腰を下ろしたまま動けなかった。

胸の奥で、リヴィアの「もうしない」という声と、セリーヌの「その程度の存在」という言葉が、何度も何度も反響していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ