80. その程度の存在
研究室で、リヴィアに再度頬へキスをされた翌日。ノエルは今日も、研究室の前の扉の前で立ち尽くしていた。
(……どうすればいい)
昨日、ようやく告白の返事を聞こうと腹を決めた。胸の奥で何度も言葉を組み立て、タイミングも計って——その直後のキス。それで完全にペースを持っていかれた。頬に残る感触は、もう消えているはずなのに、思い出すたびに心臓がひと跳ねする。
(ダメだ、流されるな。今日こそは聞くんだ……)
拳を握り、息を深く吸い込む。扉の向こうに彼女がいる——そう思うと、胃のあたりがぎゅっと縮む。しかし、これ以上時間を引き延ばすのはもっと悪い。
(覚悟を決めろ……!)
意を決して取っ手を押し下げた。扉が開き、視界に広がったのは——暗く静かな室内。人の気配はない。
(……え?)
あれだけ扉の前で逡巡していた時間はいったいなんだったのか。拍子抜けしつつも、ノエルは研究机に向かって腰を下ろす。
(……来たら聞こう)
そう決める。だが、待っているだけでは緊張で頭が空回りするのは目に見えていた。
幸い、仕事はいくらでもある。
昨日リヴィアから受け取った解析結果のまとめを机に広げる。端的で無駄がなく、要点がすぐにわかる資料——彼女らしい。
(やっぱり、昨日話した通り構造解析を優先だな……)
教授から貸与された大学院の機器リストを見返し、使えそうな装置に印をつける。
そうやって作業に没頭しようと努めているうちに、時計の針が静かに進んでいった。
——ガチャリ。
扉の音に顔を上げると、そこから覗くリヴィアの姿があった。
だが、いつもと違う。いつもは教室の光を背負うように入ってきて、その存在感で空気がぱっと明るくなるのに——今日は、光を纏っていない。
(……なんだか、覇気がない?)
少ししゅんとした表情。それはそれで可愛いと思ってしまう自分に、軽く戸惑う。
「……リヴィア?」
問いかけても、彼女は扉のところから動かない。入り口に立ったまま、視線を逸らしている。何かを隠しているような、言い出せないことがあるような——そんな空気。
「どうしました? 中に、入らないんですか?」
自分でもわかる。声がわずかに上ずっていた。心配と、不安と、ほんの少しの期待が入り混じっている。
「リヴィア?」
何度呼んでも反応が鈍い。ノエルは席を立ち、彼女を迎え入れようと扉へ歩み寄った——その瞬間。
「その……ごめんなさい!」
まるで近づくことを拒むように、はっきりとした声が飛んできた。
「……え?」
思わず足が止まる。
「ごめんなさいって、何に?」
「わたし、ほっぺでも家族以外にキスしたらダメだと知らなくて!」
「え……」
理解が追いつかない。けれど彼女は、一息で続ける。
「もうしないので、安心してください!」
高らかな宣言。ノエルの脳内で、昨日の頬へのキスが、無情にも「最後の一回」として上書きされる。
「え、ちょっと待って……もうしない?」
「はい! もう、しませんので!」
胸の奥で何かが音を立てて崩れた気がした。
「今日は、もう恥ずかしいので失礼します。明日は……明日にはちゃんとするので、ごめんなさい」
そう言って、扉の隙間がぱたりと閉じる。静寂だけが残った。
(……フラれた?)
『もうしない』
その一言が、棘のように心に刺さる。昨日まで、自分は彼女の恋人候補だと信じたかった。それが今、足元からすくわれたように思えて——息が浅くなる。
(まさか、明日……婚約解消を言われる……?)
最悪の想像が、頭をよぎる。
もし継続できても、そこに恋人としての居場所はないのだろうか。
机の端に手をつき、ゆっくり腰を下ろすつもりが、そのまま椅子の上で小さくうずくまってしまった。
ただ一つ確かなのは——今日、ノエルは恋人になる絶好の機会を、自分の手で取り逃がしたということだった。
*
昼休みになり、ノエルはようやく重い腰を上げて部屋を出た。あの後、研究計画を続けようとしたが、まったく手につかなかった。
今日は誰とも昼食の約束をしていなかったのが救いだった。さすがに、この気持ちのまま人と向き合って食事をする気にはなれない。
トボトボと肩を落としながら食堂へ向かう。中庭の脇を通り過ぎようとした、その時——
「ああ、いたわね」
「……ヴァロット嬢?」
不意に声をかけられて振り向くと、セリーヌが立っていた。
「あんたを探してたのよ。リヴィアが一緒じゃないのは好都合だわ。こっちに来て」
「今は、そんな気分じゃないのですが……」
「いいから来なさい。大事な話よ」
有無を言わさず、彼女はノエルの腕を軽く引いて中庭のガゼボへと連れて行く。ここは男女が二人でいれば「恋人同士だ」と噂される場所だ。だが、リヴィアに“もうしない”と宣言された今、そんなことを気にする余裕はなかった。
「……それで、ご用件は?」
「あなた、どうしたの? いつもの張りがないじゃない」
「……いろいろありまして」
——主に、リヴィアのせいで。
「まあいいわ。それで、あなたはリヴィアのこと、どう思っているの? ただの婚約者として繋いでいるだけじゃないわよね」
「……それをあなたに答える必要がありますか?」
「あの子の親友として聞いているのよ、ノエル・アーデン。答えて」
「僕は……」
普段なら即答できる問いだった。だが、今は——リヴィアに拒絶された直後だった。
「……答えられないのね」
セリーヌの目が鋭くなる。何も知らないくせに、と反発心が芽生えかける。
「親友だからといって、あなたに答える義理はないと思いますけど」
「はっ。だからリヴィアを“監禁”なんて目に遭わせるのよ」
「……なぜそれを」
「リヴィアから聞いたのよ。あなたが同じ実行役員だったことも、防げなかった無能だということもね」
「……」
「私がそばにいれば、絶対にあんなことにはならなかったわ。少なくとも、あの子にトラウマなんて負わせない」
「……トラウマ、ですか」
「ええ。でも、あの子があなたに話していないってことは——あなたは“その程度”の存在だってことよ」
言葉の棘が深く刺さる。口の中が乾き、反論が浮かばない。
「……リヴィアには、フラれたので」
「……は? あの子が、そう言ったの?」
「ええ。さっき。“もうキスもしない”と宣言されました」
「……ふっ」
セリーヌは口元を押さえ、こらえきれずに笑った。それは楽しげというより、どこか意地の悪い笑みだった。
「それにはいろいろ誤解がありそうだけど……面白いから、このままにしておくわ」
「誤解……?」
「とにかく、これ以上リヴィアを泣かせたら許さない。なんとしてでもノルゼアに連れて帰るから」
それだけ言い残し、セリーヌは踵を返して去っていった。
残されたノエルは、ベンチに腰を下ろしたまま動けなかった。
胸の奥で、リヴィアの「もうしない」という声と、セリーヌの「その程度の存在」という言葉が、何度も何度も反響していた。




