79. ガールズトーク(リヴィア視点)
二人とも風呂を済ませ、寝間着に着替えた。部屋にはベッドサイドの灯りだけが灯され、柔らかな光が温かく漂っている。ベッドの上には、メイドが用意したお菓子と飲み物が載ったお盆。リヴィアはそれを手に取り、セリーヌと並んで腰を下ろした。広いベッドは、二人が横になっても余裕がある。今日はそのまま一緒に寝るつもりだった。
学生時代の夜を思い出す――ただ、あの頃と違うのは、先ほどの馬車での出来事が、まだ胸の奥でくすぶっていること。
セリーヌが口を開いた。
「……それで、馬車でのことだけど。何があって、ああなったの?」
ついに来たか、とリヴィアは心の中で息をつく。
「ええと……ちょっと、暗いところが苦手になっちゃって、ね」
「暗いところが苦手って……あなた、全然そんなことなかったじゃない。しかも、あれは“ちょっと”なんてレベルじゃないわ」
「突然そうなっちゃったというか……なんというか……」
「いつからよ」
セリーヌの視線が鋭くなる。
「……今年の初めくらい、から」
「何があったの?」
その問いは鋭く、逃げ道を塞ぐようだった。
――式典での出来事は非公開にしてほしいと願った。だが、隠し通せるものでもないと薄々わかっていた。
「……年の初め、神殿の式典で実行役員をしていて」
「ええ、優秀なあなたなら当然ね」
「そこで……一緒に役員をしていた人に、その……監禁されちゃって」
ぴたりと、セリーヌの呼吸が止まった。
「……は?」
「真っ暗な場所に閉じ込められて……それ以来、暗いところが苦手になったの」
沈黙が、部屋の温もりを一瞬で奪う。セリーヌの目は、凍りついたように鋭く細められていた。
「……それ、あの男は知っているの?」
「知ってるわ。助けてくれたのも、ノエルだったし。この症状のことは、知らないけど……」
「つまり――彼はあなたが監禁されそうな状況にいたことを知っていたのに、そうなるまで許したってことね?」
「待って、それは語弊が――」
「語弊なんてないわ!!」
怒声が弾けた。セリーヌはシーツを握り締め、白い指先が血の気を失うほど力を込めている。
「しかも、その症状のことは話してないですって……? あの男は、あなたが苦しんでいることすら知らないままでいるの?」
怒りの熱が、空気を焦がす。瞳の奥に炎が燃え、今にも立ち上がりそうな勢いだった。
「リヴィア、今すぐ――あの男と婚約破棄しなさい!!」
(……やっぱり、ものすごく怒ってる……!)
「ちょ、ちょっと、セリーヌ、落ち着いて……!」
「落ち着いてなんていられないわ! あなたがこんなに苦しんでいるのに! あの男はのうのうと何も知らずに生活してるなんて!!」
「セリーヌ! 声が大きいわ!」
肩を上下させ、荒い息を吐くセリーヌの腕を、リヴィアはそっと取った。
「……心配してくれて、ありがとう。でも……大丈夫だから」
「よくないわ。あなたの苦しみを知らない婚約者なんて」
「だから、今は……私から話す時まで、黙っていて」
しばしの沈黙ののち、セリーヌは深く息を吐き、ようやく拳を解いた。
「……どうして、あの男をそこまで庇うのよ。あなたにとっては、ただの婚約者でしょう?」
ただの婚約者――そう、リヴィアにとって、ノエルは確かにそうだった。
でも、今は違う。
「……セリーヌ」
「何よ」
「私、実は、ノエルのことが……好きみたい」
不思議と、声が震えた。
そこで、はたと気づく。好きと伝えることが、こんなにも勇気のいることだと。
延期し続けている告白への返事は、後回しでいいとさえ思っていたのに――セリーヌに話すだけで、こんなにも胸が締めつけられる。
そう内心で戸惑いながらも、返事がないことに気づいた。
セリーヌを見ると、目を大きく開いたまま固まっている。
「……セリーヌ、大丈夫?」
「……大丈夫じゃ、ないわ」
その声音は、さっきまでの怒りとは違った。
鋭さは影を潜め、代わりに混乱と、ほんの少しの動揺が滲んでいる。
「だって……あなた、さっきまであの男のことで苦しんでたじゃない。暗い場所での発作だって、あの人は知らない。それなのに……“好き”ですって?」
眉間に深い皺を寄せたまま、セリーヌはリヴィアを射抜くように見据えていた。
探るような視線の奥で、言葉が渦巻きながら形にならず、吐き出されたのは断片的な問いだけ。
「……いつから? どうして?」
「自分でも、よくわからないの。ただ……一緒にいて、気がついたの。ああ、私、ノエルのことが好きなんだって」
セリーヌはゆっくりと視線を落とした。
その動きは、言葉にならない何かを無理やり飲み込んでいるようだった。
「……そう。じゃあ、私はどうしたらいいのかしらね」
小さく息を吐くと、セリーヌはベッドの背もたれに身を預けた。
先ほどまでの激情は消えていたが、その横顔には複雑な感情が揺れている。
「どうもしなくていいわ。あなたは、あなたのままでいてくれれば」
「応援なんてしないわよ」
「いらないわ。ノエルも私のこと好きって言ってくれているし、あとは私の気持ちを伝えるだけだから……」
「あの男が、あなたのその症状を知って、受け入れてくれると思っているの?」
「ノエルなら、受け入れてくれるわ。絶対」
その声には、揺るぎない静かな確信があった。
「でも、できれば、それまでにこの症状を治そうとしているんだけどね」
「何やっているの?」
「暗闇で、耐えるとか……?」
「そんなの絶対ダメよ! 悪化するだけだからそれ!」
「でも、暗闇が駄目だといざという時大変でしょう?」
「いざという時っていつよ! ……ああ、あなたってたまにこういう脳筋なところがあるのよね。ショック療法で治るわけないじゃない!」
「そうかしら……」
誰にも相談できなかったから、治し方もわからなかった。それでも、不思議とセリーヌに知られた今、胸の重さはほんの少し軽くなっていた。
「こんなこと聞きたくないんだけど、あの男のどこが好きなの?」
「……可愛いところ」
「……は?」
セリーヌはわずかに口を開けたまま固まった。
「ノエルって、私といる時、とっても可愛いのよ。照れて、それでいて柔らかく笑って。それに癒されるというか……」
「……」
「ほっぺにキスした時とかも、真っ赤になって固まって」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。キス、したの?」
「キスって言っても、口じゃないわよ。ほっぺにね。誰にでもするでしょう?」
「それは家族相手にでしょう?!」
「で、でも! セレスティアで色々聞いた時も、『たまにキスしてくれるとドキドキする』って女の子たちが言ってたじゃない!」
「それは恋人同士で、しかも男からされた場合の話でしょう! あなたは女で、しかも気持ちを伝えていないって言ってたじゃない!」
そう言って、セリーヌは両手で頭を抱えた。
「はあ……初めて、あの男に同情してきたかも……」
「ねえセリーヌ、女性からキスって、しちゃ駄目だった……?」
「リヴィア、考えてみなさいよ。好きな相手に、キスされるのよ。あのヘタレだからそれで終わっているけど、普通だったら襲われても文句言えないわ」
「……知らなかった」
「結婚するまで貞淑性を大事にするなら、今後はやめなさいよ」
ノエルにキスしなければ、またあの表情が見られないのに――そう思いつつも、リヴィアの貞操観念はこの国の常識に従っていた。襲われる事態は、避けなければならない。
「……分かった」
「なんで、そこに間があるのよ」
セリーヌが即座に突っ込む。
「ああ、もう、馬鹿らしくなってきた! もう寝るわよ!」
「睡眠は、お肌の大敵ですものね」
「ストレスもね!」
そう言って、セリーヌは自分の方の明かりをぱちりと消した。
「私の方の明かりも、消そうか?」
「いいわ。あなたがいつも寝ているくらいの明るさで寝てちょうだい」
「それだとかなり明るいけど……」
「問題ないわ」
セリーヌは布団に入り、背を向ける形で横になる。
「セリーヌ」
「何よ」
「……話を聞いてくれて、ありがとう」
「……そんなの、当然でしょ。あなたは私の親友なんだから」
『親友』という言葉が、じんわりと胸を満たす。
あの事件で、暗闇は怖くなった。
でも、それ以上に――リヴィアは、自分がどれほど周囲に愛されているのかを知った。この親友もまた、リヴィアの心を温かく満たしてくれる、大切な存在だった。
「ふふ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
リヴィアはその声に微笑みながら、セリーヌの隣で安らかな眠りへと落ちていった。




