78. 雷雨(リヴィア視点)
馬車の扉が「バタン」と重く閉じた瞬間、外の世界が断ち切られた。
すぐに、雷の光が窓を白く塗り潰し、間を置かず、空気を震わせる低い轟音が腹の底に響く。
その振動が、胸の奥に沈んでいた何かを掴み、容赦なく引きずり下ろした。
馬車は動き始め、窓の外は急速に暗くなっていく。
雨粒がガラスを叩き、湿った空気が狭い車内に溜まっていく。
光は雲に飲まれ、目の前はじわじわと影に覆われた。
――狭い。暗い。閉じられた場所。
(……やだ)
呼吸が止まった。
いや、喉が勝手に閉じ、空気を拒絶している。
心臓が耳の奥で乱暴に鳴り響き、酸素が奪われ、視界がじわりと滲む。
(暗い……出られない……また……)
脳裏に、あの時の映像が鮮やかに蘇った。
冷たく湿った石壁。外から押し付けられる重い扉の音。
その直後、光が奪われた世界。声を上げても返事はなく、暗闇は生き物のように肌にまとわりつき、温度も匂いも音も、すべてを飲み込んでいった。
(やめて……ここから出して……!)
理屈では、今は馬車の中で、セリーヌが目の前にいるとわかっている。
けれど体は、あの時の「閉じ込められた恐怖」に完全に捕らわれていた。
視界の端が黒く塗り潰され、中央だけが揺れるように霞む。指先が震え、背中を冷たい汗が這い降りていく。
「……リヴィア? 顔が真っ青よ!」
セリーヌの声は遠い。厚い布越しのようにくぐもっていて、意味を掴むまでに時間がかかる。
肩に触れられても、その温もりが皮膚まで届かない。
(苦しい……息ができない……!)
肺が焼けるように熱く、背筋を氷が這い上がる。
膝が勝手に固まり、体は小さく丸まり、逃げ場を探すように震えていた。
「リヴィア、大丈夫? 一体どうしたの?」
暗闇の中で、その声だけが細い糸のように差し込んでくる。背中を一定のリズムでさする手の感覚が、現実への道をかろうじて繋いでいた。
雷鳴の直後、ほんのわずかに空気が肺へ入った。それでも呼吸は浅く、胸の奥が詰まりきっている。
「……リヴィア、何すればいい?」
セリーヌの声が、焦りを含みながらもはっきり届く。
視界の端で、彼女が自分の肩をしっかり支えているのが見えた。
「……灯りを……つけて……」
声は震え、途切れ途切れだ。言葉を吐くだけで肺に痛みが走る。
「わかったわ」
次の瞬間、セリーヌの指先に小さな光が灯った。橙色の暖かな光が、黒く閉ざされていた視界に広がっていく。
壁も天井も、車内の輪郭もくっきりと浮かび上がり――「ここは暗闇の檻じゃない」と告げてくれる。
光を見た瞬間、肺が再び動いた。細くても、確かに空気が流れ込む。乱れた呼吸が少しずつ整い、全身の強張りが指先から解けていく。
「……大丈夫、大丈夫よ。私がここにいる」
セリーヌの声がすぐ傍で響き、背中を優しくさする。
その温もりと光が、リヴィアを確実に暗闇から引き戻していった。
しばらくして――
胸の奥にはまだ鈍い痛みが残っているが、呼吸はもう途切れず、視界の明るさが恐怖を押し下げていった。
その安堵の波に、全身から力が抜ける。
まるで糸が切れたように、上体が傾き――気がつけば、セリーヌの肩に額を預けていた。
「……ごめんなさい」
掠れた声でそう言っても、セリーヌは首を横に振り、
「謝らなくていいわ。落ち着くまで、こうしてなさい」
と、背中をゆっくり撫で続けてくれる。
その一定の温もりと、傍らにある柔らかな光が、ようやく「ここは安全だ」と全身に教え込んでくれた。
*
馬車が、ラヴェルナの邸宅に着いたのは、それからそう長くない時間だった。
光と温もりに包まれたまま、リヴィアはセリーヌの肩に額を預けていた。寄りかかったまま、硬直していた体が少しずつ重力に委ねられていく。
家に着く頃には、呼吸も落ち着き、胸を締め付けていた圧迫感は薄れていた。
その間、セリーヌは一度も灯りを消さず、黙って背中を撫で続けてくれていた。
「……ごめんなさい、セリーヌ」
「もう大丈夫なの? 顔色は、だいぶ良くはなっているけど」
「ええ、もう……大丈夫だと思う」
正直、全身は鉛のように重く、心もまだ揺れていた。
それでも、いつまでも弱ったところを見せて、これ以上心配をかけたくない。
リヴィアは無理に微笑みを作り、元気なそぶりを見せた。
馬車が玄関の前で静かに止まる。
「……ちなみに、さっきのこと、ご両親は?」
「心配かけたくないから、内緒にしておいてくれないかしら」
「……後で、ちゃんと聞かせてね」
「ええ、ごめんなさい」
そう言って、リヴィアは扉を開け、外の空気を深く吸い込んだ。雨に洗われた冷たい空気が、肺の奥まで届く。
玄関前には、メイドたちと執事のバルサックが並び、静かに迎えてくれている。
続いて降りてきたセリーヌの手を取り、リヴィアは家の中へと案内した。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
「そちらのお嬢様は、ヴァロット様でいらっしゃいますね。リヴィアお嬢様が留学していた際に、お世話になった方だと伺っております」
「世話になっていたのは私の方よ。今日は、世話になるわ」
「もちろんでございます。ご自身の家のように、お寛ぎくださいませ」
そう言って、バルサックは深く礼をした。馬車から荷物を運ばせながら、夕食について尋ねてくる。
「本日、旦那様と奥様はあいにく不在でして……お食事は、いかがなさいますか?」
「今日は外で軽く食べてきたから、軽めのものを部屋に運んでもらえるかしら?」
「承知しました」
「セリーヌは、私の部屋でいいかしら?」
「ええ、構わないわ」
「じゃあ、バルサック、お風呂の準備もお願い」
「承知しました」
執事は再び恭しく頭を下げ、メイドたちに的確な指示を出し始めた。
リヴィアは、セリーヌを自室へ案内しようと廊下を進んだ。
胸の奥には、まだあの閉ざされた暗闇の余韻がかすかに残っている。息は整ってきたものの、心の芯がどこか揺れている感覚があった。
その時――
「「おねえさま!!」」
背後から、弾むような可愛らしい声が響いた。
振り返ると、妹のナディアとルナが両手を広げて駆け寄ってくる。
「おねえさま、おかえりなさい! これから一緒に遊べる?」
「ただいま、ナディア、ルナ。ごめんね、お姉様はこれからお客様と過ごすの」
「お客様、って?」
「あら、可愛いお嬢さんたちね」
セリーヌのやわらかな声に、二人の視線がぴたりと彼女に向かう。
「わぁ……! お姫様だ!」
「きれい……!」
「……ふふ、可愛いわね」
頬をほんのり染めながら、セリーヌも微笑む。
「こら、二人とも、失礼でしょ。ちゃんとご挨拶なさい」
「ナディア・ラヴェルナです!」
「ルナ・ラヴェルナです!」
「二人は、リヴィアの妹?」
「そうです!」
「双子なの!」
「ああ、どおりでそっくりね。小さい頃のリヴィアに顔が似ているわ」
「お姉様に、似てる?」
「うれしい!」
キャアキャアと跳ねるように喜ぶ妹たち。
その無邪気な声が、暗闇に押し潰されそうだった心の奥を、ほんの少し軽くしてくれる。さっきまで胸にまとわりついていた冷たい影が、温かな色に溶けていくようだった。
「さあ、二人とも。今日はもう寝る時間でしょう? お部屋に戻っておやすみなさい」
「えー」
「やだー」
「早く寝ないと、大きくなれないわよ」
「早く寝たら、お姉様みたいに綺麗になれる?」
「お姉様みたいに、お姫様になれる?」
二人は同時にセリーヌへと顔を向ける。
「ええ、もちろん。私よりもっと素敵なお姫様になれるわ」
「じゃあ、おやすみなさい!」
「おやすみなさい!」
「ええ、おやすみなさい」
元気いっぱいの挨拶を残し、嵐のように駆け去っていく双子。
「ふふ、まるで春風のようね」
「まだ小さいから、あまり深くはわかっていないのよ」
「そうでしょうね。でも……本当に可愛いわ」
その笑顔に、また少しだけ肩の力が抜けた気がした。
二人の後ろ姿を見送りながら、セリーヌとリヴィアも静かに歩を進め、自室へと向かった。




