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76. 距離感迷子

研究室の前で、ノエルは立ち尽くしていた。やることはただ一つ――扉を開けるだけだ。


おそらく、リヴィアはもう中にいる。それから――


(……それから、何をすれば)


普通に考えれば、挨拶して研究の話をすればいい。わかっている。だが、それだけで本当にいいのか。

あの時のことは……このまま触れずにいていいのか。

散々悩んだはずなのに、ここに来てまた思考がぐるぐると回り始める。そんな時、目の前の扉がふいに開いた。


「ノエル?」

「……っ」


そこに立っていたのはリヴィアだった。今日も、いつも通り――いや、いつも以上に。

柔らかな亜麻色の髪も、透き通る薄紫の瞳も、肌のきめ細やかさまでもが光を帯びて見える。ふんわりと浮かべた笑みは、美しさと可愛らしさを同時にまとっていた。


(……っう)


胸の奥で、再び逃げ出したい衝動が疼く。こんなに眩しい婚約者と向き合って、果たして冷静でいられるのか。


「扉の前に気配はあるのに、なかなか入ってこないから心配しましたよ。……さあ、どうぞ」


見かねたように、リヴィアがノエルの手を取って中へと促す。扉を閉め、新調されたばかりのソファにやわらかく誘導した。


「紅茶、いります?」

「あ、はい……いただきます」


答えると、リヴィアはこれまた新しいティーセットを手に、迷いなく準備を始める。どうやらお湯はすでに沸かしてあったらしい。流れるような手つきは、何度も同じ所作を繰り返してきた人のそれだ。


「あの後、熱が上がっていたと聞きました。お見舞いに行きたかったんですが……お父様に止められてしまって」

「うつる風邪だと困りますから、大丈夫ですよ」


――もっとも、原因は風邪ではなく知恵熱なのだが。


「もう体は平気ですか?」

「ええ、しっかり休みましたから。この通り、元気です」


リヴィアは二人分の紅茶を運び、サイドテーブルに置く。そして、そのままノエルのすぐ隣に腰を下ろし、真っ直ぐに見つめてくる。薄紫の瞳が、距離を奪う。


おでこにひやりと手が触れた。一瞬で、前回のキスの記憶が蘇る。


(……え、何この状況)


体にギュッと力が入る。

リヴィアは、すっとおでこから手を離した後、ノエルの片手に両手を添え、また少し止まる。


「……魔力の流れも、熱もなさそうですね」


どうやら、魔力感知も兼ねた体調確認らしい。

だが、ノエルの心拍はどう考えても正常値から外れている。


「心配していたから、よかった」

「……は、い……」


掠れた声で返し、ノエルは余った片手で顔を覆った。きっと、また頬が赤くなっている。



「……かわいい」


(……かわいい?)

リヴィアの口から小さく洩れたその声は、かろうじてノエルの耳に届いた。

この場面でかわいいとは、自分に向けた言葉なんだろうか。


「ノエルがいない間に、解析中だった魔石の結果が出たので、少しまとめておきました。見ていただけますか?」


リヴィアはそう切り出すと、ノエルと繋いでいた手をそっと離し、ソファから立ち上がった。その一瞬の温もりが名残惜しく、ノエルは思わず自分の手をじっと見つめてしまう。


「……ノエル?」

「ああ、すみません。ありがとうございます」


わずかに声が遅れて返る。ノエルは紅茶を片手に持ち、リヴィアと並んで研究机へ向かった。


「結構、解析に時間がかかりましたね」

「サンプル数が多かったですから。でも、その分、面白い結果も出ました」


そう言って、リヴィアは丁寧にまとめた資料を机に広げる。


「まず、魔力量や魔力濃度を計測して、内蔵している魔力量順に魔石を並べてみたんです」

「これは……魔力量が多いほど色が濃くなっている?」

「はい。魔力量が増えると、より深い青色になります。逆に、少ないものは淡い青色に」

「魔力量が少ないものは、ほとんど通常の魔石と同じ色ですね」

「そうなんです。ほかの解析値も、通常の魔石と一致していました」


ノエルは資料に目を落としながら顎に手を当てる。


「……特殊魔石の周辺で採取したものは全部送ってくれるように頼んでいましたが、通常の魔石も混ざっていたのかもしれませんね」

「どうなんでしょう……ただ、魔力量が多いものに関して、色の違いは明確でしたね」


リヴィアは深い青を帯びた魔石を一つ、光にかざした。


「特にこれ。測定値は通常の魔石の百二十倍にもなりました。ほかのサンプルと比べても、ずば抜けています」

「百二十倍……」


ノエルは低く息を呑む。


「ということは、この色だけで魔力量をある程度推測できるわけですね」

「はい。精密測定ほど正確ではありませんが、現場での判別には十分役立ちます」


ノエルは別の魔石を掌の上で転がし、その重みを確かめる。


「でも……通常の魔石は、魔力量が多ければ比例して大きくなるはずです」

「ええ。けれど、この魔石はそうではないんです」


リヴィアは並べられた魔石を示しながら続ける。


「むしろ、魔力量の少ない方が、わずかに大きい場合もあります」

「……となると、内部構造が違う可能性が高いですね」


ノエルの声は、自然と研究者の響きを帯びていた。


「結晶の密度が高いとか、構造が通常とは異なるとか」

「もしそうなら、小さいままでも大量の魔力を保持できる理由が説明できます」

「次は、結晶構造の解析をしましょうか」

「はい。内部構造が分かれば、この魔石がどうやって魔力を蓄えているのか、もっとはっきりします」

「……もう少し、この資料に目を通してもいいですか? 他にも気づくことがあるかもしれません」

「ええ、もちろん。お願いします。」


ノエルは、反対側の机に腰を下ろし、リヴィアがまとめてくれた資料に目を通し始めた。

紙の端に指をかけながら、先ほどの会話を反芻する。


(……あれ、今は普通に話せてた、気がする)


研究という共通の話題のおかげか、過剰に意識することなく言葉を交わせた。

これは、正直ありがたい。ずっと意識しっぱなしでは、確実に支障が出る。

こうして少しずつ……以前のように接することができれば――


(……以前のように?)


そこで思考が止まった。

いや、自分が求めていたのは“以前の距離”じゃない。自分は、リヴィアと恋人になりたい。

リヴィアが歩み寄ってくれている今こそ、この機会を逃すべきではないのでは――


しかし、まだ返事はもらっていない。

答えを聞く前に、今まで以上の距離を詰めてしまっていいのか。その一線を越えるのは、返事をもらってからだ。


よし、決めた。もう一度、正式に告白の答えを聞こう。そして――恋人に。


ノエルは資料から顔を上げ、口を開きかけた、その瞬間――


「リヴィ……っ」

「ノエル?」


声を掛けようとした相手は、向かいに座っているはずだった。だが、いつの間にか隣に来ていて、すぐそばから覗き込んでいた。

あまりの距離の近さに、ノエルは固まる。


「すみません、このあとセリーヌと約束があるので、失礼しますね」

「……あ、はい。えっと、大丈夫です。行ってらっしゃい」

「また明日、続きの話をしましょう」


しどろもどろに答えるノエルに、リヴィアはふわりと笑みを向ける。相変わらず眩しい笑顔。ノエルは思わず、書類へ視線を落としてごまかした。

少なくとも、この場で告白の返事を聞ける空気ではない。


(……機会は、またある)


まずは、この笑顔に慣れなければ。

そう自分に言い聞かせて再び顔を上げると――



ちゅっと、頬に柔らかい感触が落ちた。


「いってきます」


耳元に息がかかるほど近くで囁き、満足げに笑ったリヴィアは、軽やかに研究室を後にした。

ノエルは、動けないまま机に顔を埋める。


(……距離感が、わからない……!)


その心の叫びは、無情にも誰の耳にも届くことはなかった。

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