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74. 自覚(リヴィア視点)

「あーあ、逃げちゃった」

「やっぱり刺激が強かったのかしらね?」


後ろでユリオとアメリアが、面白がるように囁き合う。


「リヴィア、やっぱりあの婚約者、やめといたら?」

セリーヌが呆れたようにため息をつく。その声音には、半分本気の皮肉が混じっていた。


リヴィアは小さく首を振った。

視線の先には、曲がり角の向こうに消えたノエルの背中――もう、見えない。


「……なんで、逃げるの……?」


かすかな声は、春の風に溶けるように消えていった。


「わたし、探してきます」

「あんな男、放っておきなさいよ」


セリーヌの声を背中で受け流し、リヴィアはノエルの後を追った。



(なんで、逃げられたんだろう……)


久しぶりに一人で貴族院の廊下を歩く。

廊下の窓から差し込む光は柔らかいのに、胸の奥はざわついて落ち着かない。


真っ先に研究室を覗いたが、中は空だった。

いつもならそこにいて、笑顔で迎えてくれるはずのノエルの姿がない。


こんなことは初めてだった。

私がノエルを避けたことはあっても、ノエルが私を避けたことはない。

少なくとも、留学から帰って再会してからは、彼は常に私と一緒にいるだけで嬉しそうで――自分から去ることなんてなかった。


ふいに、初めて会った日の冷たい拒絶の記憶がよぎる。

背中に冷や汗が走った。


(わたし……こんなにノエルに甘えてたんだ……)


ノエルは、もう私にとって安全地帯だった。

好きだという言葉よりも、その態度や仕草が、私をずっと包み込んでくれていた。

だから、信じ切っていたのだ。

ノエルに拒絶されることなんて、ないと。


けれど、こうして彼が距離を置こうとすれば、あっけなく足元は崩れる。

視線を向けてもらえないだけで、胸が苦しくなる。


(……探して、話さなきゃ)


失いたくない。

その一心で、リヴィアは校舎を駆け出した。



「……みつけた」


屋上の隅。

ノエルは手すりにもたれるでもなく、屋上の段差部分に腰を下ろし、背中を丸めて俯いていた。

夕暮れの空は淡い茜色に染まり、校舎の影が長く伸びている。

昼のぬくもりは消え、風は少しひんやりとして頬を撫でた。


声に反応して、ノエルの肩が小さく揺れる。

それでも振り向かないまま、顔を両手で覆って呟いた。


「……すみません。さっきは、逃げてしまって」

「私、何かしてしまいましたか? 気に障るようなことをしていたなら、謝らせてください」

「リヴィアは、全く悪くないです。悪いのは僕の方で……」

「じゃあ、どうして……?」


自分でも気づかぬうちに、声が少しだけ強くなる。

責めるつもりなんてないのに、それほどまでに、彼が自分にとって大切なのだ。


沈黙。

ノエルは背を向けたまま、俯いた姿勢を崩さない。

いつもならすぐにこちらを向いて、あの穏やかな笑顔を見せてくれるはずなのに。


「ノエル」

「……今は、まだ勘弁してください。もう少ししたら落ち着きますから」

「顔を上げてください」

「……無理です……」


掠れるような声。

胸の奥で何かがきしむ。


もう我慢できなかった。

リヴィアは膝をつき、彼の前にしゃがみ込む。

覆っていた手をそっと外し、その顔を覗き込んだ。


「……え?」


真っ赤だった。

夕日のせいではない。耳まで染まり、瞳はうるんでいて、泣き出す寸前のようにも見える。

あの、涼しげで隙のない紳士の顔が、そこにはなかった。


「ど、どうしたんですか? 具合が悪い? 保健室まで運びます!」


慌てて身体強化の魔術を使おうとした瞬間、ノエルが慌てて制止する。


「ち、違います! 本当に大丈夫ですから! お姫様抱っこは勘弁してください!」


渋々魔術を解き、もう一度その顔を覗き込む。

やはり真っ赤なままだ。


「……どうしたんですか?」

「……リヴィアが」

「……はい」


(やっぱり私が原因……?)


拳に力が入る。覚悟を決めた瞬間――


「リヴィアが……眩しすぎて耐えられなかったんです……!」


(……は?)


「いつも綺麗で可愛いのに、今日はそれ以上に……光って見えて。女子たちに囲まれて、楽しそうで……それで、そのまま近づいてこられたら、もう無理だって……」


尻すぼみになっていく声。

らしくない。けれど、その必死さが胸に届く。


(……眩しかった、から?)


さっきまでの不安が、音もなく溶けていく。

心が温かく満たされていくのを感じた。


「ノエルって……本当に私のこと、好きなんですね」

「何度も言ってるじゃないですか……」


掠れた声。


「すみません、情けない婚約者で……もう少しすれば落ち着くと思うので、先に帰っててください」


その声は、どこか弱々しかった。

普段なら決して見せない、揺らぎ。

ここに来てから、女子学生たちの間で彼がどう評されているかを、リヴィアは何度も耳にしてきた。

成績も魔法の才も申し分なく、常に穏やかで紳士的――まるで絵に描いた王子様。

そんな姿を、皆が憧れと羨望の目で見ている。


けれど、今のノエルは違う。

こんなふうに、肩を落とし、頬を赤く染め、情けないと自分を下げて見せる姿。

それを見られるのは、きっと自分だけ。


そう気づいた瞬間、胸の奥に熱が灯る。

ノエルが、愛おしい。たまらなく。


(……あ、わたし、ノエルのことが好きなんだ)


一年目に抱いていた「婚約者だから守らなければ」という義務感じゃない。

心の底から、彼を守りたいと思う。

ただ側にいて、笑っていてほしいと思う。

それは、紛れもない好意だった。


リヴィアはノエルの正面に回り込み、そっと頬に手を添える。


「もう、ノエル。慣れてちょうだい」

「……え?」

「わたしと、これからずっと一緒にいるんだから。慣れるのが早いと思うの」


その言葉に、ノエルの瞳が揺れる。

赤く染まった頬は、やっぱり可愛くて、可愛くて――


リヴィアはそっと、その頬に唇を触れさせた。


「……っ」


驚きで固まったノエルを残し、立ち上がる。


「わたし、先に帰りますね。また明日、研究室で」


屋上を吹き抜ける風が、頬の熱をそっと攫っていく。

それでも胸の奥は、今までで一番あたたかかった。





扉を閉めた瞬間、はっと気づく。


(……告白の返事もしていないのに、ほっぺにキスなんて)


もしかしたら、彼は困惑したかもしれない。

けれど――今の気持ちだけは、抑えることができなかった。


唇の端が自然に上がる。

春の風に溶けるような笑みを浮かべながら、リヴィアは階段を下りていく。


階段を下りる足音が、石壁に反響する。

すでに暗くなり始めたせいか、薄暗く下へと続く。

その薄暗さが、あの時のことを思い出させようとする。


――けれど、首を振って振り払った。


出口はすぐそこだ。

リヴィアは緩んだ気を引き締めて、階段を駆け降りた。



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