74. 自覚(リヴィア視点)
「あーあ、逃げちゃった」
「やっぱり刺激が強かったのかしらね?」
後ろでユリオとアメリアが、面白がるように囁き合う。
「リヴィア、やっぱりあの婚約者、やめといたら?」
セリーヌが呆れたようにため息をつく。その声音には、半分本気の皮肉が混じっていた。
リヴィアは小さく首を振った。
視線の先には、曲がり角の向こうに消えたノエルの背中――もう、見えない。
「……なんで、逃げるの……?」
かすかな声は、春の風に溶けるように消えていった。
「わたし、探してきます」
「あんな男、放っておきなさいよ」
セリーヌの声を背中で受け流し、リヴィアはノエルの後を追った。
*
(なんで、逃げられたんだろう……)
久しぶりに一人で貴族院の廊下を歩く。
廊下の窓から差し込む光は柔らかいのに、胸の奥はざわついて落ち着かない。
真っ先に研究室を覗いたが、中は空だった。
いつもならそこにいて、笑顔で迎えてくれるはずのノエルの姿がない。
こんなことは初めてだった。
私がノエルを避けたことはあっても、ノエルが私を避けたことはない。
少なくとも、留学から帰って再会してからは、彼は常に私と一緒にいるだけで嬉しそうで――自分から去ることなんてなかった。
ふいに、初めて会った日の冷たい拒絶の記憶がよぎる。
背中に冷や汗が走った。
(わたし……こんなにノエルに甘えてたんだ……)
ノエルは、もう私にとって安全地帯だった。
好きだという言葉よりも、その態度や仕草が、私をずっと包み込んでくれていた。
だから、信じ切っていたのだ。
ノエルに拒絶されることなんて、ないと。
けれど、こうして彼が距離を置こうとすれば、あっけなく足元は崩れる。
視線を向けてもらえないだけで、胸が苦しくなる。
(……探して、話さなきゃ)
失いたくない。
その一心で、リヴィアは校舎を駆け出した。
*
「……みつけた」
屋上の隅。
ノエルは手すりにもたれるでもなく、屋上の段差部分に腰を下ろし、背中を丸めて俯いていた。
夕暮れの空は淡い茜色に染まり、校舎の影が長く伸びている。
昼のぬくもりは消え、風は少しひんやりとして頬を撫でた。
声に反応して、ノエルの肩が小さく揺れる。
それでも振り向かないまま、顔を両手で覆って呟いた。
「……すみません。さっきは、逃げてしまって」
「私、何かしてしまいましたか? 気に障るようなことをしていたなら、謝らせてください」
「リヴィアは、全く悪くないです。悪いのは僕の方で……」
「じゃあ、どうして……?」
自分でも気づかぬうちに、声が少しだけ強くなる。
責めるつもりなんてないのに、それほどまでに、彼が自分にとって大切なのだ。
沈黙。
ノエルは背を向けたまま、俯いた姿勢を崩さない。
いつもならすぐにこちらを向いて、あの穏やかな笑顔を見せてくれるはずなのに。
「ノエル」
「……今は、まだ勘弁してください。もう少ししたら落ち着きますから」
「顔を上げてください」
「……無理です……」
掠れるような声。
胸の奥で何かがきしむ。
もう我慢できなかった。
リヴィアは膝をつき、彼の前にしゃがみ込む。
覆っていた手をそっと外し、その顔を覗き込んだ。
「……え?」
真っ赤だった。
夕日のせいではない。耳まで染まり、瞳はうるんでいて、泣き出す寸前のようにも見える。
あの、涼しげで隙のない紳士の顔が、そこにはなかった。
「ど、どうしたんですか? 具合が悪い? 保健室まで運びます!」
慌てて身体強化の魔術を使おうとした瞬間、ノエルが慌てて制止する。
「ち、違います! 本当に大丈夫ですから! お姫様抱っこは勘弁してください!」
渋々魔術を解き、もう一度その顔を覗き込む。
やはり真っ赤なままだ。
「……どうしたんですか?」
「……リヴィアが」
「……はい」
(やっぱり私が原因……?)
拳に力が入る。覚悟を決めた瞬間――
「リヴィアが……眩しすぎて耐えられなかったんです……!」
(……は?)
「いつも綺麗で可愛いのに、今日はそれ以上に……光って見えて。女子たちに囲まれて、楽しそうで……それで、そのまま近づいてこられたら、もう無理だって……」
尻すぼみになっていく声。
らしくない。けれど、その必死さが胸に届く。
(……眩しかった、から?)
さっきまでの不安が、音もなく溶けていく。
心が温かく満たされていくのを感じた。
「ノエルって……本当に私のこと、好きなんですね」
「何度も言ってるじゃないですか……」
掠れた声。
「すみません、情けない婚約者で……もう少しすれば落ち着くと思うので、先に帰っててください」
その声は、どこか弱々しかった。
普段なら決して見せない、揺らぎ。
ここに来てから、女子学生たちの間で彼がどう評されているかを、リヴィアは何度も耳にしてきた。
成績も魔法の才も申し分なく、常に穏やかで紳士的――まるで絵に描いた王子様。
そんな姿を、皆が憧れと羨望の目で見ている。
けれど、今のノエルは違う。
こんなふうに、肩を落とし、頬を赤く染め、情けないと自分を下げて見せる姿。
それを見られるのは、きっと自分だけ。
そう気づいた瞬間、胸の奥に熱が灯る。
ノエルが、愛おしい。たまらなく。
(……あ、わたし、ノエルのことが好きなんだ)
一年目に抱いていた「婚約者だから守らなければ」という義務感じゃない。
心の底から、彼を守りたいと思う。
ただ側にいて、笑っていてほしいと思う。
それは、紛れもない好意だった。
リヴィアはノエルの正面に回り込み、そっと頬に手を添える。
「もう、ノエル。慣れてちょうだい」
「……え?」
「わたしと、これからずっと一緒にいるんだから。慣れるのが早いと思うの」
その言葉に、ノエルの瞳が揺れる。
赤く染まった頬は、やっぱり可愛くて、可愛くて――
リヴィアはそっと、その頬に唇を触れさせた。
「……っ」
驚きで固まったノエルを残し、立ち上がる。
「わたし、先に帰りますね。また明日、研究室で」
屋上を吹き抜ける風が、頬の熱をそっと攫っていく。
それでも胸の奥は、今までで一番あたたかかった。
扉を閉めた瞬間、はっと気づく。
(……告白の返事もしていないのに、ほっぺにキスなんて)
もしかしたら、彼は困惑したかもしれない。
けれど――今の気持ちだけは、抑えることができなかった。
唇の端が自然に上がる。
春の風に溶けるような笑みを浮かべながら、リヴィアは階段を下りていく。
階段を下りる足音が、石壁に反響する。
すでに暗くなり始めたせいか、薄暗く下へと続く。
その薄暗さが、あの時のことを思い出させようとする。
――けれど、首を振って振り払った。
出口はすぐそこだ。
リヴィアは緩んだ気を引き締めて、階段を駆け降りた。




