7. すれ違い
講義の鐘が、静かに学院中に響いた。
「あ、そろそろ終わりですね」
リヴィアが手元のノートを閉じながら、穏やかに言った。
「……今日、ここまでですね」
僕も書きかけのメモをまとめながら、ふと隣を見やる。せっかく今日ここまで話せたのに──
このまま流れ解散、はちょっと、もったいない。
意を決して、声をかけた。
「えっと、リヴィア嬢」
「はい?」
「……もしよければ、放課後、少しだけ時間をもらえませんか?今日の課題の続き、一緒に整理できたらと思って」
言い終えてから、少しだけ胸がざわついた。別に、変な意味はない。ただ、純粋に課題のため。うん、課題のため──たぶん。
リヴィアは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた後、ふわりと微笑んだ。
「もちろんです。私も、もう少し整理しておきたかったので」
「よかった……!」
安堵で力が抜けそうになるのをこらえて、僕は笑った。
「では、放課後、図書館の自習室で」
「はい。よろしくお願いしますね。」
リヴィアは、そっとノートを抱え直して、椅子から立ち上がる。
「それでは、また後ほど」
「はい、また後で」
ほんのわずかに、二人だけの秘密の約束みたいに聞こえたのは、たぶん、僕の気のせいだ。
講義室の扉の向こう、春の光が優しく差し込んでいた。
*
講義室を出たところで、待ち伏せしていたユリオにあっさり捕まった。
「なあノエル。魔石と魔導具の理論、マジでむずくね?」
開口一番、それかよ、と思いながら僕は歩を緩める。
「まあ……簡単ではないな」
「“魔力流動の整合性”とか、“術式負荷の分散管理”とか……単語だけで頭痛するんだけど」
「少なくとも、その辺は必修だから、避けて通れないぞ」
ぼやくユリオに、レオンが呆れた顔で肩をすくめる。
「教本読めば一応、基礎は全部載ってるだろ。図解もあったじゃないか」
「図解があったら理解できるとは限らねぇんだよ、レオン先生……」
やれやれと笑いながら、僕はカバンからノートを取り出した。
「ほら、基本まとめたノート。要点だけ整理してあるから、よかったら写せ」
「神か……ノエル神か……!」
感動した顔で手帳を受け取るユリオを見て、レオンがぼそりとつぶやく。
「にしても、今日はやたら機嫌いいな、ノエル」
「……別に普通だろ」
「いや、普通にしては優しすぎるし、顔が柔らかすぎる。講義中もずっと目がキラッキラしてたぞ」
「……目の錯覚だ」
「俺は見た。魔石の図を前にうっかりにやけてたノエルを」
「魔石ににやけるわけないだろ!」
一応全力で否定したけど、二人の目には明らかに「はいはいわかってます」感が浮かんでいた。
「ま、いいや。どうせ放課後、課題やるんだろ?」
「……ああ」
「まあ、がんばれ、術式設計の鬼」
「魔石暴走させるなよー?」
「……あのな」
ツッコミながらも、なぜか顔が熱くなるのを止められなかった。
*
そして放課後。図書館の自習室へ向かう足取りは、自然と速まっていた。
(……今日こそは、もっと話せたらいいな)
図書館の自習室に向かう途中、僕はふと足を止めた。
──見覚えのある、淡い金の髪。
リヴィアだ。
すでに席に着いて、誰かと話している。
相手は、見たことのある男子生徒だった。確か、魔術理論の上位組に入る優秀な生徒だ。
「こちらこそ、教えてくださってありがとうございます」
リヴィアは、控えめに、けれど自然な笑顔を向けていた。
──その笑顔は、あの日、僕に向けたものと変わらなかった。
一瞬、胸の奥がちり、と音を立てた気がした。
(……特別でも、なんでもなかったんだな)
そう思った瞬間、自分でも驚くほど、心が冷えるのを感じた。
リヴィアにとっては、誰にでも優しく、誰にでも丁寧で、誰にでも微笑む。僕にだけ、というわけじゃない。
理解していたはずなのに、現実を突きつけられると、思っていた以上に堪えた。
男子生徒は僕に気付いた後、リヴィアに一礼して、軽く手を振ると去っていった。リヴィアは男子生徒と分かれた後、僕に向けて同じように柔らかな笑みを向けてくる。
深呼吸を一つ。今は、感情に流される時じゃない。今日は課題を進めるために来たのだから。
気持ちを押し込め、できるだけ自然な足取りでリヴィアに近づく。
「お待たせしました、リヴィア嬢」
「ノエル様。お待ちしておりました」
できるだけ平静を装いながら、リヴィアが引いてくれた椅子に腰を下ろす。
すでにエスコートされ慣れてきているのは否定しない。
「彼とは何を?」
「ノルゼアの文化について質問を受けていたんです。
この国とはかなり文化が違うので、気になっていたとのことで。」
また心の中にモヤが生じるのを感じた。
本来なら、その話をするのは僕であるはずなのに。
「では、先ほどの続きから始めましょうか」
リヴィアは、何も変わらない様子で席に着いた。
僕も隣に腰掛け、ノートを開く。
しかし、頭の片隅では、さっきの光景がまだ消えていなかった。
──僕が、勝手に期待して、勝手に落ち込んでいるだけ。
(そもそも、五年前──)
思い出す。初めて会った日。幼すぎた自分の、無神経な言葉。どれだけ彼女を傷つけたか、成長した今なら痛いほどわかる。
婚約者として嫉妬する権利も、僕にはまだない。
「リヴィア嬢」
机に向かう手を止めて、僕は彼女をまっすぐ見た。
「……改めて、言わせてください。五年前、無神経なことを言ってしまったこと──本当に、申し訳ありませんでした」
一呼吸。リヴィアは、ほんの一瞬だけ瞬きをした。
そして、少し間を置いて、いつも通りの微笑を浮かべた。
「……そのようなこと、もうお気になさらないでください、ノエル様」
その言葉は、穏やかだった。けれど──どこか、すうっと距離を取るような、よそよそしさを含んでいた。
「私の方こそ、当時は……至らぬ点が多く、失礼いたしました。どうぞお心に留め置かれませんよう」
リヴィアの声はあくまで礼儀正しく、柔らかかった。
それなのに、まるで手の届かないガラス越しに話しかけられているような、そんな感覚だった。
それでも、リヴィアにもう一度謝りたくて、僕は言葉を絞り出そうとした。
「いや──」
「では、課題に入りましょうか」
そんな隙も与えず、リヴィアは何事もなかったかのように魔術理論書を開く。
「……はい」
僕も、ぎこちない手つきでノートを広げた。
けれど、さっきまでの柔らかな高揚感は、もうどこにもなかった。
必要最低限の作業を終えた頃、リヴィアはきちんと整った字で筆記を締めくくると、席を立った。
「本日はありがとうございました、ノエル様」
「……こちらこそ」
「それでは、失礼いたします」
すっと頭を下げたあと、リヴィアは図書室を後にした。
その後ろ姿を、僕はただ静かに見送るしかなかった。
──手を伸ばせば、届きそうなのに。
けれど、決して、触れてはいけないような。
そんな痛みが、胸の中にじわりと広がっていった。