58. ユリオの恋Ⅰ(ユリオ視点)
ベルナール伯爵家の三男坊ユリオは、春休みに久しぶりに帰省した実家の自室で、数枚の釣書と向き合っていた。
昨夜、何日も馬車に揺られてようやく帰宅し、ベッドに倒れ込んでそのまま眠りに落ちた。そして今朝、遅めに起きて食堂に向かい、朝食をとろうとしたところで、久しぶりに顔を合わせた父から手渡されたのがこの釣書だった。
「お前も、そろそろフラフラするのをやめて、婚約者を決めなさい」
「おかえり」の一言もなく、いきなり浴びせられた小言。それは、これまで何度も聞かされてきた言葉だった。
(せっかく帰ってきたのに、初っ端からこれじゃあなぁ……)
心の中で悪態をつきながら、朝食を食べる気力を失ったユリオは、とはいえ釣書を放り投げるほどの度胸もなく、それらを持って部屋へと引き返してきた。
釣書は全部で五枚。
「はぁ……」
ため息をつきつつ、一枚ずつ内容を確認する。どれも伯爵家以下の家の長女が中心で、家督を継がない三男であるユリオの立場を考慮した選定なのだろう。
もっとも、ユリオ本人は領地経営にはまったく興味がなく、どれも心惹かれることはなかった。
中には見覚えのある娘もいた。確か、ノエルのファンだったはずだ。
(友人の追っかけが婚約者なんて、冗談じゃない)
人気者のノエルのことだ、ユリオが知らないだけで他にもファンはいるだろう。結局、全てに目を通し終えたあと、それらを部屋の隅に押しやった。
こうして、ユリオの帰省は最悪のスタートとなった。
本当はもっと、楽しい気持ちで羽を伸ばすつもりだったのに。
「……腹も減ったし、街にでも行くか」
ユリオは考えるのをやめた。深く考えない、それが彼の処世術であり、楽天的な性格を象徴する行動だった。
そして、窮屈な実家を抜け出し、街へと足を運んだ。
*
街に着く頃にはすっかり昼時で、広場は人で賑わっていた。貴族らしからぬユリオは、平民の生活空間に自然と溶け込む。
屋台で名物のサンドイッチを購入し、空いたベンチに腰を下ろす。色とりどりの野菜に香ばしい肉が挟まれており、見た目こそ奇抜だが、これはどうやら広場の象徴であるトカゲを模したものらしい。
(正直、これだけじゃ腹の足しにならないけど……まあ、食わなきゃやってらんないし)
そう思いながらかぶりつこうとしたその時、不意に声をかけられた。
「ねえ、そこのあなた。そのサンドイッチって美味しいのかしら?」
咄嗟に振り向くと、そこには白いワンピースに大きなつばの帽子を被った娘が立っていた。年齢は自分と同じくらいに見える。琥珀色の吊り目と艶やかな栗色の髪が印象的で、その立ち姿からはどこか人を寄せつけない雰囲気が漂っていた。
「……言語を間違えたかしら?」
あまりの突然のことに返答を忘れていたユリオは、慌てて口の中のものを飲み込み、返す。
「す、すみません。言語は間違ってないですよ、たぶん」
「そう、よかったですわ。それで、そのサンドイッチは美味しいのかしら?」
「えっと……食べてみます?」
「あら、よろしいの? 買い方がわからなくて困っていたの。では、遠慮なくいただきますわ」
ユリオは、まだかじっていない側をちぎって彼女に差し出した。
「これは、かぶりつくのが正しいのかしら?」
「そうですよー」
かぶりつくのも買い方もわからないなんて、まるでどこかのお姫様のようだ。
「……見た目に反して、意外と美味しいのね、このサンドイッチ」
「なんでも、あそこのトカゲをイメージして作ったらしいですよ。だから、こんな色合いなんだとか」
「この色は魔法で出しているのかしら?」
「こんなものに魔法使わないでしょーよ。お嬢さん、もしかしなくても貴族でしょ」
「まあ、なぜお分かりになったのかしら?」
「いや、普通に気づくでしょ……」
魔法で食べ物の色を変えるなんて、普通の平民じゃ思いつきもしない。
そう思いながらユリオが首をかしげると、彼女は残りのサンドイッチを夢中になって食べていた。どうやら、かなり気に入ったらしい。
豪快にかぶりつく様子は、彼女の上品な外見とは少し不釣り合いだ。そのギャップに思わず視線が引き寄せられる。
──言語が違うと最初に言っていた。つまり、この国の貴族ではなさそうだ。身につけている服やアクセサリーも上質で、明らかに高位の貴族令嬢。それなのに、どうしてこんな平民だらけの街に、一人で現れたのか。
(……ろくな理由じゃないだろうな)
ユリオは考えるのをやめた。自分の長所は、深く考え込まないこと。こういうときは、早めにその場を離れるのが一番だ。
静かに腰を上げ、すっと立ち去ろうとした──そのとき。
「ねえ」「……なんでしょう、お嬢さん?」「せっかくだし、案内していただけない? この通り、市政にはあまり慣れていなくて」「いやー、申し訳ないですが、このあと用事がありまして……」「まあ、そうなの? それなら仕方ないわね。領主を訪ねて、案内役をお願いしようかしら」
ゾッとした。実家には顔を出したばかりだが、釣書を渡されたあの空気は、思い出すだけで胃が重くなる。
(……また父さんと顔合わせるのは、勘弁してほしい)
どうせ断れないなら、今のうちに引き受けたほうがマシだ。
「あー! 予定はいま! なくなりました!」「そう? じゃあ、案内お願いね」
まるでそれが当然の結果であるかのように、彼女は何の躊躇もなく頷いた。
(……今日は朝から災難続きだなー)
ため息をつきながら、ユリオは彼女の隣に立った。




