4. 王子と姫の噂
「なあノエル。お前、最近ちょっとした有名人になってるの、気づいてるか?」
朝の講義前、教室に入ってきたユリオが、いつもの調子で僕の机に腰かけてきた。
「……嫌な予感しかしないけど、何の話だ」
「この前の入学式のエスコート事件さ。“あれ”以来、女子の間でちょっとした伝説扱いなんだぜ」
「“あれ”って……」
「“逆エスコート劇場”。リヴィア嬢が王子様で、お前が姫ってやつな」
「……姫?」
「お姫様ノエル様、ってな。あの日のノエルの表情、完璧だったって。目を潤ませて、手を取られて、エスコートされてるのに抵抗しないっていう」
「いやいやいや、抵抗したよ!? 少しは……!」
レオンが隣で肩を震わせて笑う。
「でも、ノエル。俺もあれ見てたけど、あの流れは……完敗だったな。歩幅まで合わせられてたろ?」
「ぐっ……確かにそうだったけど……」
「だったら断ればよかったじゃん。エスコート、ことわりゃいいのに」
「……可愛いから断れないんだよ」
「……は?」
「僕だって断ろうと思って、何度かチャレンジはしてるんだけど……手を差し出されると、なんかもう……反射的に応じちゃって……」
「……あー、惚気ですかこれは。もしかして惚気じゃないですか、レオンさん」
「惚気だな。確定だな」
「違うってば!」
思わず声が裏返り、僕は机に突っ伏した。
それでも、目の奥に昨日のリヴィアの笑顔が浮かぶ。
あの整った所作、やわらかな声、そして差し出された手のぬくもり。
(……くそ、たしかに可愛かった)
「で? 今日こそは、話すんだろ?」
レオンが声を潜めながらも真剣な眼差しを向けてくる。
「うん。今日の講義、一緒だから。今度こそ、謝る」
「だったら、先手を取れ。エスコートされる前にな」
「……善処する」
気合を入れるように椅子を引いて立ち上がった僕の胸の奥には、
恥ずかしさと、焦りと、そして少しだけの期待が、ぐるぐると渦巻いていた。
午前の講義が終わる少し前から、僕はそっと筆記を止め、心の準備をしていた。
今日こそは。ちゃんと謝る。あの日の言葉を、そのまま伝えるために。
講義の終わりを告げる鐘が鳴り、生徒たちがざわつく中、僕はそっと隣の席に声をかけた。
「リヴィア嬢、少しだけ……お時間をいただけますか?」
「はい。どうかされましたか?」
変わらぬ丁寧な返事。彼女は立ち上がり、自然な動作で僕と並んで歩き出す。
その途中、ふいに扉を押さえて先に出してくれる。
「……ありがとうございます」
(また先を越された……)
「実は……少し、伝えたいことが──」
「今日の講義、なかなか難しかったですね。でも、ノエル様のノートはとても整っていて、拝見していて参考になります」
「……そう言っていただけると、光栄です」
(今じゃないのは、わかってる。だけど、今しかない気もする……)
「よろしければ、あとで少しだけ、写させていただいても?」
「あ、はい。構いませんよ。どうぞ……」
ほんの一瞬、沈黙が訪れる。
今なら。──そう思った矢先だった。
「ところで、講義中に少しだけ気になった点がありまして。教授の説明、魔力理論の後半部分、少し曖昧でしたよね」
「ええ、確かに。あのあたりは、僕も疑問が残りました」
(……まずい、普通に会話が成立してしまっている)
「後ほど図書室で調べてみようと思っているのですが、ノエル様もご一緒にいかがですか?」
「そ、そうですね。ええと……機会があれば、ぜひ」
(言えない。この流れで“ごめんなさい”は、あまりに不自然すぎる)
彼女の目は真っ直ぐで、言葉には一片の曇りもない。
あの日の彼女が、どれほど努力をしてきたのかを思えば思うほど、僕の言葉が口の中で滲んでいくようだった。
「では、次の講義室へ向かいましょうか。階段がありますので、足元にはお気をつけて」
「……お気遣い、痛み入ります」
結局、今日もまた言えなかった。
けれど、自分の情けなさに苛立つというよりも、彼女のまっすぐさに気圧されてしまったことの方が、妙に心に残った。
講義室の前で、リヴィアが一度だけ振り返って微笑む。
「ご一緒できて、嬉しかったです」
「……こちらこそ」
僕はほんの少しだけ、背筋を正した。
(謝るのは、きっと……次だ)
そんなふうに、静かに心の中で言い訳をした。
*
「やばかったな、さっきの魔術理論の講義……」
昼の休憩時間、ユリオがスープを啜りながらぼやいた。
「まさか初回で“補助術式の最適化モデル”が出てくるとは思わなかったよ。半分以上、言ってる意味が分からなかった……」
「だろうな。あれは高等部の中でも応用寄りの内容だ。そもそも去年は扱っていなかったはずだし」
レオンがフォローを入れるも、ユリオはうなだれたままだった。
「でも……その中で一番冴えてたの、リヴィア嬢だったよな」
ユリオがちらりと僕の方を見た。
「教授の例示にその場でツッコミ入れた上に、代替案を提示してたの、聞いた?」
「うん。聞いた。……正直、鳥肌が立ったよ」
あれは、ただ“理解している”レベルじゃなかった。
教授の論理の穴を瞬時に見抜いた上で、より適切な補助構成の組み方を即座に指摘した。
発言の内容は簡潔で、無駄がなくて、落ち着いていた。
何より、その“正しさ”を誰も否定できない空気があった。
リヴィアは、ただ丁寧に振る舞っているわけじゃない。
あの場で、誰よりも“論理的に強かった”。
「ずっとあんな感じだったのかな……ノルゼアでも」
同じ五年の時間。
彼女はその中で、何を積み上げてきたのか。
それを、ほんの少しだけでいいから知りたくなった。
いや、たぶん──
もっと、近くで見ていたい。
彼女が何を好み、何に疑問を抱き、どんなことに笑うのか。
質問に答えるだけじゃなく、誰かと話すときの目の動きや、ちょっと考えるときに視線を逸らす癖。
そういうのを、もっと。
講義後、何人かの生徒がリヴィアに声をかけていた。
「先ほどの発言、とても参考になりました。補助術式の展開、改めて見直してみます」
「講義ノート、もし差し支えなければ見せていただけませんか?」
リヴィアは、どの質問にも丁寧に、だがはっきりと答えていた。
理路整然とした説明。感情に流されない穏やかな口調。
それはまさしく、学びの場に相応しい“賢さ”だった。
(……すごいな)
本当に、すごいと思った。
僕はこの五年間、自分なりに努力してきた。
けれど、その“努力”の中に、彼女ほどの意志と深さがあっただろうかと、思わず問い返したくなった。
「……追いつきたい、じゃないな」
僕は小さくつぶやいた。
(彼女の隣に、対等に立ちたい)
悔しさでも、焦りでもない。
ただまっすぐな、憧れにも似た感情が胸の奥に静かに広がっていった。