3. 現れた王子様
校門の傍には、「貴族院高等課程 入学式」と書かれた立て看板が掲げられていた。
他の生徒たちが通り過ぎていくその横で、僕は一人立っていた。
制服の襟を整え、髪に乱れがないかをさりげなく確認する。
いつもより少し丁寧に身支度をしたことを思い出しながら、なぜか落ち着かない胸の内をごまかすように、息をひとつ吐いた。
──今日、ようやく彼女に会える。
ずっと心の奥にあった再会への想いは、いざその瞬間が近づくと、どこか頼りなく震えていた。
僕らしくないな、と思いつつも、会えることに喜びを感じている自分がいた。
そのときだった。 馬車の音が静かに近づき、門の外に一台の黒塗りの馬車が止まる。
扉が開き、侍女に続いて一人の少女が姿を現した。
その瞬間、胸がきゅっと音を立てたような気がした。
洗練された身のこなし、上品な制服の着こなし、陽に透ける髪の艶。
以前の彼女とは違う雰囲気をまとっていたけれど──それでも、一目でわかった。
リヴィア・ラヴェルナ嬢。
彼女の変わらない薄紫の瞳がまっすぐにこちらを捉え、歩み寄ってくる。
「ご無沙汰しております、ノエル様」
凛とした声が春の空気に溶けた。
彼女に見惚れるうちに、近くまできていた。
「……お久しぶりです。お変わりなく……何よりでございます」
緊張のせいか、少しだけ言葉が遅れた。 けれど彼女は変わらぬ笑みで、続けた。
「入学式の会場はこちらですので……お手を、どうぞ」
リヴィアがそう言って、手を差し出した。
その仕草があまりにも自然で、美しかったせいか、反射的に僕は手を差し出してしまう。
「……ありがとうございます」
彼女の手に引かれて歩き出す。
この学院の道を、彼女と並んで歩く──それだけのことなのに、胸がざわつく。
並んで歩きながら、何かが少しだけずれているような気がして、足がふと重くなった。
……いや、ちょっと待て。
何故僕が、エスコートされている?
頭ではわかっているのに、現実として受け止めきれず、足元が少しだけ浮いたような感覚に包まれた。
こんなはずではなかった、と思う一方で。
手を引く彼女の背中は、どこまでも落ち着いていて──僕の方が、完全に主導権を握られていた。
講堂を出てすぐ、僕は自分の頬を軽く叩いた。
──落ち着け。これはただの再会。
別に、感動してうるっと来たとか、そんなことは……いや、あったけども!
とにかく落ち着こうとしていた僕の耳に、あちこちから飛び交う声が入ってくる。
「さっきの子、誰!? すっごく上品だった……」
「いやあれ、上品っていうか、王子じゃね?」
王子……? いやいや、彼女は“王子”じゃなくて、婚約者で、僕が──
「ノエル、気づいてるか?」
横からぼそっとユリオの声。
「お前、エスコートされてたぞ」
「……気づいてる。っていうか今、自分でもちょっと混乱してる」
「完璧だったな。歩き方も角度も、ドアの開け方も……」
レオンが、なぜか感心したように言う。
「なぁ、俺、今日なにされてたんだっけ?」
問いかけたのは僕自身だった。
*
翌日から始まった高等課程の初講義。
新しい時間割、新しい教室、そして新しい顔ぶれ。
とはいえ、貴族院の生徒の多くは中等課程からの持ち上がりで、大きな混乱はなかった。
──ただし、例外が一名。
「リヴィア嬢、こちらの教室でお間違いありませんか?」
そう声をかけたのは僕だった。初講義の前に、さりげなく近づいてみたつもりだった。
「ありがとうございます、ノエル様。同じ講義を受講されるのですか?」
「そのつもりですよ。」
にっこり微笑んで、彼女はくるりと向き直る。
そして自然な動作で僕の腕を取り──
「では、こちらへ」
ぐい、と引かれた。
(え、また!?)
講義の教室までの数十メートル。
歩幅を合わせられず微妙に引っ張られる僕と、堂々と先導するリヴィア。
端から見ればどう見ても、王子様が麗しき令嬢に連れ歩かれている図だった。
「……今日は僕がエスコートするつもりだったんだけどな」
そんなことをつぶやいても、引かれている今では説得力もない。
休み時間にも、再チャレンジを試みた。
「リヴィア嬢、もしよければ次の講義室まで送らせてください。」
「では、階段までご一緒しましょう。段差がありますので、足元にはお気をつけて」
「あ、はい……」
エスコートだけではなかった。
講義の最中、僕が筆記用具を落とせば、リヴィアがさっと拾って差し出してくる。
「お手を汚してしまいますから」と、ハンカチ越しに。
僕が教科書を開くのにもたつけば、「お手伝いしましょうか?」とページを開いてくれる。
「……いや、できる、僕一人でできるから」
教室の席に着こうとすれば、先に椅子を引いて「どうぞ、ノエル様」と促される。
そして授業が終われば、「お疲れさまでした」とそっと水差しを差し出してきた。
(これ、もはや秘書か執事か……)
もちろん彼女は、誰に対しても丁寧で平等だった。
けれどなぜか、僕には“特別に手厚い”気がしてならない。
というより、これまで人生で一度も受けたことのない種類のもてなしを、連続で受けている気がする。
他でもない、婚約者から。
結果──
一日で三回の逆エスコート、四回の筆記補助、二回の着席誘導、そして水分補給が一回。
僕は一体、何をされていたのか。
「ノエル様って、実は体が弱いのかしら……?」「えっ、違うでしょ、たぶんあれがラヴェルナ家の躾なんだよ……!」
ささやかれる声は、まったく意図しない方向に進み始めていた。
「……なんで、こんなに丁寧に扱われてるんだろう、僕……?」
戸惑いながらリヴィアを見ると、彼女は変わらず、微笑みを絶やさなかった。
くそう、可愛い。
最後の講義が終わると、生徒たちは次々と帰り支度を始めた。
僕は教室の片隅で、鞄の留め具を何度も確認しながら、今か今かとその姿を探していた。
(今度こそは、ちゃんと話そう)
もう何度も機会を逃した。けれど、今日はまだ終わっていない。今度こそ、彼女に――あの日のことを、謝るんだ。
リヴィアの姿を廊下の向こうに見つけたのは、ちょうどそのときだった。
「リヴィア嬢!」
声をかけようと歩き出した瞬間、彼女の侍女が馬車の準備を整えているのが目に入った。
リヴィアはこちらに気づいて、静かに微笑んだ。
「本日はこれにて、失礼いたします。家で用事がございますので……」
言葉をさえぎるように、深く礼をしてくる。
「また明日、お目にかかれるのを楽しみにしておりますね」
そうして、何も言わせぬ自然な動作で馬車へと向かっていった。
僕は、ただその後ろ姿を見つめるしかなかった。
扉が閉まり、馬車が静かに走り出す。
夕焼けの光が、石畳に長い影を落としていく。
──結局、今日も何も言えなかった。
ここまで来て、どうしてこんなにも言葉が出てこないのか。
ずっと胸の奥にしまってきた想いは、出口を探しながらも、口にできないまま渦を巻いている。
(……謝りたかっただけなのに)
それすら、また先延ばしになってしまった。
「明日こそは」
誰に聞かれるでもなく、そう呟いた。
けれど、風に紛れてその声が消えていくのを、僕はどうすることもできなかった。




