2. 五年目の春
制服の袖口を軽く引いて整える。指先がいつもの動きを終えると、特に確かめるまでもなく、馴染んだ感触が返ってきた。
扉を押して廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。朝の学院はまだ静かで、僕の足音だけが石畳に静かに響いている。
正面の窓から差し込む光が、壁や床に柔らかく散っていた。
歩くたびに影はゆらゆらと伸びて、静かに形を変えていく。
一歩ずつ、足裏に伝わる反発の加減を確かめながら歩く。姿勢を意識しているわけではないけれど、自然と背筋は伸びていた。肩のラインも、呼吸に合わせて微かに上下するだけで、乱れはない。
「おはよう、クラリス嬢。今日の髪型、よく似合ってるよ」
廊下の向こうから来た女子生徒にそう声をかけると、彼女はぱっと頬を染めて小さく礼を返した。
そのまま通り過ぎるタイミングで、彼女の背に回ってそっと開いたドアを押さえると、
後ろから小さな「ありがとうございます」の声が聞こえた。
「ノエル様、今日も相変わらずねぇ」
その様子を見ていた教師に声をかけられた。
「おはようございます。春らしくて、いい一日になりそうですね」
軽く笑って返すと、向こうも朗らかに笑って通り過ぎていく。
他の女子生徒にも何度か挨拶を返しながら、通い慣れた教室に向かった。
学院生活も、もう五年目の終わり。教室に入ると、レオンが片肘を机に乗せてこちらを見ていた。
「今日も絶好調だな、ノエル」
「おはよう。朝からそんなに皮肉を混ぜるものじゃないよ」
そこへ、ちょうどユリオが教室の奥から戻ってきて、レオンの横に腰を下ろす。
「だって、俺らが挨拶しても返事くらいで済まされるのに、女子には丁寧な言葉に笑顔付き。差、ありすぎじゃね?ノエルは女子の扱いが違いすぎるよ。紳士の枠をもはや超えていると言うか……もうなんか別の種族じゃね?」
「紳士じゃないならなんだよ」
「妖精とか?」
「その例えはやめてくれ」
「昨日もさ、図書室で本を抱えて困ってた子にさっと声かけて、そのあと椅子まで引いてやってたって聞いたぞ?」
「気づいたから手を貸しただけだよ」
「俺ならスルーする」
そう言うと、レオンとユリオが顔を見合わせて笑う。
「そういえば今日は、後期試験の結果が出るってさ」
「どうせレオンは1位、ノエルは2位なんだろー。優秀な奴はいいよな」
「努力してからそう言うセリフは言うんだな。」
レオンの厳しい声がユリオに投げかけられる。
「俺は、高等部行ったら本気を出すんだよ。上の学年、綺麗な先輩いっぱいいるぞ。あっ、でもノエルには関係ないか。もう女の子に囲まれてるもんなー」
「それ、そろそろ失礼だと思うよ?」
言いながらも、僕も口元をほんの少しだけ緩めた。
そんな些細なやり取りのあと、教室に朝のざわつき始めた。
「後期考査の成績一覧を掲示しました。補講対象者は職員室に来るように。」
扉のそばにいた担任がそう告げた。レオンとユリオも顔を見合わせる。
「来たな……勝負のとき」
「ユリオは“勝負”の意味を分かって使ってるのか?」
「いや、俺は挑む姿勢が大事だと思ってるんだ。順位なんて飾りだよ、飾り」
「お前は補講を回避できたかどうか、確認しに行くんだろ」
レオンが苦笑しながら肩をすくめた。
成績発表を見に行く生徒たちが、何人も席を立つ。
「見に行こうぜ、ノエル」
レオンが先に立ち上がり、僕に目を向けてくる。
「うん」
廊下へ出ると、すでに何人もの生徒たちが掲示板の前に集まっていた。
人だかりを縫うようにして、前へ出る。
例年通り、成績上位者順に名前が並んでいる。
一度まばたきをして、上から順に視線を滑らせた。
名前を見つけるのに、時間はかからなかった。
──1位:レオン・ヴァレンティア ──2位:ノエル・アーデン
ユリオの指が紙を指して、いつものように言う。
「やっぱりなー。もうこれ、毎回恒例のやつじゃん。すごいなあ、ほんと」
「レオンは天才だしな。」
「ノエルだって相当だろ。俺から見たら、どっちも天井なんだよ。はは……」
「努力してからそう言うセリフは言うんだな」
本日2回目のレオンのセリフに、ユリオは乾いた笑いをした。
「俺は今回補講回避してるから、それでいーの!」
ヤケクソのように言っている。
「来年からは高等部か……生徒はほぼ一緒だし、あんまり変わらないだろうけど。」
「そうだよねぇ」
レオンがつぶやきに、ユリオが同意する。
僕もふと、窓の外に目を向ける。庭の一角にある梅の木が、静かに風に揺れていた。
ほんのわずかに、花がほころび始めている。
この場所で過ごした五年間が、静かに幕を下ろそうとしている。
ようやく、彼女に会える。
「でも、そういえば高等部からは、ノエルの婚約者様がようやく帰ってくるんだっけ?」
水を刺すように、ユリオが言ってきた。
「よく覚えてたな、ユリオ」
「そりゃ覚えてるよ。だってノエル、最初の一年目は月に一度くらいのペースで手紙送ってたじゃん。見てないふりしてたけど、封筒の数、地味にすごかったぞ?」
「……まあ、うん」
「でも一通も返ってこなかったんだよな? そりゃ忘れられるって。悲しいなー、哀れな婚約者殿」
「やめてやれよ」
レオンが苦笑まじりに言ったが、どこか納得している顔だった。
ユリオはおどけた調子で両手を広げる。
「でも、俺は応援してるからな。高等部で再会して、目の前のノエルに惚れ直すっていう感動の展開を!」
「それ、芝居の観すぎだと思うよ」
そう返したけれど、笑うことはできなかった。いや、笑おうとは思わなかったのかもしれない。
手紙を出すたびに、ほんの少しだけでも返事が来るかもしれないと期待していた。けれど、それは一度も叶わなかった。
ラヴェルナ公爵家の方針として、学業に集中させるために個人宛の手紙は届けない――
その話を聞いたのは手紙を送り続けて一年ほど経ってからのことだった。
彼女がどんな思いでその日を迎え、どれほどの勇気を出して僕に会いに来てくれたのか。それを考えるたびに、胸の奥が痛んだ。
あの言葉で、彼女を傷つけたのは紛れもない僕だった。わかっている。わかっているからこそ、どうしても伝えたかった。
これまで書いた謝罪の手紙が彼女には届いていないことがわかって、項垂れた。
でも、だからこそ、
次に会うときこそは、彼女に相応しい自分でありたかった。今度こそ、彼女を傷つけずに向き合いたい。
そのために、僕は五年かけた。