表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/106

16. 一歩進んで二歩下がる(リヴィア視点)

それからもノエル様との距離は、一定のままだった。

時折、講義の合間に会話を交わすこともあったが、それはあくまで必要最小限の、学業に関わるやり取りに過ぎなかった。


それでも──彼の方から声をかけてくれることが、少しずつ増えていた。

たったそれだけのことでも、私の中では確かな進展に思えた。


(このままじゃ、駄目。もっと、前に進まなきゃ)


そんな思いを抱いていたある日、魔術理論の講義で、課題のペアが発表された。

廊下の掲示板に人だかりができる中、私もそっと名簿に目をやる。


──ノエル・アーデン/リヴィア・ラヴェルナ。


瞬間、胸の奥が高鳴るのを感じた。


(……ノエル様と、ペア……?)


偶然か、それとも──そんなことはわからなかったけれど、私にとっては大きな機会だった。


(今度こそ……)


意を決して、掲示を見ていたノエル様に声をかける。


「ご一緒できるようで、光栄です、ノエル様」


いつも通り、丁寧に、そして慎重に。

呼吸を整えて、礼を取る。


「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」


落ち着いた声で、彼は応じてくれた。

その声音に、拒絶の気配は感じられない。

私は小さく胸を撫で下ろしながら、今のうちにと課題の話題を切り出した。


「まずは、既存の術式理論の基本構造を洗い出しましょうか」

「そうですね。僕が、初期案の構成表をまとめます。リヴィア嬢は論理整合性をご確認いただけますか?」

「かしこまりました」


自然な会話の流れ。ぎこちなさはほとんどなかった。

そのことが、ひどく嬉しかった。


(ちゃんと、話せてる……)


思わず頬が緩みそうになるのを、話題を変えることでごまかした。


「ノエル様とペアを組めて、本当に心強いです。きっと、迷子にはならないでしょうから」

「……迷子?」

「ええ。学院内、広くて複雑ですから。前に、別の講義棟で少し迷ったことがありまして」


彼の表情がわずかに柔らかくなるのが見えた。


(今日は、いつもよりずっと……自然)


その変化が嬉しくて、私は微笑んだ。

今は──ただ、隣にいられることが嬉しい。


「では、課題も、迷子にならないように頑張りましょうか」

「……はい。道案内は得意ですので」


まるで本当に、何気ない雑談のようだった。

けれど私にとっては、それだけで十分だった。



放課後、約束通り図書館の自習室に向かう。

日が傾きかけた窓辺から差し込む光が、机の上に魔導具の影を落としていた。


(今日はもう少しだけ……)


そう願いながら、空いていた席に腰を下ろし、資料を広げてノエルを待った。


そのとき、声をかけてきたのは、同じ講義を受けている男子生徒だった。


「ラヴェルナ嬢、先ほどの術式展開の件、見事でした。ノルゼアに留学されてたんですよね? ぜひお話を伺えませんか?」

「もちろんです。こちらにどうぞ」


応じたのは、ただの学術的な意図だった。

課題が始まるまでの空き時間に、有意義なやりとりができるなら、と思っただけで。


魔術の流れからノルゼアの文化に話題が移ると、彼はふと質問を変えた。


「そういえば、ノエル・アーデンとはどういったご関係なんですか? よくご一緒にいらっしゃいますが」

「……ええと、留学から帰ったばかりなので、ありがたいことに気にかけていただいてるようで」


“婚約者”だとは、どうしても言えなかった。

まだ、その立場を自信を持って名乗ることができなかった。


「そうなんですね。なら……お気をつけください。噂では婚約者がいらっしゃるとか。でも、僕はこれまで、彼が特定の方と親しくするのを見たことがありませんでした。

初等部の頃も、割といろんな方と──自由にされていたと聞いています」


胸の奥に、ざらりとした感情が広がった。

知らなかった──聞いたこともなかった。


「……そうなんですね。教えてくださってありがとうございます」


礼儀を崩さず、微笑みながら言葉を返す。

そのときだった。

ふと気配を感じ、顔を上げる。


そこに──ノエル様がいた。


一瞬だけ、その瞳が揺れたように見えた。

彼の強張った表情に、胸がぎゅっと締めつけられる。


(……聞かれていたのかもしれない)


男子生徒が一礼し、去っていく。

私は慌てて立ち上がり、何もなかったかのように笑顔を作った。


「ノエル様。お待ちしておりました」

「彼とは何を?」

「ノルゼアの文化について、質問を受けていたんです。文化の違いに興味を持たれたようで」


そう答えながらも、心のどこかがざわめいていた。

嘘は言っていない──でも、話題のすべてを伝えたわけでもなかった。


ノエル様の表情は、どこか読み取れないまま。

それでも、私はいつも通り課題の話に切り替えた。


けれど。


「リヴィア嬢」


突然、彼の声が少し低く響いた。


「……改めて、言わせてください。五年前、無神経なことを言ってしまったこと──本当に、申し訳ありませんでした」


その瞬間、頭の中が真っ白になった。


あの言葉。あの夜。

胸に刺さったままの棘が、ふと震えた。


それでも──私は微笑んでいた。


「……そのようなこと、もうお気になさらないでください、ノエル様」


距離を置くように、穏やかな声で。


「私の方こそ、当時は至らぬ点が多く、失礼いたしました。どうぞ、お心に留め置かれませんよう」


あの言葉を言われたのは、私の未熟さのせい。

何も分かっていなかった。気遣いも足りず、立場もわきまえず、ただ自分の理想だけで突き進んで──

あの場でノエル様に、あんな質問をしてしまった。


私がもっと聡く、もっと慎ましく振る舞っていれば、あんな言葉を言わせずに済んだはずだった。

ノエル様に、あんな思いをさせずに済んだのに。


あのときの一言は、当然の報いだった。


父も母も、失望は口にしなかったけれど、私は分かっていた。

彼らの目が、どれだけ心配に満ちていたか。

婚約破棄の話が出なかったのは、きっと多くの人が陰で動いてくれたから。

──その恩に、私は応えられていなかった。


だから私は変わらなければならなかった。

完璧な淑女になって、失った信頼を取り戻さなければならなかった。


努力を重ねた五年間は、ただその一心で続けてきたものだった。


(あれは、私のせいだった。だから、謝られるようなことじゃない)


どうか、あの言葉で、この五年間を赦さないでほしい。

あれは私が背負うべきもので──


(なのに……どうしてあなたが、謝るの)


怒りに似た感情を抑え込みながら、私は微笑んだままでいた。


「では、課題に入りましょうか」


そのまま、資料に視線を落とす。

ノエル様も、何も言わずノートを広げた。


ほんの少し前まで交わしていた穏やかなやり取りが、遠くに感じられた。



課題を終えた後、私はいつも通りに礼を述べた。


「本日はありがとうございました、ノエル様」

「……こちらこそ」


わずかに何かを言いかけた気配があった。

でも、それ以上を聞く前に私は一礼し、足早に図書室をあとにした。


(今日こそ、距離を縮められると思ったのに)


昼間、ほんの少し近づけた気がした彼との距離は──

また、あの日のように、遠のいてしまった気がしてならなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ