16. 一歩進んで二歩下がる(リヴィア視点)
それからもノエル様との距離は、一定のままだった。
時折、講義の合間に会話を交わすこともあったが、それはあくまで必要最小限の、学業に関わるやり取りに過ぎなかった。
それでも──彼の方から声をかけてくれることが、少しずつ増えていた。
たったそれだけのことでも、私の中では確かな進展に思えた。
(このままじゃ、駄目。もっと、前に進まなきゃ)
そんな思いを抱いていたある日、魔術理論の講義で、課題のペアが発表された。
廊下の掲示板に人だかりができる中、私もそっと名簿に目をやる。
──ノエル・アーデン/リヴィア・ラヴェルナ。
瞬間、胸の奥が高鳴るのを感じた。
(……ノエル様と、ペア……?)
偶然か、それとも──そんなことはわからなかったけれど、私にとっては大きな機会だった。
(今度こそ……)
意を決して、掲示を見ていたノエル様に声をかける。
「ご一緒できるようで、光栄です、ノエル様」
いつも通り、丁寧に、そして慎重に。
呼吸を整えて、礼を取る。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
落ち着いた声で、彼は応じてくれた。
その声音に、拒絶の気配は感じられない。
私は小さく胸を撫で下ろしながら、今のうちにと課題の話題を切り出した。
「まずは、既存の術式理論の基本構造を洗い出しましょうか」
「そうですね。僕が、初期案の構成表をまとめます。リヴィア嬢は論理整合性をご確認いただけますか?」
「かしこまりました」
自然な会話の流れ。ぎこちなさはほとんどなかった。
そのことが、ひどく嬉しかった。
(ちゃんと、話せてる……)
思わず頬が緩みそうになるのを、話題を変えることでごまかした。
「ノエル様とペアを組めて、本当に心強いです。きっと、迷子にはならないでしょうから」
「……迷子?」
「ええ。学院内、広くて複雑ですから。前に、別の講義棟で少し迷ったことがありまして」
彼の表情がわずかに柔らかくなるのが見えた。
(今日は、いつもよりずっと……自然)
その変化が嬉しくて、私は微笑んだ。
今は──ただ、隣にいられることが嬉しい。
「では、課題も、迷子にならないように頑張りましょうか」
「……はい。道案内は得意ですので」
まるで本当に、何気ない雑談のようだった。
けれど私にとっては、それだけで十分だった。
*
放課後、約束通り図書館の自習室に向かう。
日が傾きかけた窓辺から差し込む光が、机の上に魔導具の影を落としていた。
(今日はもう少しだけ……)
そう願いながら、空いていた席に腰を下ろし、資料を広げてノエルを待った。
そのとき、声をかけてきたのは、同じ講義を受けている男子生徒だった。
「ラヴェルナ嬢、先ほどの術式展開の件、見事でした。ノルゼアに留学されてたんですよね? ぜひお話を伺えませんか?」
「もちろんです。こちらにどうぞ」
応じたのは、ただの学術的な意図だった。
課題が始まるまでの空き時間に、有意義なやりとりができるなら、と思っただけで。
魔術の流れからノルゼアの文化に話題が移ると、彼はふと質問を変えた。
「そういえば、ノエル・アーデンとはどういったご関係なんですか? よくご一緒にいらっしゃいますが」
「……ええと、留学から帰ったばかりなので、ありがたいことに気にかけていただいてるようで」
“婚約者”だとは、どうしても言えなかった。
まだ、その立場を自信を持って名乗ることができなかった。
「そうなんですね。なら……お気をつけください。噂では婚約者がいらっしゃるとか。でも、僕はこれまで、彼が特定の方と親しくするのを見たことがありませんでした。
初等部の頃も、割といろんな方と──自由にされていたと聞いています」
胸の奥に、ざらりとした感情が広がった。
知らなかった──聞いたこともなかった。
「……そうなんですね。教えてくださってありがとうございます」
礼儀を崩さず、微笑みながら言葉を返す。
そのときだった。
ふと気配を感じ、顔を上げる。
そこに──ノエル様がいた。
一瞬だけ、その瞳が揺れたように見えた。
彼の強張った表情に、胸がぎゅっと締めつけられる。
(……聞かれていたのかもしれない)
男子生徒が一礼し、去っていく。
私は慌てて立ち上がり、何もなかったかのように笑顔を作った。
「ノエル様。お待ちしておりました」
「彼とは何を?」
「ノルゼアの文化について、質問を受けていたんです。文化の違いに興味を持たれたようで」
そう答えながらも、心のどこかがざわめいていた。
嘘は言っていない──でも、話題のすべてを伝えたわけでもなかった。
ノエル様の表情は、どこか読み取れないまま。
それでも、私はいつも通り課題の話に切り替えた。
けれど。
「リヴィア嬢」
突然、彼の声が少し低く響いた。
「……改めて、言わせてください。五年前、無神経なことを言ってしまったこと──本当に、申し訳ありませんでした」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
あの言葉。あの夜。
胸に刺さったままの棘が、ふと震えた。
それでも──私は微笑んでいた。
「……そのようなこと、もうお気になさらないでください、ノエル様」
距離を置くように、穏やかな声で。
「私の方こそ、当時は至らぬ点が多く、失礼いたしました。どうぞ、お心に留め置かれませんよう」
あの言葉を言われたのは、私の未熟さのせい。
何も分かっていなかった。気遣いも足りず、立場もわきまえず、ただ自分の理想だけで突き進んで──
あの場でノエル様に、あんな質問をしてしまった。
私がもっと聡く、もっと慎ましく振る舞っていれば、あんな言葉を言わせずに済んだはずだった。
ノエル様に、あんな思いをさせずに済んだのに。
あのときの一言は、当然の報いだった。
父も母も、失望は口にしなかったけれど、私は分かっていた。
彼らの目が、どれだけ心配に満ちていたか。
婚約破棄の話が出なかったのは、きっと多くの人が陰で動いてくれたから。
──その恩に、私は応えられていなかった。
だから私は変わらなければならなかった。
完璧な淑女になって、失った信頼を取り戻さなければならなかった。
努力を重ねた五年間は、ただその一心で続けてきたものだった。
(あれは、私のせいだった。だから、謝られるようなことじゃない)
どうか、あの言葉で、この五年間を赦さないでほしい。
あれは私が背負うべきもので──
(なのに……どうしてあなたが、謝るの)
怒りに似た感情を抑え込みながら、私は微笑んだままでいた。
「では、課題に入りましょうか」
そのまま、資料に視線を落とす。
ノエル様も、何も言わずノートを広げた。
ほんの少し前まで交わしていた穏やかなやり取りが、遠くに感じられた。
*
課題を終えた後、私はいつも通りに礼を述べた。
「本日はありがとうございました、ノエル様」
「……こちらこそ」
わずかに何かを言いかけた気配があった。
でも、それ以上を聞く前に私は一礼し、足早に図書室をあとにした。
(今日こそ、距離を縮められると思ったのに)
昼間、ほんの少し近づけた気がした彼との距離は──
また、あの日のように、遠のいてしまった気がしてならなかった。




