15. 再会の手応え(リヴィア視点)
黒塗りの馬車が、学院の門の前で静かに止まる。
扉が開かれ、私は外へと足を踏み出した。春の風が制服の裾を揺らし、陽光が頬にあたる。
一歩、また一歩──深呼吸をひとつ挟みながら、視線を正面に向けた。
そこに、ノエル様がいた。
(……あのときと、変わらない)
けれど、少し変わったとも思った。背が伸び、顔つきが大人びている。それでも、私が覚えているあの目の色は、たしかに彼のもので──
それだけで、ほんのわずかに胸の奥がきゅっとした。
(どうしよう。ちゃんと、話せるだろうか)
自分でも驚くほど心が揺れていた。五年前と同じように「気持ち悪い」と思われるのではないか、また「うっとうしい」と言われてしまうのではないか──そんな恐れが、喉元で言葉をせき止めようとしてくる。
でも、私はもう“昔の私”ではない。
この五年間、“完璧な淑女”になるために全てを捧げてきた。
失敗も後悔も、すべてを原動力に変えて、今日という日を迎えた。
その成果を、ノエル様の前で初めて試される。
だからこそ、笑顔を保ち、声を整えて言う。
「ご無沙汰しております、ノエル様」
春の空気に、私の声が溶けるように響いた。
「……お久しぶりです。お変わりなく……何よりでございます」
彼の声は落ち着いていて、少しだけ言葉が遅れたのを私は見逃さなかった。緊張していたのかもしれない。……それは、私も同じだった。
けれど、拒絶ではなかった。そのことに、ほっと胸をなで下ろす。
「入学式の会場はこちらですので……お手を、どうぞ」
「……ありがとうございます」
彼は少し戸惑いの表情を浮かべつつも、応じてくれた。私たちは並んで歩き出す。
かつて言われた言葉が頭の中をよぎる。
(良かった。手を添えてくれるってことは、少なくとも触りたくもないとは、思われていないみたい)
私は彼をエスコートしながら、そっと息をついた。
講堂の扉の前で、ノエル様に手を引いたまま、私は小さく祈るように思う。
(どうか……今日だけは、うまくやれますように)
入学式は並び順が決まっていたため、私はノエル様を指定された席までエスコートして、そこで一礼して離れた。
その間、言葉を交わす機会はなかった。
けれど──それでも彼は、終始、拒絶しなかった。
(……まだ、嫌われてはいない。きっと)
心の奥に微かな確信と、まだ拭えない不安が、静かに共存していた。“完璧な淑女”として、今日という第一歩は、きっと悪くない──そう信じたくて、リヴィアは胸の奥でそっと言い聞かせた。
(いえ、まだこれからよ……)
入学式の祝辞が始まる頃には、彼女の背筋はさらにすっと伸びていた。
*
講義初日。
廊下に響く靴音はどこか硬く、空気は張り詰めていた。
新しい制服の肩にわずかな違和感を覚えながら、私は教室の前で立ち止まる。
そのとき、視線を感じて振り返ると──そこに、ノエル様がいた。
「リヴィア嬢、こちらの教室でお間違いありませんか?」
一瞬、胸が跳ねた。
(……気にしてくださっている)
「ありがとうございます、ノエル様。同じ講義を受講されるのですか?」
「そのつもりですよ」
穏やかな声に、わずかに心が和らぐ。
けれどすぐに、頭の中は緊張で満たされた。
(今……“婚約者として”、ふさわしい振る舞いを)
私は迷いなく彼の腕を取った。力を入れすぎず、けれどしっかりと導くように。微笑みを忘れずに。
「では、こちらへ」
(導く。困っていたら手を取る。ドキドキさせて……これが理想の“淑女”の役目)
彼の歩幅に合わせようと意識しながら進むたびに、ノエル様の足取りがわずかに遅れるのがわかった。
(……早すぎたかしら?)
歩き方がぎこちないように見えた。不快に思われているのでは──その不安を打ち消すように、私は背筋を伸ばす。
教室に入ってからも、意識はノエル様の動きばかりを追っていた。
筆記具が落ちたのを見て、反射のように席を立つ。
「お手を汚してしまいますから」
ハンカチ越しに拾って差し出すと、彼は一瞬驚いた表情を見せた。
(……やりすぎだったかしら?)
けれど、笑みを崩さずに続ける。
次の講義前には椅子を引き、柔らかく促す。
「どうぞ、ノエル様」
自然に、優雅に、完璧に。
(これでいい。ちゃんと“理想”通りにできてる)
──けれど、ノエル様の反応は、どこか困惑しているように見えた。
(……違った? 私、間違ってた?)
講義中も、私は自分の振る舞いを何度も検証していた。
水を差し出すタイミング、椅子を引く角度、声のトーン……。
(なぜ、手応えがないの?)
女学院では、この一つひとつの所作が、誰かの心を動かしてきた。
けれど今──一番、想いが届いてほしい相手にだけ、なぜか届かない。
(今日はこれで、失礼しよう)
もう少しだけ、整理する時間がほしかった。
教室を出ると、名前を呼ぶ声が後ろから聞こえた。振り返ると──ノエル様。
「本日はこれにて、失礼いたします。家で用事がございますので……」
言葉をさえぎるように、私は深く礼をする。
「また明日、お目にかかれるのを楽しみにしておりますね」
そうして馬車に乗り込む。扉が閉まり、静かに発車するその中で、私は心の奥で繰り返す。
(明日こそ……もっと、うまくやれますように)
その願いは、どこか五年前と似ていた。
*
翌日も、リヴィアは前日と同じようにノエルに接した。
けれど、やはり彼の反応は薄かった。
他の生徒にも同様に、丁寧な対応をしてみた。
後輩に声をかけ、書類を運ぶ生徒の手を取る──その一つ一つに、女学院と同じように感謝や喜びの反応が返ってくる。
女子生徒に同じ対応をすれば、頬を染めた笑顔が返ってくる。
男子生徒に対しては、さすがに触れたりするのは良くないため、一定の距離を保ちつつ丁寧に接すれば、それだけで憧れの眼差しが向けられる。
けれど──ノエル様だけは違った。
(なぜ……?)
リヴィアは次第に焦りを覚えていた。
ここまで努力して、完璧な淑女を目指してきたのに──一番伝えたかった人に、何も届かない。
むしろ、他の生徒よりも遠くに感じる。
(……どうすればいいの?)
セリーヌもいない今、誰にも相談できなかった。
だからこそ、リヴィアは変えられなかった。
だから今日もまた、完璧な所作と微笑みで“理想の淑女”を演じ続ける。
(きっと、まだ足りないだけ……)
リヴィアは、そう自分に言い聞かせていた。




