14. “王子”を忘れて、王子になる(リヴィア視点)
翌朝から、リヴィアとセリーヌは、”最高の女”に向けて、努力を重ねた。
礼儀作法、発声、所作、言語、歴史、政治、経済──どれもが貴族の娘として、未来の領主夫人として、当然のように求められる項目だった。
しかし、知識はより深く、所作はより美しくなるように。
普通の学生以上の結果を出すことを、彼女たちは当然の目標としていた。
“最高の女”になるために。
書物を読み、姿勢を整え、返答の速度と正確性を磨く。
お辞儀一つにも意味があると知った日から、リヴィアは鏡の前に立ち続けた。
そんな努力が実を結び、入学から半年ほど経った頃には、教員たちの間で「驚異的な成長を見せている」と話題になるほどになっていた。
その頃になると、学院内でも彼女の名は知られるようになり、廊下ですれ違えば丁寧に挨拶が返ってくるようになっていた。
「すごいじゃない、リヴィア。すっかり“模範生徒”って感じね」
セリーヌが、紅茶を片手にそう言ってきたある夕暮れ時。
「セリーヌこそ。私はまだまだ、”最高の女”には程遠いわ」
「……本気で言ってるところが、リヴィアらしいわね」
セリーヌは呆れたように笑ったが、その目元はどこか誇らしげだった。
だがリヴィアにとって、それはまだ“通過点”にすぎなかった。
“淑女”として完成することはもちろん、“ふさわしい婚約者”として、ノエル様に認められる存在になること。
──そのためには、もっと必要なものがあるのでは?
そんな疑問を抱いたとき、ふと思いついた。
(他の子たちは、婚約者にどんな理想を持っているのかしら?)
*
それからの日々、リヴィアとセリーヌは「聞き込み調査」と称して、
学院内の女生徒たちにお茶会の度に理想の婚約者像を尋ねてまわった。
「わたくしは、困ったときにすぐ助けてくれる方が素敵だと思いますの」
「さっと手を取って導いてくれる人。そういう方って、信頼できますでしょう?」
「それに……やっぱり、たまにはドキッとさせてくれる人がいいですわ。恋って大事ですし」
集まったのは、どれも「理想の紳士」像だった。だが──リヴィアの解釈は、少し違っていた。
(つまりこれが、“婚約者として求められる行動”。私が取るべきふるまい……!)
彼女はそれを「私が目指すべき淑女像」と誤ってインプットしてしまった。
「……セリーヌ、すごく勉強になったわ」
「え? あ、ええ……」
セリーヌは少し眉をひそめたものの、それ以上は何も言わなかった。
(ちょっとズレてる気もするけど……まあ、あの失礼男をギャフンと言わせるにはちょうどいいかもね)
セリーヌは心のどこかで、そう思っていた。
*
その日を境に、リヴィアの行動は一段と洗練されていった。
困っている後輩がいれば、誰よりも早く駆け寄って落ちた教本を拾い上げ、「お怪我はありませんか?」と柔らかく微笑む。
書類の束を抱えた生徒が扉の前で立ち止まれば、どこからともなく現れて、手を差し伸べて扉を開ける。その動作に一切の躊躇も力みもない。あくまで自然に、流れるように。
雨の日の昼休み。食堂の出入口で濡れた肩をすぼめている寮母に気づいたときは、何も言わずにそっと刺繍入りのハンカチを手渡した。「あの……これは……」と戸惑う声に、リヴィアは一言だけ。
「ご返却はご無用です。……貴女の体調の方が、ずっと心配ですから」
その立ち居振る舞いは、もはや“女学院の王子”と称されるほどだった。
休み時間、廊下の窓際ではこんな会話が交わされていた。
「ねえ、昨日の演習でリヴィア様とペアだった子、ずっと顔赤くして、最後には涙ぐんでたの知ってる?」「知ってる知ってる!最後、ハンカチを手に、”その涙は、わたくしが拭わせていただいても?”って言われたらしいわよ……!」「“まるで童話の騎士様”って。あれが婚約者だったら、わたし勉強めっちゃ頑張るのに!」
お茶会の席では、ティーカップを持つ手を震わせながら、ある子爵令嬢がぽつりと漏らす。
「リヴィア様に“椅子を引かれた”の……その時の距離が近くて、美しすぎて息が止まりそうでしたわ……!」
ファンクラブが結成され、彼女の名はノルゼア全土の上流階級にまで知られるようになった。
もちろんリヴィア本人は、自分が“王子扱い”されているとは気づいていなかった。なぜなら、それらの振る舞いのすべては“理想の婚約者”のため──彼女にとっての「完璧な淑女」として当然の行動だったからだ。
(次こそは、理想の婚約者になってみせる。)
その一心で、
彼女は今日も前を向く。
背筋を伸ばして、まっすぐに──最早顔も覚えていない、ノエルに対して。
*
卒業式の日、セレスティア女学院の講堂には、春の光が差し込んでいた。大理石の床に映るステンドグラスの色彩は、五年前と変わらない。
けれど、そこに立つリヴィア・ラヴェルナは──もはや、かつての“恋する少女”ではなかった。
「リヴィア・ラヴェルナ──優等の成績により、これを卒業とする」
名前が呼ばれた瞬間、講堂は静まり返った。整った歩幅、完璧な所作、無駄のない一礼。
まるで書物から抜け出たような、完成された淑女の姿だった。
控えめに微笑み、一歩引いて壇を降りる。その姿に、誰もがため息を漏らした。
彼女は今、誰よりも“完成された王子様”だった。
*
卒業式の余韻が残る午後、寮の一室では最後の荷造りが続いていた。セリーヌはトランクの蓋を閉めながら、ベッドの上に腰を下ろす。
「……ふぅ、やっと終わったわね。ほんと、五年って早いわ」
「うん、私も、実感がわかない」
「でも、リヴィア。あなた、すごかったわよ。本当に有言実行だったわ。ちゃんと“完璧な淑女”になった」
「ありがとう。でも、まだまだ足りないところばかり。帰ってからも努力は続けるつもり」
「本当に国に帰るの?このままノルゼアにいてもいいんじゃない?」
「そんなわけにはいかないわ。ノルゼアも楽しかったけど、私はフェルナディアの貴族だもの。
責務は全うしないと、家に迷惑もかかるしね。」
「真面目ね、ほんとに」
セリーヌはわざとらしく肩をすくめてみせたあと、少しだけ真面目な顔になる。
「ところで……そのお馬鹿で間抜けな婚約者にも、帰った会いに行くつもり?」
「お馬鹿で間抜けって……言いすぎよ、セリーヌ。
帰ったら、フェルナディアの貴族院に入学が決まってるし、貴族の子女は入学が義務だからノエル様もいらっしゃるんじゃないかしら。」
そう答える声には、ほんの僅かに緊張が混じっていた。
「久しぶりだから、うまくやれるといいんだけど」
セリーヌは紅茶を一口すすってから、言葉を継いだ。
「ねぇ、リヴィア。あなたからみた私って、どうかしら。」
「どうって……ずっと、すごいと思っていたわ。優秀で、綺麗で、完璧な淑女そのもので……いえ、それだけじゃないわね。
正直、憧れていたの。あなたのその芯の強いところ。」
「そう。それ、そのままそっくりあなたに返すわ」
「え?」
「私からみたあなたもそうってことよ。あなただって、優秀で、綺麗で、完璧な淑女そのもの。
私だって、あなたのその直向きさに憧れていたわ。私が憧れる人なんて滅多にいないんだからね。
だから自信持っていきなさい。」
「……そう、だといいんだけど」
「大丈夫だって言ってるでしょ」
そう言って、セリーヌは小さく笑った。
「……それに、なんだか私も、あなたのその婚約者に一喝入れたくなってきたわ。」
「え?」
リヴィアはセリーヌが言ったセリフが聞こえなかった。
「なんでもないわ。」
やがて、最後の荷物が馬車に積まれ、門の前で並んで立った。春風が制服の裾を揺らし、桜のような小さな花びらが、空から静かに舞っていた。
「じゃあ、これでお別れね。」
「お別れなんかじゃないわよ。また会いましょう。国なんて跨げばいいのよ。」
「そんな簡単なことでもないと思うけど……」
「そう思ってるから、簡単じゃないのよ。要は気持ち次第ってことよ。
……リヴィア。がんばってきなさいな。あまり張り詰めすぎず、ちゃんと楽しむのよ?」
「……ありがとう。セリーヌも、元気でね」
ふたりは短く、でもしっかりと抱き合った。
「また会いましょうね。」
「ええ。またね。」
馬車の扉が閉まり、静かに揺れ出す。
セリーヌの姿が遠ざかっていく中、リヴィアは一度だけ深く息をついた。
そして、前を向く。──再会の時に向けて。




