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12. 王子様の崩壊(リヴィア視点)

魔力量が重視されるこの国では、貴族は幼少のうちに婚約者が決まることがほとんどだ。私も例外ではなく、十歳のときに“国が定めた婚約者”が据えられた。


両親は「嫌なら断ってもいい」と言ってくれた。でも私は首を横に振った。


その頃の私は、恋愛小説の読みすぎだったのかもしれない。王子様とお姫様が心を通わせる物語に胸をときめかせて、婚約者という存在に、ほのかな憧れを抱いていた。


会える日が楽しみで仕方なかった。失礼がないように、礼儀を徹底的に学んだ。彼に気に入ってもらえるように、淑女としてのふるまいも完璧にしたつもりだった。


そして、迎えた当日。

扉の前に立ったとき、胸の鼓動が服の下からでも聞こえそうなくらい高鳴っていた。


部屋に入ると、すでにノエル様が応接室の椅子に座っていた。

その姿を見た瞬間──一瞬で胸が満たされた。


彼はまっすぐに私を見ていた。背筋を崩さず、静かに佇んでいて、どこか堂々としていた。

まるで物語に出てくる王子様そのもののように見えた。

私は少し震える手を押さえながら、笑顔を忘れずにお辞儀をした。


「ノエル様、はじめまして。リヴィア・ラヴェルナと申します。よろしくお願いいたします」


ノエル様は一瞬だけ目を見開いて──すぐに、落ち着いた声音で返してくれた。


「……ノエル・アーデンです。こちらこそ、よろしくお願いします」


その瞬間、心臓が跳ねた。頬が熱を帯び、指先までほんのり痺れるような感覚があった。


格式ある家のご令息で、優秀で、礼儀正しくて──そのうえ整った顔立ちで、きっとこれからますます立派な方になるのだろう。

そんな人が、自分の婚約者になるなんて。


(なんて幸運なんだろう)



両親に促されて、庭を一緒に散策することになったときも、内心は嬉しくて仕方なかった。

歩幅が自然と合ったことにさえ、運命を感じていた。彼と並んで歩けるこの距離感が、心地よかった。


でも、本当は──すごく緊張していた。彼が何を好きで、どんな性格なのか。

もっと知りたいのに、なかなか言葉が出てこなかった。

意を決して、ようやく質問をした。


「……ノエル様は、どんな女性がお好きなのでしょうか?」


将来を見据えて、相手の好みを知るのは“たしなみ”の一つだと習った。でも、ほんの少しだけ、それ以上の気持ちもあった。


けれど──返ってきたのは、まるで刃のような言葉だった。


「……そうやって、取り繕った顔されるのが、一番うっとうしいんだよ」


瞬間、心の中に冷たいものが流れ込んだ。


「礼儀とか気遣いとか、上辺だけで“いい子”ぶるなよ、気持ち悪い。どうせ、お前もこの婚約なんて、迷惑だって思ってるんだろ?」


頭の中が真っ白になった。

目の前にいた王子様は、一瞬でどこかへ消えた。残ったのは、私の想像とも理想ともまるで違う、鋭く拒絶する声だけ。


身体が強張って、喉がうまく動かなくなった。何か返そうとしたけれど、出てきたのは小さな「ごめんなさい」だけだった。




その夜、彼が帰ったあと、私は一人ベッドに潜り込み、布団の中で涙をこぼしていた。


(なにが……いけなかったんだろう)


何度も自分に問いかけた。でも答えは出なかった。


わかったのは、彼を失望させたのは私のほうだったということ。


ノエル様は、リヴィアが思っていた“王子様”ではなかった。そして、私は──“お姫様扱い”されることを期待していた、愚かな少女だった。


悔しくて、恥ずかしくて、情けなかった。自分の未熟さを思い知らされた。


震える指先で涙を拭いながら、布団の端を握りしめた。


この婚約は、国が決めたもの。彼が私を嫌いでも、私たちはいずれ結ばれる──それが現実。


(……私は、このままでいいのだろうか?)


その瞬間、胸の奥に重たい何かが投げ込まれたような気がした。


(変わらなきゃいけない)


ノエル様にふさわしい婚約者になるために。

私は、この日から「完璧な淑女になる」と決めた。

震える肩を押さえながら、私はただ、強くなりたいと願った。




翌朝、鏡の中の自分を見つめた。


目元はまだ少し赤く、声も掠れていたけれど、泣きはらした顔だとは絶対に見せたくなかった。水で顔を洗い、いつもより丁寧に髪を整えて、ドレスに着替える。


(もう、泣かない)


そう心に決めて、階下へ降りた。


食卓には両親がいて、紅茶の香りが漂っていた。母がふと顔を上げ、私を見た瞬間、少しだけ目を見開いた。


「……おはようございます」


静かに、けれどはっきりと挨拶する。いつもと変わらぬ声が出たことに、自分でも少し驚いた。

父が新聞を畳み、ゆっくりと口を開いた。


「リヴィア、昨日のことだが──」

「留学したいの」


思っていたよりも早く、言葉が口をついて出た。二人の動きが止まる。


「留学……?」

「ラヴェルナ家の名に恥じない淑女になりたいのです。そのために必要なことを、きちんと身につけたい」


母が視線を伏せる。父の表情は、少し険しかった。


「昨日、庭から戻ってから様子がおかしかったな。……あの少年に、何か言われたのか?」

「……違います」


本当は、崩れてしまった自分を、ただ変えたかった。でもそれを口にするのは、両親にまで失望されたようで怖かった。


「まだ十歳だぞ、リヴィア」

「承知しています。でも、今のままでは、私は変われません」

「なにも今すぐ留学しなくても……国内の教育でも十分でしょう?」


母の声に、微かな動揺が滲んでいた。でも私は、そっと首を横に振った。


「変わらなきゃいけないのです。今の私では、ラヴェルナの後継としても、婚約者としても、中途半端です」


──この国にいたままでは、未熟な自分でノエルにまた会うことになる。そうなれば、また同じことを繰り返すだけ。それだけは避けたかった。


父が少し目を伏せ、深く息を吐いた。


「……わかった。留学先を見繕おう」


それは、決して簡単な了承ではなかった。でもその一言に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

 


それからの数週間は、目まぐるしく過ぎていった。


留学先は、隣国ノルゼアにあるセレスティア女学院。厳格な教育方針で知られる、世界でも名のある名門校だった。


語学の準備、書類の手続き、持参する礼服の用意。マナー講師の個人指導も加わり、日々は慌ただしくも充実していた。


母はときおり、そっと私の肩に手を置いた。言葉はなくても、その手が何を思っているか、なんとなく伝わっていた。でも私は、もう一度まっすぐ顔を上げて、前を見つめ返した。

 

そして、出発の朝。

荷馬車の前で、私は深く頭を下げる。


「行ってまいります。必ず、成長して帰ってきます」


父はひとつ息をつき、やがて静かに言った。


「リヴィア。お前がどんな娘でも、私たちにとっては誇りだ。それを忘れるな」

「……はい」


母は少し目を潤ませながら、笑顔を浮かべた。


「頑張っていってらっしゃい。……手紙、ちゃんと送ってね?」

「ええ、もちろんです」


馬車がゆっくりと動き出す。

窓の外に見える家の輪郭が、少しずつ遠ざかっていく。

でも私は泣かなかった。振り返らなかった。

あの日の弱い自分に戻らないように、あの夜に誓った“決意”を、もう一度胸に抱いて。

これが、私の第一歩だった。

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