9
薄暗い曇り空は何かを飲み込んでいくように深い色をしている。降り注ぐ灰がより濃くなったような気もした。
英久は頭の後ろがすっ、と冷たくなっていくのを感じる。ゆっくりと肺の奥の方から吐き出した息が、防塵マスクの嘴の先を伝って流れ出ていく。
ゆっくり視線を落とすと刹那が視界に入る。真っ白な髪が風になびく。かつて坂道の下から見た女性の姿。同じくらいの長さの白髪と背丈、そして防塵マスク。胸を締め付けるような既視感が湧き上がる。
そっとボールを蹴った。
ボールを受け取った刹那。前に向かってボールを運んでいく。
とても軽やかなドリブルだった。運び出す足の先々に自然とボールがついていくような。
「カナタ!」
タツヤの声に反応してカナタが動き出す。スピード感のないドリブルに間合いを測り損ねたカナタがあっ、と声を出すとともに刹那が隣をすり抜けていった。
緩急も切り返しも何もなく、ただ棒立ちしているカナタの隣を通り過ぎていった。傍目にはそうとしか見えなかったし、カナタもなぜ反応が遅れたのかわからなかった。
「待てって!」
ふいに手が伸びて刹那の服を引っ張った。
「あっ」
バランスを崩す刹那。並走するようにカナタが走り込み、足を投げだすようにしてボールを蹴り出した。
勢いで体が触れて、刹那はピッチに倒れ込む。
二人から離れたボールをタツヤがタッチラインの外へ蹴り出す。
「攻守交代だ」
刹那を一瞥してボールを取りにいくタツヤ。
刹那はうつ伏せに倒れた体勢から転がって仰向けになる。
重い空そのものが落ちてくるように見えた。灰が降り注ぎ、防塵マスクの視界をふさいでいく。
「大丈夫か?」
狭くなった視界の合間に差し出された手が見える。そして防塵マスク越しに微かに見える刹那の瞳。
こちらの目をじっ、と見られているような瞳。目のずっと億の何かを観察されているような感覚に囚われる。
「なるほどね」と声に出し、刹那は差し出された手をとった。
「了解、了解。こうなるわけね」
立ち上がる刹那。
「まあ普通ならファールだけどな」
「いや、対処できなかったのは僕だ」
刹那の言葉に視線を向ける英久。刹那の目はすでにボールに向けられていた。
「そうか」
刹那は笑った。
ちょうどカナタがタツヤに向かってボールを蹴り出したところだった。
カナタが刹那の背後を狙って走り出す。だがタツヤはパスを出さずに英久に向かって直進してきた。
パスを出すフェイントを一つ入れて、かわしにかかるタツヤ。その瞬間、英久は強くピッチを蹴った。
まるで間合いが急に消えたかのようだった。奪われる直前でなんとか切り返し、サイドにボールを運ぶ。
冷たい汗が背中を伝うのをタツヤは感じた。英久が踏み込んだ足で進路を急速に変えてくる。タツヤにはもうボールを蹴り出すしか選択肢はなかった。
やみくもに蹴り出されたボールがペナルティエリアに転がっていく。その軌道がたまたまカナタの走り込むスペースに合った。
思わず口角が上がるカナタ。ボールを迎え入れようとした瞬間、何かが視界に飛び込んできた。
ゴールを飛び出してきたマコだった。彼女はそのまま緩やかに転がるボールを拾い上げた。
一瞬、呆気にとられた英久だったが自然と手が拍手を送っていた。
「ちゃんとキーパーやってくれるんだ」
英久の言葉と拍手にマコは目を丸くしながら数度頷き「まあ」と答えて、ボールを刹那に向かって投げた。
それならば、と英久は強く短く息を吐き出した。
刹那がセンターサークルからボールを蹴り出すと、英久はそれを受け前に蹴り出す。
進路に向かってタツヤが飛び込む。一度、立ち止まる英久。
「こっち」
駆け出す刹那の声にタツヤが視線を向けた。その瞬間だった。
タツヤは何かが右側にある空間を引き裂いたかのように感じた。
「は?」
気がついたら目の前にいた英久の姿はなくなっていた。
「マジかよ」
一瞬にしてタツヤを置き去りにした英久にカバーに入ろうとするカナタ。ルール上ペナルティエリア外からのシュートはノーカウントにしている。まだギリギリ追いつけるはずだ。
一歩踏み出した瞬間、英久の足からボールが放たれた。
何かがカナタの横を交差するように横切った。視線で追うと、白い髪をなびかせて刹那がボールへと向かっていくところだった。
慌てて踵を返すカナタ。全力で刹那とゴールとの間に体を放り込む。
刹那がボールに触れた瞬間、ふわりとボールが舞い上がった。
急に時間がゆっくりになったように、自分の頭上を越えていくボールをカナタは眺めていた。
背後へと走り込もうとする刹那の肩に手を伸ばすカナタ。刹那はまるで舞を踊るように体を回転させる。カナタの手は空を掴むしかなかった。
マコはハッ、となってゴールから飛び出す。ピッチに向かって落ちていくボールの間に刹那が足の甲を差し込む。
ボールは再び空へと舞い、灰をいくつも巻き込みながらマコを越えてゴールへと吸い込まれていった。
「綺麗」
タッチラインの外から見ていたナツキが思わず感嘆の言葉を漏らし、慌てて両手で口を塞いだ。
刹那へと歩み寄る英久。すっ、と拳を差し出すと刹那は笑って自らの拳を合わせた。