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朝という時間を好む。
夜が明けて薄い色に染まっていく世界は、なんだか透き通っているようで、空気さえも澄んで感じられる。
英久は窓の外の電柱に留まるカワセミが羽ばたきして灰を振り払うのを眺めている。
羽ばたきの音さえ聞こえてきそうな静かな時間。プアオーバーケトルからコーヒードリッパーへ円を描いて注ぐ音とコーヒーの深い森を思わせる香りが部屋を満たしていく。ふっ、と息を吐きケトルを置き再び窓の外を見る。
灰はまだ静かに降り注いでいた。
カップに注いだコーヒーを持ってキッチンからダイニングへと向かう。
ちょうどダイニングのドアが開き30代半ばのショートヘアーの女性が出てくる。
「ああ、英久さん。おはようございます」
笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる。紺色のハウスキーパーの制服がよく似合う、爽やかな笑顔だ。英久は軽く会釈をする。
「おはよう工藤さん」
「今日は練習お休みなんでしょう? お早いですね」
「勝手に目が覚めちゃうんで」
工藤は目を細めて笑みを浮かべる。
「朝食の用意しますね」
英久は軽く会釈をしてダイニングのドアを開けた。
ダイニングテーブルの向こう、ソファにワイシャツ姿の男が腰掛けている。肩幅の広い、体躯の良い男だ。
「おはよう」
何気ない挨拶が低く響いた。目線はテレビに向けられたまま、声だけが英久を捉える。
「おはようございます」
英久は言葉を返し、男−−父である英典の背後にあるダイニングテーブルにコーヒーを置き、椅子に腰を下ろした。
「昨日も途中で交代させられたそうだな」
「はい」
英久はコーヒーを口に含む。果実のような香りと酸味が靄がかかったような意識を振り払う。
「やるからには実力を示せよ。でなければ私の力で試合に出られているとか外野が余計に騒ぎ立てるぞ」
英典は冷笑を浮かべテレビを切る。
「たかが雑音だがな」
立ち上がりその眼光が英久を捉える。そのまま英久の方へ歩を進め、肩に手を置く。力を込めている感じはしないのに、重さを強く感じた。
「それでも、お前のような年頃には響いたりもするだろう」
口の端を上げて微笑みかけると、そのままダイニングを出ていった。
コーヒーの苦味と香りの余韻が口の中に広がった。英久はそれをそっと鼻から息とともに抜いた。
家の門を潜って外へ出ると、灰が降り注ぐ中を防塵マスクを被った小学生たちが登校していく所だった。
青やピンク、グリーンと色とりどりの鳥の嘴のようなマスク。地元のメーカーが子ども向けに作ったもので、英久も昔憧れた事があった。
それでも当時工場の社長であった父が工場と幻月病の因果関係を否定していた手前、英久が防塵マスクをすることは叶わなかった。
視線を巡らせると尾那大山の中腹で煙を吐き出すプラントが見える。
そのプラントを背負うように防塵マスク被ったセーラー服姿の少女が立っていた。
制服から英久と同じ学校に通う生徒だと思われる。
「グッドモーニングだね!エイクくん!」
英久のクラブチームでの愛称で呼ばれ、少し表情を曇らせる。ファンには外面を良くするようにと、父からもクラブからも口煩くいわれているが、あまり得意ではない事であった。
少女はセーラー服の上から羽織っていまパーカーのフードを下ろし、防塵マスクを外した。
胸元までの長い髪が風にたなびく。そして力強い眼差しが英久を捉えた。意志の強さを感じさせる視線だった。
「有後砂月! クラスも違うし、はじめましてだよね」
「はじめまして」
「まあ!かたくるしい挨拶は抜きにして歩こうか」
マイペースな砂月に英久は戸惑いの表情を浮かべる。
「あ、マスクはさせてもらうよ。君。有名人だからね! 変な誤解されたくないしね!」
砂月は再び防塵マスクをすると軽快に歩き出し、英久を追い越し振り返る。
「さあ、行こう」
手のひらを天に向け、二度手招きをした。