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見上げると暗い空から、ゆるやかに降り注ぐ無数の灰。その中を黄色いボールがゆらゆらと舞う灰を追い越して落ちてくる。
英久が右足を出すと、その踝に収まる様にボールが止まる。
相対していた敵チームでもある多治見FCの佐野は、その瞬間なんだか時が止まったようにも感じた。
英久と目が合った、というよりも見られている感覚。その瞳の中に捉えられたかのように体が強張る。
時間が急激に収斂していく。きりきりと張り詰めたような時間の中で、唐突に何かが弾けたと思った瞬間ーー英久はすでに佐野を追い越していた。
速いとかいうものではない。
何か別の時間を生きているものが、そこを通り抜けていったかのようだった。
佐野が踵を返すと、丁度味方のディフェンダーが挟み込むように英久に迫っていた。
(そのまま時間を稼いでくれればーー!)
佐野が追いつき逃げ場がなくなる。そんな想いで駆けた瞬間、まるで何も遮るものがなかったかのように2人のディフェンダーの間を英久は切り裂いていった。
フェイントをかけるでもなく、体をぶつけるでもなく、まるで練習用に置かれたコーンを避けるかのように2、3度ボールに触れ最短コースをスピードを落とす事なく駆け抜けていった。
鋭いという表現がこれほどまでに分かりやすいことはない。まるで鋭利な刃物で布を裂いていくかのようにボールを運んでいく。
「はい、コーラでいい?」
不意にかけられたハイトーンの声に、砂月はハッと短く息を吐き一気に酸素を吸い込んだ。呼吸が止まっていた事に気づいたのはその時だった。
差し出されたペットボトルのコーラ。それを片手にもつ白髪の巻き毛の小柄な少年。
「刹那か」
幼馴染の高神刹那の名を呼び砂月はコーラを受け取り、視線をピッチへと戻した。
英久がちょうどハーフウェイラインを超えて、相手陣内の半分までボールを運んだ所だった。
刹那が首から下げていた望遠カメラを構える。
シャッター音と共にボールが鋭く相手選手3人の間をすり抜けていく。
ペナルティエリアに飛び込んだ味方選手が伸ばしたその爪先をかすめ、ボールは対角線上のゴールラインを超えて観客席の壁にぶつかって乾いた音を立てる。
「5点だね」
刹那はため息混じりに吐き出す。
「何が?」と返す砂月。
「今のもそうだしさっきまでの惜しいパスも含めて全部決まってたら5点取れてたのになーって」
「サッカーはそんなにポンポンと点が決まるもんじゃないんだよ。昨日取材したバスケの感覚でいるのか?」
「不思議だよねー。バスケのゴールリングの方がずっと小さくてすごく高いところにあるのに、あんなでっかいゴールに中々シュートが決まらないなんて」
「やった事ないからそんな簡単に言えるんだよ。ここから見るのと実際にプレーするのとじゃ全然違うんだからな」
「おっと! 元プロサッカー選手の娘としての血が騒いじゃったかな」
刹那が意地の悪い笑みを向けてきたのに対し、砂月は無言でマスクを首元まで降ろして睨み返した。
キュッと力を入れてペットボトルのキャップを捻ると、炭酸が小さな音を立てて抜けて甘い香りがした。
口に入れた瞬間に刺激が口内に広がり、喉を通っていく。
キャップを閉める手の甲に灰がのると、ふっ息を吐き出す。砂月の息によって再び空へ投げ出された灰が風の流れに乗ってピッチの方へ飛んでいく。
風に運ばれてきた灰が虚空で急に止まったように感じる。
時折、そんな時間があるように英久は感じたりする。10人の味方選手、11人の相手選手、審判に観客に、その誰もが自分を見ていないように感じる一瞬。その瞬間に動くと、まるで世界から切り離され自由であり、孤独である、そんな感覚に陥ることがある。
今この瞬間にパスがもらえたなら。
英久の口元に笑みが溢れる。
ボールが弧を描き英久の頭上を超えて逆サイドの味方選手へと届く。
軽やかに感じた体が急に重さを感じ、足が止まる。相手のディフェンダーが英久をマークするために体をぶつけてくる。
英久は笑っていた。それは張り付いたような乾いた笑みだった。
それでもと重い足でピッチを蹴り、クロスに競り合う。岩のような相手の体に押されながら飛び上がってもボールに触れることはなく、相手選手によってクリアされた。
叩きつけられる様にピッチに倒れる英久。ふわりと積もった灰が舞う。
重さなんてないはずなのに、立ちあがろうとすると体中についた灰から重さを感じた。
顔を上げると灰の降り頻る向こう、ベンチ側に掲げられた20番の文字。灰屋英久の背番号と同じ番号。
英久は短く息を吐き出し、笑みを消した。
「彼、交代なんだ」
刹那は覗き込んでいたファインダーから目を離す。
「それはそうだろう。前半からずっと空回りしているのだから」
砂月は再度防塵マスクを被る。
「空回りかなぁ? 結構味方選手のことよく見てたと思うけど」
「ここから全体を見るのと、プレーしながらみることじゃ全然違うんだよ。一回やってみればいいんじゃないかーー!」
はっ、となり砂月は俯く。そして防塵マスクの先から小さく漏れ聞こえるように「悪かった」とつぶやいた。
刹那は顔を綻ばせ、砂月に笑顔を向ける。
「別に止められているわけではないよ。発作がなければ普通に運動してても問題はないし。周りがやたらとナイーヴになってるだけだしね」
「とはいってもだ」
「誰にもよく分かんないのが厄介だよね」
刹那の笑顔の中に少し寂しさの色が浮かび上がる。
真っ白な髪と透き通るような肌の色。幻月病患者だと一目で分かる容姿を刹那はしている。
この土地に昔からある病。急な呼吸器障害を起こし死にいたることもある。それが何をきっかけに起こり、何を元に症状の重さが変わるのか未だ特定できていない。
ゆえに未だに幻月現象を見て呪われたとオカルト的な説を唱える者もいれば、工場のせいだとする者もいる。
刹那のように生まれながら幻月病に罹った者のほとんどは歳を迎える前に亡くなってしまう。
迫り来る時の中で、笑っている刹那をみると砂月は余計に悲しくなる。
視線を落とすと丁度英久がピッチを後にするところだった。
この街はなんだか悲しい事が多い。きっとそれはこの暗い空と降り止まない灰のせいだ。