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 ひとひらの灰が指先に触れ、砂月は空を見た。重く押しつぶされそうな曇天から雪のように灰が降りてくる。

 瀬尾那の町に暮らしていれば見慣れた光景だけれども、少しばかりうんざりもする。

 首から下げていたカラス口のペストマスクのような防塵マスクを装着して、パーカーのフードを被る。そして2つのレンズ越しに灰の降り注ぐグラウンドを眺める。

 白いユニフォームの選手たちと赤いユニフォームの選手たちが黄色ボールを追いかけている。

 防塵マスクのレンズ越しだと、やはり見辛くて、外してしまいたい衝動に狩られるけれど、競技場でボランティアをしている祖父に見つかったら次こそ試合観戦を禁止されてしまう。

 年寄り連中は未だにこんなマスクに効果があると思っているようだし、降り注ぐ灰と流行りの病の因果関係が科学的に否定されても頑なにこの灰は危険だと騒ぎたてる。何もかもがうんざりだと砂月はマスクの先からため息を吐き出し、視線を上げる。

 競技場の反対側の座席の向こう側。曇り空を押し返すように聳える尾那大山。その中腹に煌びやかに輝く鉄の塊たち。今や世界を代表するマーナガルム社の工場。

 年寄りたちが言うには、その工場から出る灰が流行病である幻月病(スコル・ハティ病)の原因だという。

 工場が誘致されたのは十七の歳になる砂月が産まれた数年前だし、幻月病のような病はそのずっと前からこの土地にあった。

 それでも年寄りたちがマーナガルム社を目の敵にするのは、全て市長に対する敵愾心からだ。

 

 それは下校時のこと。

 帰りのバスを待っていると、市役所の前にデモ隊が騒いでいた。砂月の通う市立瀬尾那高等学校は真鳥戸市の市役所前にある。こうしてデモ隊が騒いでいるのも入学当初から見慣れた光景でもある。思うのはそこに祖父がいなければいいなと、砂月はパーカーのフードを目深に被る。

 真鳥戸市は砂月の産まれる5年前に瀬尾那市と鳥戸市が合併して出来た新しい街でもある。

 マーゼガルム社の元社長の灰屋英典氏が市長になる際に掲げていた公約通り、日本有数の都市である那古野市から快速で繋がる駅を作り、工場を誘致し、街は瞬く間に発展していった。

 砂月も物心着く頃から、どんどんと新しいビルが建ち、街が変わっていくのをみてきた。子供心には新しい商業施設ができたり、那古野市にしかなかったような有名なお店ができていくのは楽しくあった。

 それと同時に祖父やその周りはどんどんと陰気になり、始終愚痴ばかり口にするようになっていった。

 大手のスーパーがやってきて、コンビニも増え、祖父の乾物屋は店を閉めることになった。コンビニにしないかという誘いは何件かあったそうだが、祖父は頑として首を縦に振らなかった。

 祖父の一人娘でもある母は未だにその時の事を持ち出しては「あの時父さんが了承してくれていたらもっと楽な生活ができたのに」とため息混じりに吐き出しては、祖父に冷たい視線を送る。祖父はいつも目を合わせる事なく、泡の消えたビールで言葉を流し込む。

 デモ隊の人々は「灰屋市長は出ていけ」や「美しい瀬尾那を返せ」「疫病神灰屋」など過激なプラカードを首にかけながら、ブルーシートの上に座っておにぎりを片手に談笑している。

 過去にそんなデモ隊の中に祖父の笑顔を見つけた時、砂月は一寸息が詰まった。家では見たこともない祖父の笑顔に、別になんの感情も沸かず、ただああそうなんだと心の中で呟いたのを覚えている。

 日常が緩やかに色々なものを曇らせていく。

 街に灰が降り積もるように、人々の心も黒く埋まっていく。

 灰の降り注ぐバス停でバスを待ちながら、1人防塵マスクを被る。そうすると世界から自分が切り離されて、何かに守られているような気分になれた。

 不意に影が濃くなる。

 隣に立った誰かの傘の影だと気づき、レンズ越しに視線を送る。

 獣のようだと思った。暴力的なというのではなく、自然の中ですっと凛々しく立つ触れ難い獣。

 長身で学生服の上からでもわかる、しなやかに引き締まった体。犬や狼を連想させる精悍な顔つきと、緊張感を感じさせる強い眼差し。

 英久だとすぐにわかった。

 灰屋英久ーー灰屋市長の息子であり、砂月と同じ瀬尾那高校に通う同級生。そしてプロサッカークラブの真鳥戸フェンリルのユースチームに所属する選手でもある。

 校内で何度か見かけた事はあったけれど、これほどの至近距離になったのは初めてだった。

 不意に英久が視線だけを砂月に向ける。防塵マスク越しで向こうには見えてないはずだけれど、目が合った気がして体が強張る。

 硬直から抜け出そうと一歩身を引いた瞬間、灰がレンズに触れた。

 ふと、見上げると紺色の傘が空を隠している。英久の片側の肩には灰が積もっている。

 栄久が視線を背けると、その先から霧を裂くようにバスが現れた。

 バスが到着するや否や、砂月は飛び乗ってICリーダーに叩きつけるようにスマホをかざし、一目散に後部座席に向かって腰をおろした。

 栄久は静かに傘を畳んで、傘についた灰を振り払った後、バスに乗り込んで座る事なく吊り革を掴み視線を窓の外に向けていた。

 砂月が防塵マスクを降ろすと同時にバスは走り出す。

 唇をきつく結び、目を細める。狭まった視界の中でより鮮明に英久を捉える。

 市長の息子で、サッカーエリートでと同じ学校にいながらも、どこか遠く感じ、別世界で生きている人間だと認識していた。当たり前だけど、生きている人間としてそこに存在していたと、初めて認識した瞬間でもあった。

 じっと静かに車窓を眺めている英久の姿に、子供の頃に見た神社のお犬様を重ねる。

 尾那大山にある尾那大神。そこに祀られた大口真神を現したお犬様の石像。麓にある瀬尾那や鳥戸の街を見守るような姿。

 その横顔に似ていると思った。

 息を吐き出すと同時に、砂月は肩の力を抜いた。その瞬間には自分がこれから何をするのかを決めていた。

 英久は砂月が降りる予定のバス停の二つ前で降り、砂月もそれに続いておりた。

 英久が動く前から、どこのバス停で降りるかはわかっていた。

 砂月の目の前には黒く汚れた大きなコンクリートの建造物ーー瀬尾那陸上競技場があり、英久はその入口に姿を消していく所だった。

 

 

 

 

 


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