偽名なんて咄嗟には思いつかない
「こ、こいつ……!」
「どうして、どうやって戻って……」
迂闊に触れないようにしていた危険があちらからやってきた現状に、フィスとリザは身を強張らせる。二人の反応とは真逆に、イルマはまた緩やかな笑みを浮かべて説明を並べた。
「ボディーガード君に二人を抑えるように頼んだだけさ。どうも僕の主目的は逃走で、こっちに戻ってくるって想定はしてなかったみたいだ。今頃は必死にこっちに戻ろうとしてるんだろうけど、彼、腕が立つから少なくとも5分は止めてくれるだろうね。こっちも急ぎだから距離は離せなかったけど、充分さ」
逃走のためと口にして背を向けた相手が真っ先にとんぼ返りしてくるなど誰も想像できない。その隙をついた行動に、ナフィ達はついてこれなかったのだろう。
前触れなく危険に晒されたリザとフィスの二人は、どうにかこの場を脱そうと周囲を見渡す。が、その行動はすぐにイルマの次の一手に止められる。
「動かないほうがいい」
見上げてみれば、彼はその手に銃を持ち、二人に銃口を向けていた。少女達の視線は弾丸の放たれる闇に満ちた穴に吸い込まれる。直前まで平穏な日常を送っていた二人の目には、その明確な危険はより恐ろしいもののように映った。
銃の存在を分かりやすく示したイルマは、今度はそれを空中に放り投げる。黒の塊が落下していくのは店主の方。目の前に危険物が落ちてきたのに対し、彼は思わずそれを手に取ってしまう。
「君が撃ってくれないか。どちらの子でもいいよ」
「…………は、はい?」
眼前で起こっていた出来事に対し、まるで薄い壁一枚を隔てたように感じていた店主は、急に現実に引き戻される。驚愕を通り越して真顔になっている彼の顔を見ると、イルマは肩をすくめて笑う。
「生き残った方を人質にする。警察の身内を抑えれば追っ手に抑制をかけられる、ナフィの助手ちゃんを捕らえれば協力を強制できる……どちらに転んでもメリットがある。二兎を追うとなんとやらと言うし、片方で満足しておくさ」
「わ、私がなぜ、そんなことをしなくてはならないんです……」
「僕らが君との違法な取引記録を保管しているからさ。指示に従ってくれなければ警察にリークする。撃ってくれればこっちで匿うと約束するよ」
イルマの口ぶりからは、既に自分の罪を隠そうという気は立ち消えていた。だからこその直接的な物言いは、聞く者の背筋をなぞるような不気味さを伴う。殺人を計画に入れたやり取りを抑揚なく交わす彼の顔には、声色と同じく少しの笑みがあった。
「お、お前……何者なんだッ!? なんで、こんなこと……亜人と人間の差を無くすって話してただろ!! そのための薬を作る過程で人を殺してもいいと思ってんのか……?」
命の危機を前にした恐怖からか、フィスはうわずった声でイルマに問いを投げる。強い疑問と恐怖を向けられたイルマは、それらに素直に応じた。
「思ってるよ。そもそも、僕が回帰と転向という薬を作るのは、決して平和や格差是正のためではないしね」
「は……?」
「ナフィの言った通りさ。それら薬を作ったところで、差別や格差が無くなるわけない。誓っていいけど、確実にユーザーが非ユーザーかを判別する仕組みや装置ができるだろし、それが差別を加速させる」
イルマは平気な顔で前言を覆していく。手のひらを返すというよりは、最初から自分の言葉を騙りの道具としか思っていなかったのだろう。
店主によって背後から銃を向けられているというのに、フィスは一歩後ろに下がる。彼女の目には、イルマが命を奪う銃弾よりも恐ろしい、得体の知れない化け物に見えていた。
「そうと分かってて、どうしてそんなことを……」
「面白そうだからさ」
「…………お前は、なんなんだよ。本当に」
「ただの人間さ」
恐怖と動揺の渦巻く中心で、イルマは薄ら笑いを浮かべている。その意図を誰もが掴もうとしていたが、それは粘液を纏う触手のように掴む隙を与えない。店内に響くのは、店主の震える手に収まった銃が奏でる金属音のみになった。
「何してる?」
突然、イルマが笑みを消して声を上げる。前触れのなかったその行動の元を辿ろうと、フィスはイルマの視線を追った。その先には、リザが携帯をいじっているのがあった。
「電話よ。警察に」
「……状況、分かってるのかい? 君達は銃を向けられていて、命を握られているんだよ」
「わざわざ説明ありがとう。でも、私はそうは思ってないわ」
「……へぇ。詳しく」
イルマの顔に笑みが戻る。ナフィにむけていたものと色が似ているそれを、今度はリザに向けた。
「アンタは店主さんが私達を撃ったところで助けるつもりがない。いや、助けられない」
「……どっ、どういうことです?」
「考えてもみてよ。本当にこの場での殺人を無かったことにできるんなら、わざわざ他人の手に銃を握らせる意味なんかないでしょ。自分で撃てばいいだけ。あいつがそうしないのは、殺人を犯してここから逃げおおせる手段がないから。店主さんも撃ったら最後、そのまま見放されるだけよ」
話を進めるリザは、手元の携帯の操作を進めて警察に電話する一歩手前の画面までいく。彼女はそれを、イルマに見えるように掲げてみせた。
「このまま警察を呼んじゃえば丸く片付く。アンタは見せかけの脅しで他人に罪をなすり付けようとしたみたいだけど、残念だったわね」
「……う〜ん」
「ナフィさんの言ってたことがよく分かったわ。しゃべらせない方がいい奴……もう少しで、こんな安いハッタリに引っかかるとこだった」
イルマはリザの説明に横槍を入れたりはしない。その代わり、眉を寄せて唸り声を上げた。分かりやすく悩んでいるというフリのようなそれがひとしきり続いた後、彼はフッと笑って肩をすくめる。
「降参だ。いやぁまさか、大した背景もない君のような子供に一本取られるとは」
「アンタが小物ってことでしょ」
「はは、そうかもね。それじゃあ僕は退散するよ。ここにいたらあの人を壊すことに長けた名医が戻ってくるんだろうし、何も得られないからね」
まるで買い物を終えたスーパーを後にするかのようにに、イルマは店の外に体を向ける。が、すぐには歩みを始めず、彼は自分に一杯食わせた相手を振り返った。
「君、名前は?」
「…………ごっ、ゴンザレス」
「は??」
「アンタみたいな奴に名前教えたら、絶対ろくなことにならないでしょ」
「あっ、ああ……そういうこと。危機意識がしっかりしてるようで何よりだよ」
すぐにそれと分かる偽名に首を傾げつつも、「それじゃあまたね」と手を振りながらイルマは店の外へと去っていく。命を奪うやり取りをした割には、随分とあっさりした退場だ。マイペース、というより他人の感情を視野に入れていないイルマの行動にはこの場の誰もがついていけなかった。
「……終わったな」
「そうね……」
命を脅かす危険が去ると、フィスとリザは顔を見合わせて大きな安堵のため息をつくのだった。




