法は勢いで破っていいものじゃない
「手術の準備だけ進めておいてくれ。それと、この区画には私が言った者以外は通さないように」
フォクシー、そしてウォルとコンは車で近隣の病院まで移動していた。気持ちの安らぐ清潔感に満ちた廊下で、フォクシーは看護師と話すウォルの背を見つめる。彼の表情や言葉には一切の惑いがない。今の自分が行っていることに、あるいはこれまで自分のやってきたことの全てに疑いを持っていないかのようだ。
「法律を破ったなら、その報いは受けないといけない」
フォクシーの隣に腰を下ろしていたコンが、同じようにウォルの背を視界に納めながら呟く。彼女は目的のハッキリしない濁った目でため息をつきながら、長年一緒に育ってきた友人に自分の気持ちの外郭を晒す。
「家族や周りの人が影響を受けるとしても、それが法律だから。例外をつくったら示しがつかない」
「……自分のお父さんのことを言ってるの、コン? 流石に私達のしたことと、あの人がしたことじゃ、規模感が違い過ぎると思うんだけど」
「そんなことは分かってる。けど、同じなのは規律を破ったってことと……。はぁ、法を踏みにじったなら、それぞれ定められた罰を受けなくちゃいけない」
フォクシーはコンの横顔を真っ直ぐ直視しながら言葉を返す。対するコンは、膝の間で適当に指を合わせながら、ポツポツと言葉を落としていった。
「どんなに守る意味がなくても、価値がないように見えても、それが法律なら守らなくちゃいけない。些細なことだったとしても、抜け穴を認めちゃいけないのよ。罰を避けるには、意義の分からない法律でも守らなくちゃいけない」
「……別に、そういう細かいあーだこーだは知らないよ。私にとってはあまり重要じゃないし」
コンの気持ちを見せない口ぶりに嫌気がさしたフォクシーは、ため息をついて投げやりな言葉を吐き出す。法律や規則などという遠い話は彼女にとって目の前にあることではない。大事なのは、子供の命とドグとの未来の方なのだろう。
だが、彼女のその言葉に法を織る男が反応する。
「重要でない法律など存在しない」
看護師との打ち合わせを済ませたらしいウォルは、柔らかい緑色に塗装された廊下を固い足音と共に歩きながら、フォクシー達の会話に入る。
「守る意味や価値が分からないのは無知のせいだ。昨今、未成年飲酒や喫煙、遺失物の窃盗など、何食わぬ顔で法律を踏み荒らす者が散見されるが、全く嘆かわしいことだ」
「私達のやったことが、そういう何も知らない人達と同じだって言いたいの?」
「本質的には変わらないと言える。厳密にいえば、そのまま自分にとって関係のないことだと知らん顔を続けるのならば、フォクシー。お前達もそういう馬鹿者どもと何一つ変わらない」
ウォルは淡々としているようでいながら、絶対に意見を認めない断固とした口調で自分の法律に対する考えを語る。
「法律が守るのは人々の生活だ。それら一つ一つの意義など一般人が知っているべきだとは言わない。そんなことのできる量ではないしな。だが、それらと関わらざるを得なくなった時、自分に関係のあるだろう法律については知る努力をするべきだ。今の時代、法などケータイ一つでいくらでも調べられる。その努力を欠く者が法律の無意味さを語るなど言語道断だ。それに抗う声を上げるなら猶更な」
「…………たしかに、そう……かもね」
祖父の言葉を前にしたフォクシーは、鈍器で頭を横殴りにされたかのような衝撃に目を丸くする。これまで己達の意志や心だけで押し通れると思っていた現実がそうぬるいものでないことを知った彼女は、改めて自分達のこれからについて思考を回した。
孫に思考の変化の一石を投げたウォルは、今度は隣のコンに目を向ける。
「そして、コン。さっきのは失言だな」
「え?」
「法だから守るのではない。罰を避けるために守るものでもない。法はその庇護下の人の生活を守るためにあるもの、すなわち人々は法を守ることを通して自分達の生活を守っているのだ。ただ法に守られる一般人ならばさっきのような考えで構わないが、法律に関わろうとする者がその考えではいけないぞ」
「…………」
ただの会話の流れで出てきた一言を、ウォルは摘まみ上げて指摘する。何気なく発した一言だからこそ、心の底の考えが現れていると彼は考えたのだろう。その不安が当たっているのかは分からないが、ウォルの指摘にコンは顔を背ける。
そうして、三人が普段はしないだろう法律談義に時間を使っていた時だ。先ほどウォルと話していた看護師が、戸惑いの表情で走り寄ってくる。
「すみません、ウォルさん。あの、おっしゃていた方々がもう……」
「予想よりずっと早かったな。……よし、君達はこのまま待機していてくれ。手術は決して勝手に行うな。私の判断、指示がない限りは待機だ」
「…………は?」
看護師への指示だというのに、反応したのはコンだった。彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような素っ頓狂な顔をして、感情が揺られるままに椅子から立ち上がる。
「ちょっと待ってください。このまま、フォクシーの子供をおろして……それで終わりでしょう? なんで今、躊躇う必要があるんですか」
「……コン。君のさっきの発言にはもう一つ訂正しなくてはいけないところがあったな」
「な、なんですか……?」
「法には抜け穴も例外も必要だ」
ウォルの意外過ぎる言葉に、コンだけでなくフォクシーも、話に深く深く関わっていない看護師でさえも目を丸くした。そんな彼らの視線を受けながら、ウォルは堂々と語る。
「法は完璧ではない。元より完璧でない人が織りなすものだ。恐らくは未来永劫、完璧に到達することはないだろう。だからこそ、法は解釈の余地を残し、様々な事態において解を人に委ねられるようにつくられている。そこから出てくる例外や問題への対処が、法を更に盤石なものにするのだ」
「……は、だったら、なんで……」
ウォルの愚直な言葉を、コンは受け入れられずにいた。彼女はまるで揺れ動く床の上に立っているかのように足を何度も踏みなおし、自分に対するうわごとを繰り返している。それを目の端に置いたウォルは、ため息をついた後でその場にいる者達に背を向けた。
「私は孫の結婚相手がその位置に相応しいかどうか、何より例外として認めるべきかどうかを見定めてくる」
ウォルは毅然とした態度で、再びドグ達の前に立ち塞がることを決心した。