撒き散らされし豆々の背徳
シリーズ第6弾。
イベントものです。
節分の豆撒きという行事に、疑問を抱いたことはないか?
鬼は外、福は内。
禍いを、追い出して世に放ち。幸いは、そこらを彷徨っているぶんまで、内に囲い込む。
追い出された禍いに、あてられるものいれば。手にしようとしていた幸いを、囲い込みによって奪われるものもいよう。
そんな豆撒きという行事が、あたりまえのようにおこなわれているのだ。
だったら逆に。
禍いをおのれの内に引き受けて。幸いはほかのひとたちの手に渡るように、むしろ外へと追い出す。
福は外、鬼は内。
そんな節分だって、あってもいいのではないか?
そしたら、豆はあたりに撒くものではない。
おのれの内に在る禍いの鬼を滅ぼすため、ひたすら取り込むためのものだ。
だから、この豆のスープ、おかわりいただけますか?
弟は、撒きたかった。
年に一回の行事である。
人里離れた一軒家に住んでいる、幼い彼にとっては。こんなイベントでも、単調な生活へのだいじなアクセント。
ここはぜひ、豆をぞんぶんに撒いておきたかった。
姉は撒かせたくなかった。
撒いた豆は、そのあとどうするか?
豆、である。食べものだぞ?
調理を仕事とする姉にとって。食べものをそこらに撒き散らすことじたい、疑問符を浮かべざるをえないのに。
当然、撒いた豆はかきあつめて、食べる。
としたら、殻つきのものを撒くのが適しているため。撒く豆の種類も限られるというものだが。
いくらがんばって掃除しても、撒いた豆のすべてをかきあつめるのは難しい。
半年後、こんなところにまだ残っていたのかとばかりに、ひとつ、またひとつとみつかることもある。
だから、姉は決めたのだ。
うちは、節分に豆を撒かない。
うちは、節分に豆を食べるのだ。
豆のスープに、豆乳ソースのかかった温野菜サラダ。豆ご飯に、メインのおかずは豆腐ハンバーグ。そこには、豆の揚げものまで添えられているではないか。
さすが、料理上手の姉である。
これなら、豆を撒けなくても弟だって——あ、やっぱりだめか。こんなごちそうを目の前にしても。豆撒きを諦めさせられた彼は、不満たらたららしい。
それでも、姉はゆずることなく。
弟を食卓につかせると、食事をはじめさせた。
「デザートには、豆乳プリンもあるんだから、たんと食べなさい」
はじめのうちは、恨みがましい視線を姉にむけていた弟であったが。そこは、やはり食べざかりの少年である。
箸をすすめるうち、そんな不満はどこへやら。
豆ごはんも、スープもしっかりおかわりしたあと。
食後のソイラテと、豆乳プリンまでしっかりおめしあがりになったではないか。
ひとやすみがおわると、満足そうな顔で洗いものをはじめた弟に。あれほどむくれていたくせに、やれやれだわと、姉は優しいため息をつく。
なるほど。
豆など撒かずとも、こんな節分があってもいいかもしれないな。
たしかに、節分といえば豆撒き。
鬼は外、福は内だ。
だが、行事はその家庭でそれぞれ。
よその家庭に、なにからなにまであわせてやる必要などない。
よそとちがっても、その家庭のやりかたを守るときは、しっかりと守るべきなのである。
だから、節分にもあえてこう言おう。
よそはよそ、うちはうちだ。
あとしまつ、たいへんですよね(汗)