10 月との別離
長い悪夢の果てに目を覚ますと、サルーキの顔があった。
月夜…!
私が分かるか?
唇がカラカラに乾いて、思ったように口を動かせず、とりあえず頷くと、途端に抱きしめられた。
ああ、良かった
良かった…
サルーキが泣くのを初めて見た。
ご、めん、なさい…
上手く声が出せず、ほとんど吐息のようだった。
迷惑…かけたでしょう
ああ、そうだぞ、本当に…お前が寝込んでしまって、生きた心地がなかった
ぎゅうと力を込められた。
御前、もうその辺で…
病み上がりですから…
秘書も笑顔で後ろから現れた。
1週間も?
そうだ。だから点滴なんか打つ羽目になって…
なんだかすっかりやつれた針の刺さる腕を見た。反対の手はずっとサルーキに握られている。力強く、温かい大きな手だった。
辛かったろう、先ずは体調を戻さないとな、本当は今日からステーキでも食べさせたいくらいだ
御前…!
冗談に決まっている
サルーキがそんな冗談を言うのも初めて聞いた。アキータあたりが言いそうな…と、思ったところで寝込んでしまう前の光景が浮かんだ。急に心が重くなる。
サルーキが目配せで秘書を部屋から出て行かせると、握っていた手を重ねて僕を見上げて言った。
月夜、お前のいない世界は私には辛すぎる…何も出来ない自分は情けなくて、寂しくて、死んだも同じだった…
だから月夜には、ずっとここに、私の隣に居てほしい。お前に何があったとしても…
最後の物言いは引っ掛かった。サルーキは何を知ったのだろうかと思い、思わず口走ってしまった。
僕が…人殺しでも…?
そうだ。
即答だった。
まるで2人だけの世界にいるかのような瞬間だった。互いの目線は合わさったまま、夢の続きかと錯覚するほどに。
お前は理由なく人を手に掛けるような人間じゃない。そうだろう?
お前の兄の事ならば、頭を打っただけのことだ。その後も普通に生きている。月夜が気に病む必要は全くない。
そうなの…?本当に?
嘘など言うものか。迎という男を覚えているか?彼がお前に会いたいと言って、今、月陸に来ている。彼からおおよその事情を聞いたんだ。
全部分かったうえで言うんだ。
お前はこれから、幸せにならないといけない。
片手は最初から握られたまま、愛しそうに額、頬を撫ぜながら言うので、また涙が流れた。
サルーキはいつも僕を甘やかすよね…
そうすると心が嬉しさに震えるんだ。お前にそれが見えたら良いのに
気障過ぎる…!
サルーキは明るく笑った。誰が僕をサルーキと会わせてくれたんだろう。涙が止まらなかった。
*********
輝也くん…!世話役をしていた迎です!
ずっと…ずっと、お会いしたかった…!
彼はみるみる瞳を潤ませ、月夜の前で立ち尽くして人目を憚らずに涙をこぼした。
私を覚えてくれていますか?
迎さん…
今は、ちゃんと、分かります…
あの時、黙って逃げてしまってごめんなさい…僕を庇ってくれてありがとう…
誰の制止も間に合わず、迎は月夜を思い切り抱きしめた。
…私こそ謝らせてください!あの屋敷で辛い思いをさせたままにしたことを…
ずっと後悔していました…こうやってお話できる可能性を信じて、私はずっと貴方のお義兄様につかえてきたんです。
迎さん
私の知らない過去が、月夜に涙を滲ませていた。
輝也君、私は地球から、貴方を迎えに来たんです。
迎を抱きしめ返そうとしていた月夜の腕がとまった。すかさず、私は言った。
月夜、お前は選択できる。月に残りたいなら、私がなんとかする。
サルーキ…!
小さく叫んだあと、向き直って月夜は迎の顔を見た。
…義兄さんはもうすっかり無事なの?
はい、精密検査もしましたが、ただの打身と診断されていました。本当に、打ちどころが悪かっただけだったんですよ。
そう…
義兄さんのもとに戻って、僕は何かしなければならない?
その質問に、迎は少し顔を強張らせた。多分義兄は月陸間独占禁止法の罪に問われ、失脚は免れないだろう。会社は存続するだろうが、血縁のある月夜に何かしら影響はあるかもしれない。どう言うべきか迷っているのがありありと感じられた。
月夜はじっとそんな迎の顔を見続け、そして哀しげに儚く笑った。
許されるなら、もうあの家には帰りたくない。迎さんはわかっているよね?
結果論かもしれない。でも、僕はあの時逃げ出して、運良く死なないばかりか月にまで来られて、そしてサルーキに拾ってもらった縁を本当に奇跡だと思ってるんだ。
この縁を大切にしたいと思ってる…
迎はもう一度月夜を抱きしめた。餞別だ。止めるのは野暮だろう。今度こそ月夜は彼を抱きしめ返し、耳元で囁いた。
僕はもう誰かを不快にさせたり、迷惑をかけたりしたくない。迎さんも、もう解放されてください…
あんな風に逃げてしまった僕のこと、ずっと考えてくれていてありがとう、忘れてしまっていてごめんなさい。
いいんです。でも、今までの分まで幸せになると約束してくださいね
月夜に優しく言いながら、迎は月夜の肩越しに私を射るように見た。
実を言うと…
あのとき、もし月夜が月を去ると言ったらどうしようかと思っていたよ
いつものように、月夜を腕の中に閉じ込めて囁くと、黙ったまま私を見上げてから意外なことを言った。
義兄さんにとって、僕の何が気に障るのかずっと気になってた…尋ねられるような立場じゃなかったし…
サルーキがついててくれるなら、ちゃんと聞けるかなと思ったことはあるよ。
でも前に総督に言われたことを思い出したの。
「理由なんか必要か」って。「人の好き嫌いなんてものは感覚だ」って。
そんな単純なことなら、僕は義兄さんに囚われ過ぎることなんか無いって、今はそう思うんだ。
総督にそんなこと、いつ言われたんだ。私は月夜を愛しい理由ならいくらでも言える。
総督のことをリスペクトしているような月夜に憤慨して言うと、彼は珍しく声を上げて笑った。
僕は理由なんかないよ、サルーキ!こうしてくっついてるだけでとても安心するんだもの
大好き、サルーキ…
私の腕に頬ずりしていう月夜に、私は動悸が激しくなった。顔が真っ赤になっているに違いない。動揺して固まっている私の頬に短く口づけして
幸せだよ
と月夜は美しく微笑んだ。
********
天空に小さく白い月が浮かんでいる。時折り霞のような雲が薄墨を落としたように流れてはところどころ月を隠していった。あそこに人がひしめき合って住んでいるとは到底思えなかった。
当社が第六次移植以降の月陸間輸送に関わることはなくなった。もはや私が生きている間にあの月へ行くことはないだろう。私が年老いてしまえば、時代に何が起きてるのなんか判りゃしないようになって、こんな気持ちになることもないだろう。
早くそうなれば良いと投げやりに思った。
輝也君は月に残り、2度と戻って来はしないだろう。私は、ここから君の幸せを祈るよりない。あの優しい彼と幸せに暮らしていれば良い…そのために私が役に立ったのなら、あのとき手を離してしまった償いは充分できたのではないだろうか…。
静かに涙が頬を伝った。
2度と会えないのは死んでしまったのと同義だ。最近の若者が月に住む人を揶揄して天上人と言うらしいが、まさに天上人となってしまったのだと思うよりほかない。
後から後から涙は湧いて、全ての景色は滲んで見えなくなった。
終
何とか最後まで書ききることができました。ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!!!まだまだ未熟ですが、感想いただけたら嬉しいです!
また新しいお話の構想も考えているので、良かったらブックマークをよろしくお願いします!!!