第8話:悪魔
「は……?……えっ……え…?」
脳が、景色を飲み込むのに暫く掛かった。
現実を捨て去って、異世界にやってきた。
確かに、そのはずだった。
だが、何度目を擦ろうと、叶多の目の前に広がる光景は変わらなかった。
「鶴見、何で……。」
叶多が振り返るが、鶴見 舞の姿は見当たらなかった。
思考が急速に冷えていくのを感じる。
先程まで全身を覆っていた激痛は消えていた。代わりに、底の知れない恐怖が、叶多を支配していた。
周りは見渡す限り荒れ果て、何も無い。
空気は重く、まるで身体を内側から蝕んでいくようだ。
帰りたい。
叶多の思考を、その四文字が覆った。
「鶴見……っ、鶴見!!なぁ!!どこだよ!!帰してくれ!!こんな世界なら来たいなんて言わなかった!!鶴見!!」
叶多は、必死になって鶴見 舞の姿を探す。
彼女の誘いに乗るべきじゃなかった。
思えば、最初から鶴見 舞は普通では無かったのだ。
思春期特有の性欲と、「自分だけは特別なのかもしれない」という自惚れに付け込まれた。
「……クッソ……。」
騙された。
鶴見 舞の目的は分からないが、叶多は確かに嵌められたのだ。
悔しくて、叶多は堪らず拳を地面に打ち付けた。
「あれ〜?念願の異世界なのに、もうギブアップしちゃうんですか?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
甘く、柔らかく、それでいてどこか毒のある声。
「鶴見……?」
叶多が顔を上げると、先程まで何も無かった空間に『それ』はいた。
「『鶴見 舞』なんて人間は最初から存在しませんよ。」
凍てつくような眼差しを叶多に向ける『それ』は、鶴見 舞の面影を残しながらも、確実に人間ではなかった。
吸い込まれるようなトパーズ色の目を持ち、しなやかな尻尾を畝らせ、漆黒の翼でその場に浮き上がった『それ』は。
「悪魔だ……」
そう、形容するのが一番正しいような気がした。
「カササギくん、ご名答!そうなんです。私、悪魔です。」
可愛らしく、しかし嘲笑うように、『鶴見 舞』だった悪魔は口角を上げる。
取り付けたような敬語が、『鶴見 舞』らしさを塗りつぶしていくように感じた。
「何で騙したんだ……?」
叶多の喉が、膝が、震えていた。
得体の知れない、本能的な恐怖に、全身の毛穴から嫌な汗が吹き出る。
悪魔の答えは、簡単なものだった。
「何で……って、悪魔が人間を騙すのに、理由、必要ですかね?」
その言葉は、容易く叶多の心をへし折った。
「……ぁ……」
「え?何か言いました?」
「あ……あああああああっ……嫌だ!!嫌だ嫌だ嫌だ!!!!!こんなのは嫌だ!!無理!!無理だ!!死にたい!!あああ!!助けて!!助けてくれ!!帰りたい!!嫌だ!!誰かたすげっ……!?」
感情に任せ、叫び散らしていた叶多の喉が締まる。
同時に、再び胸の奥が燃えるような痛みに包まれた。
「……!!……っ!!」
「五月蝿いですよ。」
悪魔が、叶多に手を伸ばしていた。
その指先は叶多に触れていないにも関わらず、叶多の喉を更に強く締め上げる。
「カササギくん、貴方は私と従属の契約を結びました。悪魔との契約がどういうものか、あちらでたくさんのお話を読んだ貴方は既にお分かりなのでは?」
悪魔の言葉が、脳を侵食する。
それは、絶対的な死。
脳裏を過ぎる凄惨な光景の数々に、一度は死を欲した叶多の身体が、生を求めてのたうち回った。
「とはいえ、直ぐに潰してしまっては意味がありませんね。」
悪魔は、白目を剥きかけている叶多の顔を見ると、汚いものにでも触れていたかのように手を離した。
異世界特有のドロリとした空気が喉になだれ込み、叶多は思わず咳き込む。
そんな叶多に構わず、悪魔は続けた。
「カササギくん、貴方が望むなら、元の世界に帰ることも可能なんですよ。」
「そん、なの……、信じられるわけ……っ。」
「信じて下さらないと、私が困るんです。」
悪魔が叶多を睨みつけた。
途端、再び叶多の胸の奥が焼けるように痛む。
思考が、矯正された。
そう叶多が感じるのに、一秒も掛からなかった。
「何で……何で俺、お前のこと信じて……っ!」
悪魔は叶多の様子を見て、満足そうに微笑んだ。
「従属の契約は上手く働いているようですね。」
「ぐっ……、仮にお前が言うことが本当なら、俺は元の世界に帰れるんだよな!?」
「はい!あぁ、やっとここまで話が進みましたね!私は嬉しいです!」
この瞬間を待ち望んでいたかのように、悪魔は心の底から嬉しそうに笑った。
「でもですね、カササギくんが元の世界に帰るには、条件があるんですね。」
勿体ぶる悪魔に、叶多は苛立ちを募らせた。
「御託は良いからさっさと話せよ!」
「はい。じゃあ早速。」
そう言うと、悪魔は叶多に手を差し出した。
「お金です。」
「は?」
「カササギくんには、この世界でお金を稼いで頂きます。日本円にして、ざっと5000兆円程。」
「ご、せんちょうえん……?」
「当然でしょう?地球から月へ行くのとは訳が違うのですから。地獄の沙汰も金次第ならぬ、セカイの沙汰も金次第ってところでしょうかね、うふふ。」
上手いこと言ったでしょう、と言わんばかりに、悪魔は胸を張った。
しかし、叶多にはそんな悪魔の姿をまともに認識する余裕なんて無かった。
5000兆円、というネットミームとなった言葉を、叶多は口の中で繰り返し唱える。
現実でも貧しかったのに、何も無い異世界で5000兆円を稼ぐ……?
「無理っ……!?」
そう口に出した瞬間、再び、叶多の魂が焼かれた。
「まだ、生きていたいんでしょう?カササギくん。」
悪魔が叶多に擦り寄って、耳元で囁いた。
叶多に拒否権など、残されているはずがなかった。
「安心してください!大金を稼げる仕事なら、私が斡旋しますから!」
叶多には、目の前で笑うこの悪魔に運命を託す以外の道が無い。
ここで叶多が死のうが、きっと悪魔に好きにされるだけだろう。
それなら、一縷の望みを賭けて、5000兆円を稼いででも、元の世界に帰ろう。
もう自分の意思が何かも分からない状態で、叶多はぼんやりと頷いた。
「決まりですね!それでは、早速カササギくんにお仕事をお願いしようと思います!」
何の仕事でも構わないが、出来るなら簡単な仕事が良い。
そんな叶多のささやかな願いさえ絶つように、悪魔は無慈悲に告げた。
「カササギくんには、『勇者』を殺して頂こうと思います。いわゆる、賞金首ですね。」
笠崎 叶多の、勇者殺しが始まった。
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