第7話:契約
叶多はめちゃくちゃに走っていたが、辿り着いた先は、無意識にもカガチ岬だったらしい。
観光地であるはずなのに、鶴見 舞の姿しか無いのは、そうなるように天が定めたのだろうか。
薄紫と橙が入り混じる空を背景に、髪を靡かせながら一人佇む鶴見 舞の姿は、まるでこの世に存在しない美しさを持つ『天使』が舞い降りたように見えた。
「お疲れ様、カササギくん。現実、嫌になっちゃった?」
優しく、甘く、鶴見 舞が問い掛ける。
その声は、叶多の脳深くまで染み込んで、嫌なものを溶かしてくれるようだった。
「……嫌になった。」
「逃げたい?」
「……逃げたい。」
心も身体も憔悴しきった叶多は、オウム返しのように答えた。
鶴見 舞の母性とも言える温かさが叶多を包んでくれる。
それは、叶多が誰からも、母親からすらもいつしか向けられなくなった、柔らかい感情。
叶多が一番求めていたものだった。
「……鶴見は、なんで俺に声掛けたの」
ずっとぼんやりと抱いていた疑問がぽつりと零れた。
心の隅で思っていたのだ。
こんな小説のような上手い展開があるわけない。
自分が、ある日急に美少女に好かれるなんて有り得ない。
そんな叶多の心の霧を払うように、鶴見 舞は笑った。
「カササギくんだからだよ。」
その瞳は、愛おしそうに、叶多を、叶多だけを見つめていた。
「俺、だから……?」
「そう。カササギくんだから。」
きっぱりと答える鶴見 舞の表情には、一片の嘘も迷いも見当たらない。
鶴見 舞が、そっと叶多の手を取る。
「あのね、カササギくん。カササギくんはまだ信じてないかもしれないけどね、私、本当にカササギくんを異世界に連れて行ってあげられるの。カササギくんが現実を捨てて異世界に行くって気持ちがあるなら、本当に行けるんだよ。」
素直に、信じても良い気がした。
鶴見 舞は、とてもとても不思議な女の子だから、本当に異世界に連れて行ってくれるような気がした。
「信じる……。俺、鶴見のこと、信じるよ。」
「……!!ありがとう……!!」
鶴見 舞が微笑む。
異世界転生物の小説では、主人公は異世界に行く前に死んでしまう。
もしも、鶴見 舞の言う「異世界」が死の先にあったとしても、今の叶多にはどうでも良かった。
綺麗な世界で、鶴見 舞と生きていけるのなら、何だって構わなかった。
「カササギくん、私の後に続いて同じ言葉を言ってね。」
「あぁ、分かった。」
鶴見 舞の言葉に耳を澄ませる。
「現実を対価に」
「『現実を対価に』」
「異なる世界に向かう」
「『異なる世界に向かう』」
「ここに従属の制約のもと、契約を結ぶ」
「『ここに従属の制約のもと、契約を結ぶ』!」
叶多と鶴見 舞が、光に包まれる。
最初に感じたのは、熱さだった。
視界が揺れ、目を開けてはいられなくなる。
叶多は、思わずその場に膝を着いた。
心臓が熱い。身体の奥が、魂が燃えるのを感じていた。
身体と意識が乖離する感覚。
頭が、指先が、細胞が、分子のように散り散りになっていく。
自分は、今から本当に異世界に行くのだ。
叶多は、その時初めてハッキリと自覚した。
この全身の痛みが、その事実を何より雄弁に物語っている。
「…………!!…………っ……!!!!!」
叶多の叫びが音になる前に、叶多の意識は光に掻き消された。
次に、叶多が目を開けた時に見たものは、一面に広がる赤黒い空と、鉄錆色の荒れた大地だった。
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