第29話:カラスの見た現実
カラスが『カラス』になったのは、半年程前の事だった。
半年よりも前、カラスはどこにでもいる一人の男子学生として現実世界に生きていた。
ただ、カラスはその地域の誰よりも頭が良かった。
カササギの住んでいた街も決して都会ではなかったが、カラスはそれよりも田舎の町に住んでいた。
田舎には、目に見えないしがらみのようなものがある。
そのしがらみは、小さな田舎のなかで、カラスに『優等生』のレッテルを貼り付けた。
誰もが、カラスに『優等生』の言動を期待する。
カラス自身、自分の物覚えが良いことは自覚していたし、ルールを破るのは嫌いだったため、自然と『優等生』として振舞っていた。
カラスは、自分に期待を寄せてくれる町の空気が誇らしく、好きだった。
きっかけは些細な事だった。
「矢田川は良いよな、勉強出来て。」
カラスがまだ「矢田川 烏」という名前を名乗っていた時、同級生にそう言われたことがある。
その時、自分が何と答えたか、カラスはよく覚えていないし、その同級生の名前さえも思い出せない。
ただカラスにとって当たり前だと思うことを言った筈だ。
結果的に、カラスの答えはその同級生にとって『間違い』だったのだろう。
カラスに非があるわけではなく、単に運が悪かったのかもしれない。
その同級生は後に町中で噂される程の不良になり、『たまたま気に入らなかったから』という理由でカラスを虐め始めた。
カラスのレッテルが、『優等生』から『いじめられっ子』に変わった日だった。
田舎には、二種類の不良がいる。
片方は、大人ぶって背伸びをして、仲間とつるんで飲酒やタバコなんか試してみるものの、結局教師たちに補導されて、気が付けば不良からは足を洗っている不良。
そしてもう片方は、田舎の誰からも嫌われ、目を逸らされる程に悪名が轟き、学校にもまともに行かず、人を虐め、重度の犯罪にも手を染める不良。
カラスの同級生は、後者に当たる不良だった。
田舎というのは不思議なもので、本人についていくら悪い噂が流れても、誰も通報なんてしない。
皆、自分から関わりに行くのが嫌なのだ。
カラスと同級生の関係は周知のまま、触れてはいけないものとして扱われていた。
カラスへの虐めは、酷いものだった。
初めは、無視から始まった。
クラスの誰もが、カラスを見ない。
同級生に脅されている、次の虐めの標的になるかもしれない、という大義名分の奥に、誰もが『この二人に関わりたくない』という気持ちを持っていた。
次は、カラスの持ち物が少しづつ無くなっていった。
筆記用具、ノート、タオルなどが、気づかないうちに消えている。
気をつけていようにも、使っていない時間に取られるのだからたちが悪い。
しかし、カラスは反応することで相手を喜ばせることになるという、虐めの基本的な心理状態を考慮して、一切反応を示さなかった。
カラスの反応が無いと、同級生は物理的に反応を求めるようになった。
休み時間や放課後など、カラスの空き時間に拉致しては、暴力を振るう。
単純な暴力は、簡単にカラスに声を上げさせた。
殴る蹴るはまだしも、タバコの吸殻を腕に何度も押し当てられた時は流石に涙が出た。
今までと打って変わってはっきりと苦悶の表情を見せるカラスを見て、同級生は大いに喜んだ。
同級生がカラスを虐め、憂さ晴らしをするためだけに学校に来ていることは、誰もが知っていた。
そのうち、虐めの現場は学校から外にも移り、不良の仲間も交えての集団暴力に発展した。
ここまで何とか耐え抜いたカラスは、やっと両親に相談することにした。
「母さん、父さん、あいつらを訴えようよ!窃盗に未成年喫煙に暴力行為、絶対に勝てる裁判になる!勝てる裁判にしたんだ!」
カラスがここまで抵抗もせず、辛抱強く虐めを耐え抜いていたのは、裁判で有利に事を進めるためだった。
力で勝つことが出来ないなら、社会を味方に付ければ良い。
カラスは、そう考えていた。
しかし、カラスの両親は首を横に振った。
「……え、なんで……。」
カラスの母親は、ゆっくりと口を開いた。
「烏、あなたはもっと賢い子だと思っていたわ。そんな裁判なんて起こしたら、あなたが虐められているって、皆にバレてしまうじゃない。」
カラスには、母親が何を言っているか理解出来なかった。
「そんなの、皆もう知っていることで……」
「良いか、烏。母さんも俺も、お前が虐められている事は知っている。でもな、裁判なんてしたら、それを大っぴらに町中に宣言するようなものじゃないか。勿論、息子が虐めに合うのは、俺たちだって辛い。でもな、幸い、お前は頭が良い。高校にいる間に辛抱すれば、大学では虐められずに済むだろ?」
父親が諭すように語りかける。
「……それは、僕に、あと1年半虐めを受け続けろということ?」
「申し訳ないけれど、そうね。意外と、1年半も経たないうちに虐めが無くなるかもしれないわよ?」
「そうだな。烏、希望を捨てずに、あと少し頑張ってみないか?」
父親も、母親も、笑っている。
カラスには、急にそれが人間の笑みでは無いように感じられた。
カラスは賢かったが、彼の精神は、彼の聡さを塗り潰してしまうほどに痛みを訴えていた。
「……1年半、なんて無理だ……。何が希望だよ!ここまで耐えるのも苦しかったのに!もう無理だ!……勉強なら家でも出来る。僕は明日から学校を休むよ。もうあいつらに会いたくない!」
「あんた何言ってるの!」
母親がカラスの頬を叩いた。
父親も何も言わず、黙って見ている。
「……ひっ……」
その時、カラスは初めて気がついた。
自分は、両親にとって『賢くてよく出来た優等生の自慢の息子』ではなく、『虐められていて、一家の恥で、早く厄介払いしたい存在』に変わっていたのだ。
自分の事を誇ってくれていた両親はもういない。
今の両親は世間体を気にしてばかりで、カラスを少しでも良い大学に飛ばそうとしている。
息子への愛情など、すっかり忘れてしまっているようだった。
「……もう、良い………………。」
それまで確かに在った筈の『矢田川 烏』という人間と、彼を取り巻いていた人間関係は、虐めによって殺されてしまったのだ。
その時、確かにカラスの中の糸のようなものがプツリと切れた。
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