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海に消えた  作者: 狗山黒
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 彼女と出会ったのは、神教司皇になって三年後のことだった。神教司皇の仕事の一環で王都の市場を視察しているときに出会った。薄汚れた服を着ており、エプロンは擦り切れ、靴は穴だらけだった。けれどそれが彼女の美貌を損なうことはなく、寧ろ引き立てていた。健康的な小麦色の肌に、快晴の空のように澄んだ青い瞳。三つ編みにされた金色の髪は太陽の光に輝いていた。

 最近軌道に乗り始めたという仕立て屋を訪れたとき、店主の息子が彼女の肩を抱いて現れた。男の顔は自慢気に笑っている反面、彼女の顔は困っているように見えた。神教司皇の名において、困っている者を見過ごすことはできない。

「そこの貴方、最近困っていることはありませんか」

きっと答えられないだろうと思いつつ、彼女に声をかける。彼女は困り顔のまま、首をふることも言葉を放つこともしない。

 彼女の代わりに男が答える。

「彼女に困ったことなどあるわけありませんよ。この私の、妻になるのですから。店も儲かり始めましたし、悩みなどあるはずがない」

「そのようですね、しかしマリッジブルーというものもありますから。もし、いえ、きっとないとは思いますが、もし何かあるようであれば、教会にいらしてください。教会はいつでも開かれています」

そう微笑みかければ、彼女の顔も心なしかわずかに綻んだ。

 次に彼女に会ったのは、王宮の教会であった。満月の夜で、珍しく私が教会にいる晩だった。人目を避けてきたのか、脆そうなマントをかぶった彼女が、教会の扉を開き月光と共に現れた。

 教会の扉を閉め、マントをとった彼女は、あの日と変わらず美しかった。夜の闇の中であっても、その美しさは隠れず、眩い光を放つよう。

「あのときの仕立て屋のお針子さんですね、何かお困りのことがおありですか」

「嗚呼、神教司皇様……実は私……」

「お悩みがあるのですね。落ち着いて話せる方がよいでしょう。こちらにいらっしゃい、お茶を淹れさせましょう」

 教会に置かれた個室に彼女を案内する。どこの教会にも一つ以上は個室がある。他人には聞かれたくない悩みを聞くためである。

 夜の番の助弟に紅茶を淹れさせ、部屋に持ってくるよう頼む。彼女を席に着かせ、向かい合うように私も座る。以前から抜け出そうと企てていて、ようやくそれが叶ったという印象で、かすかな興奮がみてとれる。

 お茶が運ばれると、彼女が早速とばかりに一口飲んだ。やっと落ち着いたようで、呼吸を一つした。

「お勤め先のご子息についてですね」

私がそう切りだせば、彼女は小さく頷いた。

「言い方は悪いのですが、言い寄られていると言いましょうか。私は彼と恋人だったこともなければ、結婚に了承もしていないのです。けれど反対してしまえば、私は職を失います。両親は既になく、頼る相手もいなくて……どうしたらよいか困っているのです」

「ええ、ええ、見れば分かりますよ。彼は貴方のその控えめな性格と美しさに惹かれたのでしょう。けれどそれだけであって、貴方を愛しているというよりは、貴方という宝石を手に入れた自身を愛しているという感じでした」

 彼女にとって彼は上司に当たる。本人がいないとはいえ、悪口を言うことはできないだろうから、彼女の代わりに私が言葉にする。神は必要とあらば、悪を咎めない。

 彼女は私の言葉に何度も首を振る。

「貴方の望みがあればおっしゃってください。出来うる限り力になりましょう」

「ああ、なんということでしょう! ありがとうございます!」

彼女は手を口に当て、涙を流さんばかりに目を見開いた。貧困層であること、彼女の美貌を考えれば、あまり親切にされてこなかったのだと容易に想像がつく。できるだけ優しく微笑めば、遂に瞳から滴が落ちた。清らかな雨垂れのような。

「私は彼と一緒になるつもりはありません。けれど仕事を失いたくはありません。ですが私の力だけでは逃げることができません。神教司皇様、どうか、どうぞお力をお貸しください……」

悲痛な叫びのようにも聞こえた。初めて心から望みを言ったのだと、その切なる思いは私の心を動かした。

「仕事は、なんでもかまいせんか」

「ええ、なんでもかまいません! 私でお役に立てるのなら、なんでもいたします」

 確か、貧困街近くの孤児院が人手不足だったはずだ。貧困街の傍、というのが懸念材料だが、生憎私が把握する限り教会関係で仕事に空きがあるのはそこだけなので仕方がない。私の紹介、というのがどう作用するか、というもの不安を煽るが、教会内であれば、少なくとも現状より悪くなることはないだろう。

 その旨を彼女に伝えると、踊りださんばかりに喜んでいた。それを見た私まで嬉しくなる。

 仕立て屋を辞められるように、私が認めた書状を持たせ、彼女を帰らせた。夜の女性の一人歩きは危険なので、助弟に見張らせながら。

 神教司皇直々の書状だ、仕立て屋の息子も文句は言えないだろう。無理矢理襲うようなことがあれば、すぐにでも警備隊を呼ぶ。人を守れる立場にいてよかった、と神に感謝した。

 翌日には孤児院に連絡を出し、彼女を雇うことを確約した。彼女もすぐに仕事を止めたようで、その日の夕方には孤児院に来たらしい。

 可憐で親切で、その上働き者の彼女はすぐに子ども達に好かれたという。孤児院で働く他の者達からも評判がよい、と報告にあった。今のところ危険な目にもあっておらず、彼女の性質か私の紹介のせいなのか、人一倍目をかけられているそうだ。その孤児院からの報告を見るたびに、心が満たされていくのを感じる。神よ、貴方が私にお与えになったこの地位は、素晴らしく人の役に立っております。

 先代の神教司皇が重視したのは、貧困からの救いであった。私が重視するのは、教育である。特に孤児の教育についての活動をしている。私自身が孤児だったこと、助弟を務めた教会が学校を兼ねていた、という理由もある。教育は子どもを救う。私も深森の教会で育たなければ神教司皇になれなかったかもしれない。子どもへの救済は、私を神教司皇にした例の事件で亡くなってしまった少女達や赤子達への贖罪でもあった。

 人々へ孤児院への寄付を呼びかけ、教育の重要性を訴え、政府に学校の設立を願う。全てが順調に、とはいかないが、施策は上手く進んでいた。

 特に貧困街付近の孤児院を気にかけていた。ここは他より孤児の数が多く、また貧困街では子どもは守られるものではなく、働き手とみなされることが多い。十分に教育されないまま社会に放り出されてしまうのだ。

 月に一度はそこの孤児院を見舞っていた。神教司皇は本来そう外出しないのだが、聖ツヴィンゲル神髄卿が

「そこまでお気にかけるのなら見舞ったらよいでしょう。貴方は孤児院出身ですから、何も不思議なことはありますまい」

と言い、私や他の神髄卿も説得してくれた。彼は昔と変わらず、私を慈しんでくれる。

 とはいえ神教司皇の格好で会いに行くのは目立ちすぎるので、国民と変わらない格好で孤児院に行っている。地味で目立たない顔をしているので、神教司皇の格好さえしなければ庶民に紛れることができる。

 お菓子や寄付された服を持って孤児院にいけば、子ども達だけでなく手伝いの方も喜んでくれる。特に彼女、マリアンヌ――あの晩、ここを紹介した彼女――は、私の訪問を喜んでくれる。

 行くたびに一月の出来事を報告し、手作りのクッキーをくれる。そして孤児院を紹介したことへの感謝を述べてくれる。それが私の仕事である、と言っても感謝は尽きない。彼女にとってそれまでの人生は、仕立て屋は地獄だったのだろう。まるで私が神か、その化身であるかのごとく振る舞うのだ。

 私は神に身も心も捧げた身分であるから、自身の子を持つことはない。孤児であったから、家族も知らない。けれど彼女を見ていると、子どもとは、家族とはこのような感じなのではと錯覚する。その錯覚が、とても心地よい。その幻は、聖ツヴィンゲル神髄卿や孤児院の子ども達では、私に与えることのできないもの。

 子どもや家族に対しての振る舞い方など私は知らない。それでも彼女に笑ってもらいたいと思ってしまう。だが笑ってもらうには神教司皇として接するのでは足りない。彼女が私に感謝しか与えないのは、私を神教司皇としてしか認識していないからだ。でも私は神教司皇。私はどうしたらよいのだろうか。

 神教司皇の相談事にのるのは神髄卿の仕事である。ただその相談事は、神教司皇の仕事に関連したものにつき、私事について関与しない。それなのに聖ツヴィンゲル神髄卿は、私事の相談にものってくれる。私が神弟の頃から面倒を見てくれる、私を娘のように思っているのだと言ってくれた。

 聖ツヴィンゲル神髄卿は私を才能溢れる娘だと思ったから、神官の勉強を見て、神仕や大神仕に推してくれたのだと言う。聖職者としての気持ちを超え、私に喜んでもらいたかったのだと。彼は言った、人を喜ばせたいなら何かを与えるのが一番だ。確かに思い起こせば、仕事を与えたとき彼女は喜んでいた。お菓子や服を与えたとき、子ども達は喜んでいた。ああこんな簡単なことだったのか、とようやく気が付いた。

 それからは孤児院を訪れるとき、マリアンヌにだけ特別な贈り物を持っていった。少し高級なお菓子、手触りのよいハンカチ、流行りのイヤリング。どれも彼女は喜んでくれた。その笑顔が、私の心を幸福にさせる。神に召されるほどの喜び、神教司皇になったときでさえここまでの幸福感は味わえなかった。

 お金は有り余るほど持っていた。神弟や神仕でも教会に住んでいる者は特に薄給だったが、私はあまり使わなかったので貯金があった。また神官としての給料もある。神教司皇としての給料は高くはないが、神官長――神教司皇になったとき同時に神官長にもなった。聖職者の頂点であるから当然のことである――としての給料はそれなりにある。私には趣味というものがないから、お金などあっても眠るほかなかったのだ。今、ようやく有効活用されている。

 マリアンヌは好きなものを繰り返し食べたり買ったりするよりも、新しいものを好むようだった。私の贈り物も同じものは二度渡さないようにしていた。そうしているうちに徐々に新たなものはなくなっていき、より高価なものを買わざるを得なくなった。けれど彼女の笑顔を見るためならば、私の財が尽きるのは問題ではなかった。

 彼女が私に贔屓されているのは孤児院にはばれていなかった。こっそり渡していたし、なるべく身につけないように、生活を変えないようにと言い含めていたからだ。マリアンヌは控えめな性格であったから、自分でも目立たないように気を付けていた。尤も、私が神教司皇である以上、信者は私に反論など基本的にしない。

 彼女の自室には私からの贈り物が増えていく。彼女が読みたいと言っていた素晴らしい装丁の本、彼女の瞳と同じ色の煌めく宝石、彼女の肌を引き立てる真っ赤なドレス、麗しい足に似合いのピンヒール。彼女の部屋を訪れるたび、私の贈り物が増えるのを見るたび、彼女がそれらを身に着けた姿を見るたびに、心は踊り、魂は歓喜に震える。私の行いで救われた者は何人もいた。彼らに感謝され喜ぶのを見たときも嬉しいとは思ったが、これほどではなかった。愛しむべき相手を見つけた歓びのせいなのか、あるいは仕事以外で感謝されるせいなのか。ああ、神よ、貴方が私に心を与えたこと、感謝いたします。

 初めて孤児院の外で彼女と会う約束をしたのは、彼女と出会って一年が経過してからだった。私からの贈り物はゆうに百を超え(孤児院の見舞い以外にも彼女を訪れていた)、彼女の存在は唯一無二のものとなっていた。

 マリアンヌは金の髪を結い上げ、花で飾られた帽子をかぶっていた。帽子のつばが落とす影で、彼女が憂いを帯びているようにも見え、それが愛しく美しい。服は水色のギンガムチェックのワンピースで、腰のリボンが可愛らしい。靴は白いエナメルで、リボンの飾りがついている。鞄も同じ白で、革でできており、金とサファイアがところどころで輝いている。どれも私が贈ったもので、それらが彼女の肢体を包み、彩っているのかと思うと、言葉にできないほどの悦びが心に満ちた。

 一方私はいつもと変わらぬ地味な格好をしていた。マリアンヌは

「私ばかりこのような格好で」

と恐縮していたが、この格好が私に最もふさわしいのだ。それに私はできるなら、マリアンヌを輝かせたい、私などは引き立て役でよいのだ。

 マリアンヌはとかく目立った。身につけているものは大して珍しくも高級でもないから、彼女自身が人目を惹き付け、煌めきを放っているのだと言わざるを得ない。隣で私は誇らしさと愛おしさで胸を詰まらせる。

 とあるカフェで彼女にパルフェをご馳走する。貧困街出身の彼女は初めて見るのだろう、瞳を輝かせていた。その様子を見て私は満足する。

 私がお手洗いから戻ってくると、見知らぬ男が彼女に声をかけていた。彼女は優しい人だ。明らかに見知らぬ、胡散臭い人であっても無下にはしない。困惑をにじませた笑みで対応している。

 その笑みを見た瞬間、私の中で何かが弾けた気がした。心を暗い炎が焼いていくような感覚。鳥籠から逃げた小鳥が、見知らぬ男の指に止まっているのを見た心地。怒りに似ているが、これは怒りより、何らかの欲望が似合う。閉じ込めておきたい、それは私のものだ、私以外は触れるな、そんな言葉が脳を巡る。

 神に問えば空から声が降ってくるかのように、心にすっと嵌った言葉。

恋。

 これは恋だ。彼女を愛しく思うのも、彼女に笑ってもらいたいのも、彼女を閉じ込めておきたいのも、全て恋心から生まれた気持ち。この暖かで、苦しくて、優しく、どす黒い気持ちは、恋なのだ。子どもや家族への気持ちなどという曖昧なもので蓋をしていたそれは、パンドラの箱か。いや、これは宝箱だ。

 けれど私は彼女と恋人になることは叶わない。私は、神教司皇だ。神に捧げた身は、神のもの。マリアンヌのものにはならない。でも、せめて、嗚呼、神よ、心だけは彼女にお与えになることをお許しください。初めて恋を知ったのです、初めて人をこんなに愛おしいと思ったのです。誓い通り、私の人生と身体は貴方に捧げましょう。その代わり、誓いを破り、心を預けることだけは、どうか、どうか、その慈悲深き寛大なお心で、お許しください。

 男に退いてもらい、席に戻る。彼女は私が戻ってきたのを見て、安堵の笑みをこぼす。私も彼女に笑みを返した。そして心で泣いた。

私は貴方とは一緒になれない。身を捧げられない私は、貴方に高望みはしない、愛を乞うことはしない。だから、せめて私の傍で笑っていておくれ。その代わり私は持てる限りの愛と、有り余る富を贈ろう。

彼女が微笑んだ。私の心に、返事をしてくれているようだった。

 孤児院を出て王宮の教会、つまり私の職場にこないか、と彼女に聞けば、二つ返事で頷いた。孤児院が嫌いなわけではないが、私と一緒にいられる方が嬉しいと言う。心が躍る。愛してくれとは決して言わないが、愛してくれるのならそれに越したことはない。神よ、貴方は私をお許しになったのですね。

 その日から彼女は私の職場に住むことになった。もちろん、私と同室だ。私一人だけだったときは質素で殺風景な部屋だった。調度品は高価で上質だが、私の持ち物が少なく地味だった。けれど、彼女がいるというだけで、部屋は華やぎ輝いていく。芳しい花束も華麗なドレスも、煌びやかな宝石も上等な織物も必要ない。彼女がいるだけでよい。

 しかし彼女に任せられる仕事はなかった。神仕や助弟だけで仕事はまかなうことができ、何より彼女は聖職者として働いた経験がない。仮にも王宮の教会で、素人を働かせるわけにはいかない。彼女には私の身の回りの世話を任せることにした。神教司皇の仕事は少なくない。どうしても私生活が疎かになってしまう。洗濯や掃除をしてもらうのだ。申し訳ないことに給料は出せないが、その分贈り物の数を増やすことを提案すれば、彼女は遠慮した。そこまでしてもらわなくても一緒にいられるだけで幸せだ、と。

 なんと素晴らしい心の持ち主なのか。欲がなく優しく、あまつさえ私を愛してくれている。私はこんなにも幸福でよいのだろうか。彼女は遠慮するかもしれないが、私は贈り物をさらに上質なものにし、数を増やすことに決めた。

 私は普段私室にはいないので、調度品は増やさなかった。荷物が少ないので、収納も十分足りている。しかし、寝床は一つしかなかった。神教司皇のベッドであるから、人間が二人寝ても余るくらい大きなベッドだが、いい大人が同じ寝床というのはつらいだろう。

 マリアンヌに問えば、問題ないとのことだった。寧ろ誰かと寝るなど久しぶりだから楽しみである、と言う。そういえば孤児院時代は寝床が狭くて常に人の気配を感じていた。今は一人寝に慣れ過ぎて、その感覚は思い出せない。

 少しだけ距離を開けて寝床に入る。久々の人の気配、人肌のぬくもり。今日は良い夢が見られそうだ、と目を閉じる。

 ふと目を覚ませば、体温と鼓動、それから柔いものを感じた。自分の腹を見ればマリアンヌの腕が巻き付いている。無償の愛おしさを感じながら、どうにか体を反転させる。むずかる彼女の頭を撫で、彼女を抱き締める。肉付きが薄く骨っぽい私の体とは違う、豊かで柔らかく触り心地のよい体。着ているネグリジェも私が贈ったもの。神のご加護を、と額に口付け、私はもう一度目を閉じた。抱き締めあって幸せを感じるだけなら、深き心の神はお許しくださるだろう。

 貯金が少なくなり始めていた。最近は給料から一切貯金に回さず使う一方だったので、当然だ。だが、私の生活の質や贈り物の質を落として、彼女に勘付かれたくはない。私が自由にできそうなお金は、もう一つしかない。

 寄付金を最も多く使うのは、間違いなく私である。孤児院へ回したり、学校の設立に使ったりすることの決定は私がしており、使う額も私が決めている。

 私の施策が順調に進めば進むだけ、世間は私を評価し寄付金を増やしていった。

 神仕になると、天名を授かり、天名のある者は教会内など聖域や仕事の場では実の名で呼ばれなくなる。また目下の者は目上の者を天名で呼んではならないとされるため、役職――たとえば、ネビュラ地区の神仕のように――で呼ばれるようになる。神から与えられた天名は崇高なものであるから、多用されるべきではないのである。特に教会に住まう聖職者は、ほとんど実の名で呼ばれない。そのため同じ屋根の下にいるにも関わらず、実の名を知らない者達の方が多い。それは神教司皇たる私も同じ。

 いまや私を実の名で呼ぶのはマリアンヌだけである。孤児の私の名は、孤児院の先生方がつけただけであって、由来や思い入れはない。それでも、マリアンヌの麗しい唇から涼やかな声で呼ばれれば、私の平凡で地味な名前も、輝く宝石のように思える。彼女からだけは、天名ではなく実の名で呼んでもらいたい、と思えてしまう。

 仕事柄王宮内の教会にいるより、視察や講演のために外に出ることが多い。教会内では、マリアンヌに実の名で呼んでもらえない。仕事での外出は、名を呼んでもらい、彼女を連れ出すにうってつけだった。

 さすがに仕事中に私を呼ぶことはしないが、その後二人きりで観光し宿で眠るまでの間、彼女は私の名を何度も呼ぶ。

「アンナ」

 アンナ・スミス。平凡で地味な、どこにでもある名前。名前も名字も凡庸で、どの教区にも一人はいるとまで言われている名前。私はこのありふれた名前は好きではない。マリアンヌと出会うまでは、どのような場でも役職名か天名で呼ばれるようにしていた。

 それがどうだろう、彼女が呼ぶと私の名前がまるで特別な、私だけの名前であるかのように感じられる。花の香りで体を包まれ、心臓を優しく撫でられるように心地よい。初めて自分の名を好きだと思った。マリアンヌの甘やかな「アンナ」だけが、私に相応しい。

 私とマリアンヌの仲は知られていなかった。私は神教司皇であるから、その点には細心の注意を払っていた。ただの私個人の手伝いとして認識されていただろうに、彼女を取り巻く環境は悪化していた。彼女の服は切り裂かれ、あるまじきことに助弟や信者達が彼女の影口を叩く。愚かなことだ、と私は失望する。私が傍に置くため、持たざる者達から抜け駆けをしたように見えるのだろう。

 神は他者を貶めることをよしとしない。私は神に代わり彼らを罰しなくてはならない。ある者は給料を減らし、またある者には辞職を。それでも彼らの行いは止まらなかった。寧ろ徐々に、その残虐さを増していった。私以外にマリアンヌに手を貸す者はいなかった。

 神よ、なぜ彼女をお救いにならないのですか。彼女は、私に尽くしてくれます。貴方にお仕えする私を支えてくれるのです。その彼女を無下に扱うなど、あまりに酷い仕打ちではありませんか。神よ、神よ、貴方のお心はどちらにあるのですか。私には、神のお心が分かりません。それとも、貴方は、神など存在しないのでしょうか。私の幻惑でしか、ないのでしょうか。

 彼女への仕打ちが残虐性を増せば、教会内の処罰では間に合わない。物を盗んだり、平手打ちを一回したりする程度であれば、まだ教会内での対処を許されたが、ナイフで斬りつけるような恐るべき罪を犯す者は、私達だけでは処理してはいけないことになっている。非道な行いをする者を、次々に警備隊へ引き渡した。

 私への批判も増えた。施策は順調なはずが、おそらくこれも信者や庶民達の嫉妬であろう。罪深き民達である。聖ツヴィンゲル神髄卿に相談すれば、彼らも同様に処罰を下すべき、とのことであった。神教司皇を批判するのは、神を批判するのと同義。神を批判するなど、信者にあるまじき姿である。私は彼に従った。

 悲惨な状況にあって、それでもマリアンヌは私を愛してくれた。名を呼び、愛を囁き、毎夜抱きしめあって眠る。荒んだ心に、彼女が雨を降らせる。輝く太陽の髪から立ちこめる芳しき花の香り、私を見つめる星の燐きをまとった海色の瞳、えくぼの浮く愛すべき薔薇色の頬、私の名を呼ぶ熟れた野苺のような唇。背にまわるたおやかな働き者の手、豊満で柔らかな胸からは心臓の鼓動を感じる。健康な子どもを産めそうな張った腰、なだらかな丘のごとき臀部からは足がすっとのびる。彼女の全てが、爪先から頭まで、睫毛の一本にわたるまで、その総てが愛おしい。一言一句、一挙一投足が私を悩ませ、心を踊らせる。神が彼女に救済を与えないのなら、私が彼女の神になろう。救済も加護も、幸福さえも私が贈ろう。

 神よ、私は貴方にあれだけ尽くしたのに、ほんの子どもの頃から仕えていたのに、貴方は私にも、私の宝石にも、救いも愛も何一つ与えてくれなかった。寄越したのは、無惨な現実だけ。ならば、私は貴方を否定しよう。

 私への批判は、増加の一途だった。分かっている、神教司皇である私が、最も神に近いとされる私が、神を否定したのだから。しかし、信仰や奉公に対して恩恵や救済を与えないなど、神の所業ではない。すなわち、私達の信仰していた神は、神などではない。地獄の王か、悪魔か。神ではないものを、神ではないと言って悪いことがあるものか。私は真実を表明したまでだ。

 しかし、終に聖ツヴィンゲル神髄卿までもが私を見放した。神弟の頃から私を気にかけ、私をロワール大地区の大神仕に推し、仕事の相談もマリアンヌについての相談にものってくれた人が、私を見捨てた。私の両親のように、私を置き去りにしたのだ。やはり家族など私には必要ないのだ。私に必要なのはマリアンヌ一人だけ。彼女が私に微笑みさえすれば、幸せなのだ。

 私の身体も人生も、私に戻ってきた。

「マリアンヌ、あなたの心も身体も私にくれますか」

 ネグリジェに着替えたマリアンヌに問う。マリアンヌは微笑み

「心はとうに。身体もアンナに捧げます」

そう言って私に口付けた。彼女の口付けに応え、そうして私達の身体は、ベッドに沈んでいった。

 日の光に目覚めれば、私の隣でマリアンヌが眠っていた。生まれたままの姿でシーツに包まれている。ベッドに広がる金の髪を撫でて、私はベッドを出た。なんと穏やかで、晴れ晴れとした気持ちだろう。彼女と一つになった、その事実が私の心を満たす。これほどまでに幸福な朝は初めてだ。窓の向こうで太陽が輝いている。私は伸びをして、深く息を吸った。

 唐突に扉が開く。聖ツヴィンゲル神髄卿が、警備隊を連れて立っている。

「身も心も神に捧げた神教司皇に性行為は許されません。残念です」

神髄卿がそう言えば、警備隊が部屋に入り込んでくる。裸のままの私を捕らえる。どこにも逃げ場はない。いずれ、こうなることは分かっていた。

 靴音でマリアンヌが目を覚ます。身体を起こし、大人しく連れて行かれる私を、大きく開かれた瞳で見つめている。その肉感的な身体を隠しもせず。

「彼女には罰を与えないでください。彼女は私に従ったまでです」

神髄卿は首を振る。

「それは神がお決めになることです」

 マリアンヌを見れば、一糸纏わぬままベッドを下り私に駆け寄ろうとする。警備隊がそれを止める。彼女の身体に触れるなど、本来なら許されるはずがなかった。

「アンナ!」

彼女が悲痛な叫びをあげる。部屋を追われた私が振り返れば、マリアンヌは泣いていた。私は大丈夫だ、と微笑んでも、泣き止んではくれなかった。そんな顔をしてほしくはないのに。

 神よ、貴方を私だけでなくマリアンヌまでも見捨てるのですか。神よ、貴方は皆に愛され敬われてはいるが、誰か一人を愛し愛されたことなどない。貴方は、愛される幸福を知る私と、美しき彼女に嫉妬しているのだ。なんと、醜いことか……。

 麻でできた質素な服を着せられ、処刑台に上らされる。死刑執行人が、鎌を携え立っている。

 役人が私の罪状を読み上げている間に、民衆の中からマリアンヌを探す。ようやく見つけた彼女は、死刑台を見上げていた。人込みの中、周囲は役人らしき男達に囲まれている。彼女も質素な服を着せられ、髪は結われることなく風になびいている。薄汚れた服を着てさえ、彼女は美しく眩い光を放っている。初めて彼女を見つけた、あの日のよう。

 岩の上に頭を置く。首が冷たい。

 鎌が風を切る音がする。マリアンヌを見つめれば、星のように瞬く瞳と、目が合う。美しく、輝きを失わないサファイアの瞳。

 私の首がとぶ瞬間、彼女が微笑んだ気がした。

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