正
私がまだ一介の信者だった頃、通っていた教会の神弟様が私の敬虔深さを褒めて下さったことがある。
「君は、神に仕えるべくして生まれたような娘だね」
優しい微笑みを浮かべ、私を撫でて下さった。
私は神に仕えるべくして生まれた子供だった。孤児院で育てられた私には親がいない。親のいない子供は皆、神の子供なのだ。まして私は教会の孤児院で育てられたのだ。讃美歌を子守唄に、聖書を絵本代わりに育った私が、神に仕える以外一体何をするべきだというのだ。私を生み、育て、愛し慈しんでくれる神にお仕えすることこそが私の運命、定めなのだ。
頭を撫でるその手に、私は誇らしげに笑みを返した。
私を撫でてくださった神弟様は、深森の教会にてお仕えをしている方だった。深森の教会は、子供達の学校も兼ねており、私はそこで読み書きと算数を教わった。信心深く、勉強熱心な私を、神弟様は特に気にかけてくれた。他の子に嫉妬されたけれど、神にお仕えするなら勉強ができて当たり前、そして神にお仕えするために努力する私を、神のお弟子である神弟様が目にかけるのは当然のことだから気にならなかった。
読み書きと計算が満足にできるようになった私は、教会でお手伝いを始めた。助弟になるには若すぎたからだった。子供達を教える助弟様達のお手伝いをし、教会のお掃除やバザー用のクッキーを作るのが、私の務めだった。
十五のとき、私を褒めて下さった神弟様が引退なさり、助弟様のうちから一人がその跡を継いだ。私は穴を埋めるように助弟となった。助弟となってからは、子供達を教え、神弟様のお手伝いをするのが務めになった。音楽の得意だった私は、パイプオルガンの弾き手と讃美歌の指導を任された。深森の教会は森ばかりの田舎にある、小さな教会だ。それでも、この小さな讃美歌が神のお耳に届きますようにと、毎日魂を込めてオルガンを弾いた。
中には、神弟や神仕に親族がいて、縁故で助弟となった者もいる。あるいは他に仕事がなくて仕方なくなった者もいる。そういう不埒な輩には、毎日一生懸命に生き、神にお仕えする私達を笑う者もいた。そんな彼等が神にお仕えするなど失礼極まりないのだけれど、神のお心は海より深く空より果てしないものなのだから、神はお許しになっているはず。私も慈悲をもって彼等に接した。
二十のとき、ネビュラ地区で、ある病が流行した。鉱石の発掘に呼ばれていた他地区の人間が持ち込んだらしい。治療をすれば治るものなのだけれど、薬の値が高く、また医療者より患者の方が遥かに多く、亡くなっていく者達が多かった。ネビュラ地区から遠くない深森の教会からも、祈りと治療の応援として何人かの助弟が向かった。私も、その中の一人だった。
鉱石の採掘場の隣の教会、昼星の教会は地区の中でも一、二を争うほど患者が多かった。幸いにも私は感染せず、倒れゆく同僚達の分まで、くる日もくる日も働いた。神がお授けになった丈夫な体を活かそう、と胸に決め一生懸命働いた。
神は私の働きを見ていたのだろう。悲しいことに昼星の教会の神弟様は、亡くなってしまった。自身も病に侵されているのに、他の人々のために骨を砕き、自分の身を後回しにしたためだった。神は、お気に召した人間に二つの道を用意するという。私のように神にお仕えするという使命を全うさせるか、御自身のお傍にお呼びになるか。きっと昼星の神弟様は神のお傍に向かったのだろう。
空席になってしまった昼星の神弟を誰にするか、ネビュラ地区の神仕様がお決めになったのは、流行病が落ち着いた頃だった。そうはいっても地区の助弟達も病に倒れた者が多く、候補は少なかった。
深森の教会はネビュラ地区の教会ではない。私が神弟になるとしたら、深森の神弟様の跡を継ぐか、同じヴァルトアイン地区の他の教会で神弟になるかだった。けれど昼星の神弟に選ばれたのは私だった。他地区であるにも関わらず、寝る間を惜しんで働く姿はまさに神に仕える者のあるべき姿、神仕様は私の働きをそう評した。
昼星の教会はステンドグラスが有名だ。大きな丸窓に、夜空を描くように嵌められた色とりどりのガラス。紺色を基調とした様々な暗青の合間に、透明や淡黄のガラスが星座を描く。太陽の光で床に映された夜空を、人々は昼の星と呼ぶ。
祭壇の前に神仕様が立つ。右手に神笏を、左手に聖書を持っている。石造りの教会は、静寂を保ち、厳かな雰囲気に包まれる。私は昼の星の中央で、神仕様を見つめている。
「他者のために心を砕くその精神を、神は尊ばれます。貴方を昼星の神弟とし、カッサンドラの名を授けましょう」
神仕様は、神笏で私の両肩と頭を撫でる。信仰の心をもって、多くの人を正しく導けますように。神からの祈りが、体に注がれる。カッサンドラ、自己犠牲の天使、心を砕く者の意。私に授けられた天名。この日から、私はカッサンドラとなった。
私は昼星の神弟として、人々を正しく導くために心を尽くした。人々の悩みを聞き、困っていることがあれば神のお導きに従って解決した。毎週末の祭儀では聖書を読み、神に捧げるべく讃美歌を歌った。昼の夜空の中で祈りを捧げ、月光の下で神の言葉を唱えた。
助弟から神弟になるのに、そこまでの年数はかからない。神弟の席に空きがあり、神仕様が任命しさえすればよい。けれど神弟から神仕になるには、それなりの時間が必要になる。逆をいえば、ある程度神弟を務めれば、神仕になれるのだ。席がないのなら、作ればよいだけ。
年に一度、地区の中から一つの教会が選出され、近隣の大神仕様が視察にくる行事がある。私が神弟になってから六年後、ネビュラ地区から昼星の教会が選ばれた。
訪れた大神仕様は四人。ネビュラ地区を含む三地区の大神仕様、お隣のクロワ大地区の大神仕様、ヴァルトアイン地区を合わせた五地区の大神仕様、そして国で最も重要とされるロワール大地区の大神仕様。ロワール大地区は王都に次いで大きな教区――王都には神教司皇がいらっしゃるから大神仕の職はない――で、何度も編纂される教区において、最古より面積の変わらないただ一つの教区だ。そのロワール大地区の大神仕様がお越しになるというのは、神教司皇様がお越しになるのに次いで名誉なこと。
ネビュラ地区の神仕様が四人の大神仕様をご案内している。私は質問などに答えられるように最後列をついていく。
昼の夜空を眺める大神仕様達が感嘆の声をもらす。この日のために、ステンドグラスは念入りに磨かれ、床は丁寧に掃除してある。私や助弟達の苦労が報われたのだと笑みがこぼれる。
「昼星の教会のステンドグラスが美しいのは、有名な話。そういえば新たな神弟になってからは、讃美歌も素晴らしいと風に聞きましたぞ」
ロワール大地区の大神仕様が私を見て言う。細められた瞳が、決して好奇心だけで放った言葉ではないと物語っている。
今、ここに聖歌隊はいない。聖歌隊を構成するのは信者達が主だが、今日の視察が終わるまで信者達は立ち入れないことになっている。パイプオルガンならある、即興で弾くこともできるが、私と助弟達で歌えるのか。
いいや、これは神がお与えになった試練。これを乗り越えれば私はより高見に近付くことができる。
「分かりました。それでは『ニルヴァの羊』をお聞かせいたします」
『ニルヴァの羊』は穏やかな讃美歌だ。巷では子守唄としても歌われ、私も孤児院でよく聞き、よく歌った。この歌であれば、一人でパイプオルガンを弾きながら歌っても見劣りしない。
荘厳なパイプオルガンの前に腰掛ける。何度も弾いたこの歌に楽譜はいらない。一呼吸し、鍵盤に指を置く。口を開き、教会に響くように声をあげる。一小節歌って指に力を入れた。パイプオルガンの重く優しい音色が、教会を包む。
子守唄に歌われる『ニルヴァの羊』は短い歌だ。小節にしておよそ八十小節。三分強で歌い終わる。パイプオルガンの最後の音が鳴り終わると、余韻が教会に満ちる。しばらくの沈黙の後、私の背後で拍手が聞こえた。一人分の拍手、振り向けばロワール大地区の大神仕様が手を叩いていた。彼につられるように、他の大神仕様や助弟達も拍手をしていく。私は椅子を下り、礼をした。
大神仕様達の傍に行けば、ロワール大地区の大神仕様が微笑んだ。何か意図を含んだような、暗く柔らかな笑み。
「噂通り素晴らしい讃美歌であった。今後も励むように」
大神仕様達は教会の他の部分も見て回り、視察は終わった。緊張がほどけたのか、その日の晩はよく眠れた。
助弟や神弟の中には、妻や夫をもつ者もいる。恋人のいる者も勿論おり、昼星の助弟達のほとんどはそのどちらかで、ネビュラ地区内の神弟にも家庭のある者が多くいた。ただ神仕になるのは独身の、恋人のいない者と決まっている。神仕とは神に心を捧げた者のみがつける階級。他に心を預ける者がいてはいけない。そして、私には恋人はいなかった。
大神仕様の視察の半年後、ネビュラ地区の神仕様が亡くなった。まだお年ではなかったけれど、病にかかって亡くなったらしい。彼の葬式のために暫定的に選ばれた神仕は、ネビュラ地区の神仕が勤める鳥蝶の教会の神弟。慣例的には、暫定的に選ばれた神仕がそのまま引き継ぐのだけど、彼女には夫がいた。
葬式の後、神仕の選定が行われた。鳥蝶の教会の一室にネビュラ地区の神弟、独身で恋人のいない者だけが集められた。私を含めてたった四人。その中で私は最年少、こういうものは年功序列が常であり、おそらく私は選ばれないだろうと思っていた。
その場には、選定者であるネビュラ地区および他二地区の大神仕様だけでなく、ロワール大地区の大神仕様も在席していた。ネビュラ地区の神仕様と親しかったと聞いた覚えはない。その場の神弟達は、皆不思議がっていた。
神仕の選定そのものは、神仕様の訃報の直後に行われており、正確にはこの場はその発表の場である。神弟達で話し合うなど時間の無駄だからだ。神は時間の浪費を嫌う。時間とはすなわち人生であり、人生を余さず豊かに過ごすことは神の教えなのだ。
ネビュラ地区の大神仕様が「それでは」と声を上げ、その場に立ち上がる。手にしている羊皮紙には、次代の神仕の名が書かれているのだろう。閉じられていた羊皮紙を開き、読み上げたその名は、ある天使の名。心を砕く自己犠牲の天使、カッサンドラ。その名を授かったのは、私。嗚呼、その名は私の名、次代の神仕は私である。
ふと感じた視線の方を向けば、ロワール大地区の大神仕様が微笑んでいた。あの日と同じ、仄暗く緩やかな笑み。真綿のように、優しい夜のようなその笑み。緩く口角があがり、一番星のように輝く瞳。私は笑みを返せなかった。勘付いてしまった、ロワール大地区の大神仕様がこの場に来た理由。私一人にしか分からないその理由。きっと、きっと先代の神仕様は病などではなかったのだ。
教会組織も結局はただの組織であるから、私がネビュラ地区の大神仕様、ひいてはロワール大地区の大神仕様に反対することなどできない。私は神仕の命を受けた。三人の神弟は拍手をし、讃えてくれたけれど、素直に喜ぶことはできなかった。神よ、これは貴方様がお与えになった試練なのでしょうか。
私は棲家を鳥蝶の教会に移し、そこで神仕を務める。鳥蝶の教会は、ネビュラ地区で最も大きく、荘厳というより華美の言葉が似合う教会である。教会内の至る所に壁画が描かれ、柱や窓枠は金を用い、細やかで豪奢な装飾が施されている。祭壇や並ぶ長椅子にも微細な宝石が埋め込まれており、手織りのレースが掛けられている。教会の庭では季節を問わず花が咲き、薔薇のアーチや池に浮かぶ睡蓮を楽しむことができる。観光客も多く、その分寄付金も潤っている。私が今までいた教会はどちらかいうと質素な教会だったので、着任してしばらくは踵が浮いたような状態だった。
神仕になると、祭儀での聖書研究や讃美歌の演奏など信者と直接関わることは基本的になくなる。神仕の主な仕事は、神弟と教区の管理になる。しかし神仕にとって最重要事項は、仕事ではない。勿論、神から賜った仕事を蔑ろにするわけではないが、より神にお仕えしたいと望むのであれば、神官職にも就くべきである。明文化はされていないが、大神仕になるには神官職を兼ねるのが通例。神官職に就いていなくても大神仕にはなれるが、彼等は神教司皇になることはない。神教司皇は、神に最も近い存在。大神仕以下だけでなく神官をも束ねる必要があるのだ。
私は偉くなりたいとも、昇級したいとも思ったことはない。ただひたすらに、神にお仕えしたい、神のお役に立ちたい、その一心で務めを果たしてきた。そんな私が神仕にまでなったのである。そこに後ろ暗い思惑があったとしても、神のお導きに他ならない。神は私にもっと精進せよ、とおっしゃっているのだ。私は、大神仕を目指そう。
神官の仕事も根本は、神弟や神仕と代わりはしない。けれど神官は政治に関わる仕事。いくら神職とはいえ、政治を全く知らないでいるわけにはいかない。私は神仕になったその日から、政治や政治に関わる全てについて勉強を始めた。
神官になるのは、そう容易いことではない。神弟や神仕になるのと違って試験がある。その上、試験に合格しさえすればなれるというものでもない。大神仕への昇級の決まっているものは自動的に神官としても採用されるが、それ以外の者は試験に合格しても空きがなければ、合格後、即時採用とはならない。また試験がひどく難しいらしく、聖書の暗記は勿論、国の歴史や地理にも通じていなければならない。試験は年に一回しかなく、十年挑み続けて結局合格できず、神官にも大神仕にもなれなかった者もいるという。あるいは便宜を図ってもらい、いわゆる裏口採用された者もいると聞く。どちらにせよ一朝一夕でどうにかなるものではない。
神弟や神仕は、教区単位での職になるが、大神仕様や神髄卿は国単位での職になる。神髄卿は王都から出ることはなく、大神仕様も教区に用があるときしかいらっしゃらない。しかし、ロワール大地区の大神仕様は、よく私を訪れた。自らが治める教区でないにも関わらず。私の神官になるための勉強の面倒を見たり、職務についての相談を受けたりしてくださった。あの薄暗い笑みからよくない印象を抱いていたが、実際はどうだろう。なんと慈悲深く、愛に満ちた方なのだろうか。私には父親がいないが、おそらく父とはロワール大地区の大神仕様のような方なのだろう。誤った印象を抱いた私は、恥ずべきだ。毎晩、就寝前に神にお許しを祈った。
やはり私は神仕になるには、若すぎたようだ。けれど、職務に真摯に向き合う姿に感銘を受け、ロワール大地区の大神仕様自ら私をご指名になったらしい。なんと喜ばしく誇らしいことか。なんとお心深き方か。神よ、このお方に祝福を、ご加護をお授けください。
神仕に就いた翌年、私は神官の試験に合格することができた。生憎、席に空きはなく神官として採用されなかったが、成績優秀だった私は次に空きができたとき、優先的に採用してもらえることとなった。ロワール大地区の大神仕様も口添えをしていただいたらしい。全ては神と、ロワール大地区の大神仕様のおかげ。大神仕様が、神教司皇になった暁には、誠心誠意彼にお仕えし、神のお役に立つと誓った。
結局神官になれたのは、試験合格の三年後だった。空き自体はもっと早くできていたが、ちょうど他教区の大神仕の昇級が重なってしまい、なかなか空きができなかったのだ。
神官職に就いてからは、月の半分は王都で働き、残り半分をネビュラ地区で働くという生活をしていた。神仕と神官を兼ねている者にのみ施される特別処置らしく、期間も王都との距離で決めているそうだ。ネビュラ地区からは丸二日もあれば往ける距離であるから、半月毎であるそうだ。
神官として勤め始めてから、四年後の冬、ある神髄卿がお亡くなりになった。かなりご高齢の方で、十年以上前からいつお亡くなりになってもおかしくない、と言われていた方だった。
彼女は神髄卿として長く神と神教司皇にお仕えした方だったから、葬式は大々的に行われた。神教司皇と神髄卿のみならず、全ての神官も――彼女は神官出身の神髄卿であった――参列した。王家の花である百合、白百合の敷かれた棺で眠る彼女は、大勢の人に囲まれて神の御許へ旅立った。
神髄卿の人数は古くから決まっている。神に次ぐ地位にいらっしゃる聖天使の人数にちなみ、九人である。彼女の死によって、一人分空席になった。
神髄卿は信者であれば、誰にでもなれる。正確には誰でもいいわけではないが、大神仕や神官である必要はない。ただ神仕や大神仕とは違い、暫定的に誰かを据える措置をしなくても済む職務である。新たな神髄卿の選定は、毎回一月以上はかかる。
その日は、王都の神殿にいた。神官として勤めてる半月の期間だった。
「カッサンドラ、呼ばれていますよ」
直属の上司が私を呼ぶ。御用を伺えば、彼は神妙な顔で、聖カンパネラ教会に向かうように告げてきた。そこは大神仕様方のお勤め先だ。何かよからぬことが起きるのだと、彼の表情が語っていた。
私は大急ぎで聖カンパネラ教会に向かった。聖カンパネラ教会と神殿、王宮は正三角形を描くように配置されている。それも近隣にあるわけではなく、それなりの距離をもった正三角形である。人間の足では、どう頑張っても小一時間かかる。
聖カンパネラ教会に着けば、通されたのはロワール大地区の大神仕様のお部屋だった。大神仕様の年齢、功績を考えれば、どんな御用かは想像がつく。深呼吸をして、扉を叩いた。
「お入り」
大神仕様の、お優しい声がする。「失礼いたします」私はそう言って入室する。大神仕様は、扉に背を向け、窓の外を見ていた。視線はおそらく王宮。
大神仕様が振り向く。逆光で表情を窺い知ることは叶わない。けれど、微笑んでいるのは雰囲気から読み取れる。
「聖ツヴィンゲル神髄卿の選定が終わったのは」
「……風の噂に」
先代の神髄卿の葬式の後、直近の満月の日から数えて一月ほど選定をしており、数日前にようやく終わった、と噂されていた。
「私が、その冠を拝することとなった」
流れる雲が太陽を隠し、日光を遮る。暗かった大神仕様の表情が、はっきりと見て取れる。あの、例の、薄闇の微笑み。彼が、次に口にしようとしている言葉が、心に浮かぶ。でも、まだ聞きたくない。不安と歓喜がない交ぜになって、私を襲う。
「では、ロワール大地区の大神仕の御役目は」
「無論、下りることとなった。今後はより神の御傍で、お仕えしていく」
「しかし、神髄卿は神教司皇にはなれません」
「それはよいのだ。私は元々神教司皇になる気も、大神仕になる気もなかったのだ。ただ人々が心安らかに暮らすため、神のお役に立てればよかっただけなのだ」
尊いお言葉だ。なんと清らかな方なのだろうか。私が彼に適うはずがない。何年経とうと、彼を超えることなどできない。
「私にお話しとは」
息を呑む。雲が流され、再び太陽が現れる。大神仕様の表情は、また見えなくなる。
「神髄卿の選定の後、他の大神仕とも話し合い、次のロワール大地区の大神仕が選ばれた。……カッサンドラ、君だ」
一呼吸おいて、私の名が告げられる。まだ早すぎる、という恐怖と、遂にこのときが来た、という狂喜が膨らんでいく。頭の理解に、心の理解が追い付かない。なんと答えるべきか、言葉が舌の上で踊る。
「君は、驚くほど信心深く、仕事にも熱心だ。慈悲深く、他者に心を砕くことができる。また賢く、神官としても非常に優秀と聞いている。年齢はまだ若すぎるが、それを補うだけの有り余る敬虔さがある。私が君を推薦したとき、反対する者は誰もいなかった」
大神仕様のおっしゃる通り、私は大神仕になるには若すぎる。そもそも神仕になったときでさえ、若いと言われていたのだから当然だ。けれど、ロワール大地区の大神仕様や、他の大神仕様方は、私の働きを認めてくださった。私が心を、魂を込めて神にお仕えしていることが、認められたのだ。神が私を導いてくださっている、より高みへ登れるように。ああ、神よ、私はこの身、この命、この魂を貴方に捧げると誓いましょう。
心が解され、踊りを止めた言葉が唇から放たれる。
「そのお役目、有難くお受けいたします」
大神仕様が、聖ツヴィンゲル神髄卿が、微笑んでいた。
翌々日にはネビュラ地区に舞い戻り、支度を始めた。身辺整理に合わせて、次代の神仕の選定や引き継ぎをしなければならない。正式に大神仕に就くのは、二週間後。それまでに全てを終わらせ、王都に戻っていなければならない。浮かれている場合ではない。
帰還の翌日、ネビュラ地区の大神仕様が到着なされた。私が任を受けたと聞き、すぐにネビュラ地区に向かってくださったそうだ。彼も、私を讃えてくださった。
こういうときのために、各教会の神弟達の勤務態度についてはまとめてある。大神仕様と私で、書類を見て話し合いながら、神仕の選定を進める。引き継ぎのことを考えれば、時間はあまりない。
選ばれたのは、鉱燃の神弟。私が神仕に就いた後に、私が神弟に任命した者だ。私のように若すぎる、ということもなく敬虔なよい神弟である。
叙任式が終わり次第、仕事を引き継ぎ、私はネビュラ地区を去った。元々孤児で、教会にしか住んだことのない私の荷物は少ない。衣服と書物がいくつか、あとは聖書など仕事に関わるものだけだ。
聖カンパネラ教会の、私の、ロワール大地区の大神仕に与えられる部屋が、この日から私の棲家となった。私室には天蓋付きの豪華なベッド、大理石の机、マホガニー製の椅子。クローゼットの容量は大きく、ガラス戸のついた本棚も立派だ。部屋は白を基調としており、大きな窓から入り込む日光で眩しくさえある。書斎の本棚には、歴史書などがずらりと並び、書斎机には羽ペンやインクなどが一式揃っている。来客用のソファは革張りで、机はガラスでできている。決して豪華絢爛ではないが、質のよい家具が揃えられている。私には、もったいないほどのよい部屋。けれど大神仕の代表ともいえる、ロワール大地区の大神仕にはふさわしい部屋だ。
私の叙任式は、聖ツヴィンゲル神髄卿の叙任式の後に行われた。大神仕の叙任は、神教司皇が行い、王家の方々も出席なされる。ご多忙な方々に何度もご足労願うわけにはいかないので、まとめて行われた。
王宮内の教会には、豪華絢爛さも、細密な壁画も美しいステンドグラスもない。厳めしい石造りでもなければ、素朴な木造でもない。柱から床まで全てが大理石で造られ、パイプオルガンでさえ月白色をしている。冷淡さすら感じさせるその造りが、緊張感を放つ。
神教司皇の前に跪き、手を組み、頭を垂れる。
「ネビュラ地区の神仕カッサンドラよ。太陽の微笑む今日この日より、ロワール大地区の大神仕の任を与える。慈愛の心と、その尊き敬虔さをもって、さらに神にお仕えすることを望みます」
神笏が両肩と頭を撫でていく。心が洗われ、身が清らかになっていく。ロワール大地区の大神仕に相応の心体に。神よ、貴方のお役に立つことこそが私の喜び。何度でも誓いましょう、生涯を貴方に捧げることを。
大神仕にもなると、信者と接する機会は年に数回あるかどうかになる。神仕の仕事が神弟の管理であるように、大神仕の仕事は神仕の管理および自らの治める教区の管理になる。特にロワール大地区の大神仕は自らの教区以外についても把握していなければならない。実際の大神仕には教区ごとの権力差はないが、ロワール大地区の大神仕は慣例的に大神仕の代表として扱われるから、何か事件が起きたときはロワール大地区の大神仕が呼ばれる。
大神仕になると神官の職務内容も変わる。神官として昇級はしないが、これまでは祭礼の支度や巫女の世話が中心だったが、今後は神託の管理が中心になる。神官より大神仕の仕事の方が優先されるようになるのだ。私が神殿に出向くのは週に一度に減った。
大神仕の仕事として、最も認知されているのは年に一度の視察だ。自教区内の教会だけでなく、近隣の教区の視察にも行くので、平均的に三から四つの教区を見て回ることになる。ロワール大地区の大神仕になって知ったが、ロワール大地区の大神仕だけは、自教区内と近隣の教区に加え、それ以外の教区からも一つ行くことになっていた。十年程前に昼星の教会を訪れたのは、その一つに選ばれたからだったようだ。
私の初めての視察に選ばれたのはマリオン大地区だった。海岸沿い一帯の細長い大教区で、漁業が盛んな教区だ。マリオン大地区の隣のトロルト地区を含むニ地区の大神仕と、その近隣のマニ=アマット地区を含む三地区の大神仕、そしてマリオン大地区の大神仕の四人で視察をする。
選出されたのは海針の教会だった。海辺の切り立った崖に建つ教会だ。そう大きくはないが、灯台を兼ねる教会として一部の観光客には人気がある。海風に浸食された白塗りの壁が、風情を感じさせるとも言われる。
教会の周囲には白い小花が咲いており、可愛らしさを感じる。噂の通り、海風がひどいのか白い壁はところどころ地が見えている。本来なら鐘や時計があるだろう塔は、灯台になっていた。
教会は木造で、祭壇や長椅子も木製だ。あまり大きくない教会は、私の育った深森の教会を思い出させる。パイプオルガンもなく、家庭用らしきオルガンが置かれているだけだ。
祭壇や長椅子にかけられたなレース編みと刺繍が目を引く。マリオン大地区の、特に漁業が盛んな地域では、男が海に出ている間、女は編み物や刺繍をしているという。その緻密で美しい模様は、国内でも有名だ。
「素晴らしい刺繍ですね」
思わず手にとった刺繍は、薄青の薔薇と淡緑のかすみ草の描かれたものだった。花と花との間を小鳥が飛び交う、愛らしく美しい刺繍だ。デザインそのものも可憐であるが、それ以上に細やかで丁寧に施された刺繍が素晴らしい。素人目にも、これを刺した人間の技術の高さが分かる。
「そちらは、去年助弟になった者が刺したものです。これ以外にも教会内のほとんどの刺繍とレースを、彼が編みました」
海針の神弟が、そういって助弟を呼ぶ。連れてこられたのは、少年だった。十五歳くらいだろうか、助弟の服を着て照れくさそうに笑っている。
「見事な刺繍の腕前ですね」
「ありがとうございます。母親に叩き込まれていて。神だけでなく、地域の方々のお心を癒せるように、心を込めて刺しています」
「よい心がけです。これからも精進するように」
そう声をかければ、少年は礼を言った。凪いだ海のように、穏やかな笑みを浮かべていた。彼に似た、笑みだった。
神教司皇に選ばれるのは、神髄卿同様、それなりに年齢と経験を重ねた大神仕である。だが神髄卿以上に、長い経験の中で何をしてきたかが問われる。世間でいう奇跡を起こしたこと、多くの人を救ったこと、年数より経験そのものが問われる。
神髄卿と選定の方法も異なる。神髄卿の選定は在職の神髄卿と大神仕が集められ、神仕や神官も含めた信者すべてから選定される。昼夜問わず選定は進められるが、候補の多さから一月以上かかってしまう。しかし神教司皇の選定は、大神仕の中からしか選ばれず、選定も夜間のみ行われる。神教司皇の選定は神仕や神弟ほどでないにせよ急がれるものであるが、儀式的な側面から夜間にのみ行われる。その上、選定者も候補者も大神仕であるから、中々選定は終わらず、どう急いでも三晩はかかる。その間の大神仕の仕事は、九人の神教司皇が代わりになっている。
現神教司皇は、先代の聖ツヴィンゲル神髄卿と同年代の方である。彼女とは違い、お年を召してからも精力的に活動なさっており、まだ神はお呼びにならないだろうと言われていた。
どこかの国の王は、死ぬまで退位できないと聞く。しかし神教司皇は、自ら退位を願い出ることができる。つまり、親族が問題を起こしたときは辞任を迫られるのである。
子ども――十四歳以下が対象である――は慈悲で以て愛すべき存在であり、性愛の対象ではない、というのが神の教えである。心の中を見ることはできないため、現実には、実際に手を出すと処罰の対象になる。処罰は信者の方が重く、その地位が高ければ高いだけ厳しいものとなる。けれど、特にこういった恋愛感情や性愛の絡んでくる問題は解決されることなく、昔から在り続けている。
私が四十四の頃――ロワール大地区の大神仕になって九年目のこと――幾人かの妊婦が惨殺される事件が起きた。妊婦は誰もが十五歳程度のうら若き少女であった。事件の残虐性、被害者の若さから、世間の反響は大きかった。私達聖職者は、毎日のように祈ったが中々犯人は捕まらなかった。
犯人が捕まったのは、初めて事件が起きた日から、十月十日経った頃だった。犯人は私と同じ年頃の男で、小児性愛者だった。
死刑囚の最後の懺悔を聞くのも、聖職者の仕事であるが、進んでこの仕事をする者は少ない。死刑囚とは、大抵恐ろしいものだからである。
ロワール大地区の神仕や神弟は他地区と比較して、歳を重ねたものが多いが、それでも神仕や神弟のほとんどは私より若い。年若の者に、彼のような非道な者の懺悔を聞かせるのは酷だろう。他の者達の心の安寧を考え、私が懺悔を聞くことにした。
それは悔い、というより譫言に近かった。殺すだけでなく、妊娠するまで無理矢理襲ったのも彼だという。彼はある男を愛していたが血の繋がりがある上、その男は神仕以上の地位におり、結婚することはできなかった。それでも彼との子どもを望んだが、どちらも男であったため、少女達に子どもを産ませ、その中から彼に似た子どもを育てるつもりだった。自分が母親になり、少女達は不要だったため天に還した。彼の譫言をまとめると、およそこのような感じであった。一つ付け加えるなら、おそらくその聖職者は、彼に求められていることは知らなかっただろう。その聖職者が真にどのような方か、知っている。私だけではない、多くの者が彼のことを知っている。
犯人の首が刎ねられる前日には、秘かに新たな神教司皇の選定は始められていた。神教司皇の辞任は明らかである。公にはせずとも、選定を始めることはままあったそうだ。
一番星が輝く頃、聖カンパネラ教会の地下の一室に大神仕が集まり選定を行う。神教司皇になる条件は、四分の三以上の投票があること。現在は十七人の大神仕がいるため十三人の投票がなければならないが、これが難しい。表立ってはいないが大神仕にも派閥があり、それぞれ派閥で推している人間に投票する。全員で十七人しかいないので、派閥がある時点で十三人の票を集めるのは困難を極める。
ロワール大地区の大神仕は、大抵派閥を作られ、投票の対象になる。年齢より経験(あるいは立場または己の利益)を重視されるため、神教司皇には若すぎる私にも票が入る。
結局決まったのは、神教司皇が辞任してから三日後だった。神教司皇が辞任の意を示し、除任式も終えてからだったため、三日ほど神教司皇の座が空いていた。二週間弱かかったが、歴史的には早い方だったようだ。
その晩のことはよく覚えている。星明かりだけの、月のない夜だった。地下の封鎖された空間で、ろうそくの光を頼りに十七人の人間が顔をあわせている。
いつも通りに票をいれ、誰か一人が開票作業を行う。目の前で行われるから、不正は起きない。名前を呼ばれ、用意された石版に数が刻まれていく。一人、二人、三人……。十一人を超えたところでどよめく、今まで十人の超えたことがなかったのに。そして十二、十三と続いていく。
結果は十五対一対一。反対したのはビズ大地区の大神仕とヌ地区を含む九地区の大神仕だけ。
読み上げられた名は、ロワール。遂に、終に、このときが来た。私は高みへ登りつめた、頂きに立った。神に最も近い存在になったのだ。