令嬢と音楽
所々欠けた平垣は古風に見えもするが、趣があるともいえる。
その平垣に囲まれた家は、ある程度の年月を感じさせるように蔦が屋根まで伸びていた。
正門から伸びる道の周囲には、整えられた芝と、訪れた人の目を惹くように左右に花を植えている。
華美すぎず、寂びすぎず、丁重に整えられた邸宅がそこにはあった。
塀の外を歩く住人たちの耳に、調子の外れた音色が聴こえてくる。
何事かと首を回し家の見るものは他所からこの町に来た者。
家を見たとしても、またかと笑みを浮かべるものはこの町の者。
笑って聞き流すのは、近所の者。
そんな穏やかな風景を周囲に作りながら、その音色は響いていた。
森の中に居られるようにとの思いで作られた部屋は、訪れたものを落ち着かせる。
庭に面した個所は、大きな一枚の窓が張られ、そこから差し込む陽光が身と心を温かくしてくれる。
薄い緑色を基調としたその部屋の壁に向かって、本来は穏やかな曲調の曲が乱射されていた。
静かに進むはずの出だしから、一音だけ甲高い音が入り、しかも強い。
それが壁に刺さり、部屋の中を飛び回り、聴いている者の耳へ滑り込む。
出だしからその形で、中盤に入るころには乱れ打ちに近い。
丁寧に弾かれ、綺麗に纏まりかけた箇所もあり、ゆえに余計にずれる箇所が悪目立ちする。
そんな調子の外れた音が部屋に木霊し、弾いている者、部屋で聴いている者、邸宅の外で聴かされている者。
それぞれにそれぞれの思いと表情をしながら、曲は終盤へと進んでいった。
部屋の中では、ブロンドの見事な髪を持つ小柄な少女がピアノに向かい合っている。
懸命に引く小さな手と、小さな体。
必死を体現するかのような真剣な表情で少女は弾き続け、それを聴いている者はとても穏やかに少女を見守っていた。
調子の外れた音を奏でている少女の名は、リィントルテ・ウルム・エルフィーヤという。
最後の一音すらも少しずれたタイミングで押し、エルは鍵盤から手を放した。
ふぅと小さな息を吐き、どう?と伺うようにくるりと顔を向ける。
「調子のズレた音色でしたね、エル様」
得意満面な表情をしているエルに放たれた言葉は、実に真実だったが、実に辛辣でもあった。
「な、なによぅ」
今度こそと気合を入れて臨んだ発表会。という名のお披露目。という名の練習会。
そのほぼ毎日繰り返される発表会にて、エルが望んだ拍手喝采とはならず、思わず唇を尖らせる。
辛辣な真実を口にした侍女ケリーは、微笑を称えながらエルに助言した。
「お嬢様には音楽の才能が欠片もないと見受けられますので、
とっととやめて別のことに時間を使われては如何でしょう。
例えばそうですね、歌など―――」
「いいぃぃーーーーーーーーーーやっ」
ケリーの言葉に被せるように、エルは十分に溜めのこもった拒否をした。
そしてピアノに備え付けられた椅子から跳ね飛ぶように降り、腰に手をあて指をひとつピンと立てる仕草で声高々にエルは言う。
「わたしが。いい?わたしがしたいのはこのピアノなのっ
誰が歌なんて唄うものですか。
大体ねぇこの前の晩餐会だって皇妃様のご希望がなければ、ぜぇーったい唄わなかったわ」
抗議の声を上げながら部屋の中ほどにあるソファーへと進み、ドカッとおっさんのように腰を下ろす。
そして床に僅かに届かない足をバタつかせる。
ケリーはもったいないと万感の思いを込めて言った。
「しかしお嬢様。このウルグストス皇国広しといえど、お嬢様の歌に勝る者が居りませぬ。
確かにお嬢様のお好みはピアノであると理解は致しますが……。
それでも皇妃様のみならず。皇太子殿下ならび貴族の皆様方、
さらには周辺諸国、海を隔てた諸外国の皆様方までがお嬢様の歌を熱望されておりますのに」
「もう、ケリーはうるさい」
テーブルの上にある洋菓子をつまみながら、エルはケリーの言葉を聞かないふりをした。
エルに分かるように溜息をついたケリーが入れてくれた紅茶は、いつも通りの良い味がした。
ウルグストス皇国の歴史は古い。
現存する皇国史からは、500年分の系図が記されている。
だがそれ以前から皇国は在るとされ、その存在を示す文書がいくつか見つかっている。
それらの文書は諸外国。とくに最古の歴史を誇るグリートス聖教国が保管しているものであり。
皇国内に500年以前の文書は公的には存在しない。
皇国歴512年。
リィントルテ・ウルム・エルフィーヤという少女の物語はここから始まる。
皇妃エルガノ・ウルグ・フィーリアは大の歌好きである。
皇王が亡くなり、皇妃フィーリアが代皇して治める現在のウルグストス皇国。
皇太子エルガノ・ウルグ・トゥバンが成人となるまで後3年余り。
準成人の立太子の儀を終え、その晩餐会を開いたのが三月前。
皇妃の強い要望で、エルはその晩餐会で歌を披露することになっていた。
藍色のドレスに身を包んだエルは、晩餐会の隅で一人やさぐれていた。
やさぐれているその姿は、壁と向かい合い、語り合う、さながら酔っ払いといえる姿だった。
「……はぁ」
まだ飲酒の許される年齢ではないため、手に持った飲み物は果実をすり下ろし蜂蜜とレモンで味を調えた、
ウルグストス自慢のフルーツティー。
「……はぁぁ」
仕事明けの役人が酒場で飲み始めたような雰囲気が壁の一角に出来上がりつつある。
そんな見事な中年臭を醸し出しながらゴクゴクと喉の音を響かせる。
「……はあぁぁ」
飲んだ後の勢いのある溜息は、二杯目、三杯目と進むうちに大きくなっていく。
代わりを持ち運ぶ給仕役の執事の「御代わりは」の台詞が徐々に引き攣ったものへと変わり、困ったような表情になっていく。
が、そこはさすが給仕のプロ、皇室の式典へ出てくるだけあって、鍛えられた者たちばかりだ。
目配り、気配り、心配り。
そんな三原則を忠実に実行しながら、給仕役の執事はエルへと杯を届け続けた。
溜息と、ヤケ酒の友よ!と壁と肩を組むように飲み続けるエル。
そのすぐ傍、視界に必ず入る位置だが、声は大きめに話さなければ届かない。
そんな絶妙な距離をとり、グラスが空に近づくたびに、エルに「御代わりは」と問いかけ続ける執事。
そのやり取りを遠目で見ている者。クスリと笑みを零す者。そもそも視界にすら入れていない者。
様々な思惑が複雑に絡み合っている晩餐会にあって、エルはただただ憂鬱な気分だった。
「ねぇエル。お願いがあるのよ」
整えられすぎた穏やかな笑みとともに、皇妃様はおっしゃった。
「わたくし貴方の歌がとても好きなの」
知っているでしょう。と言葉とともに肩に手を置かれる。
「今度のトゥバン立太子の儀での晩餐会で、歌を歌ってほしいわ」
三曲は絶対よ。と両肩に手を置かれる。
「そうねぇ。晩餐会だから……静かな曲から、雄大で響く曲。そうね、外殿は天井が高いから…うーん」
ゆさゆさと揺さぶられながら次第に抱き枕のように、皇妃の胸にすっぽりと抱きしめられてしまう。
しかも胸元に抱き寄せるときに、クルリと回され背後から抱きしめられる謎な技術のおまけつき。
―――リィントルテ公爵令嬢。リィントルテ・ウルム・エルフィーヤに代皇様より至急の参内せよとの令が下りました。
―――リィントルテ・ウルム・エルフィーヤ。謹んで拝命いたします。急ぎ参上いたしますので、身支度にしばしお時間を頂けますようお願い申し上げます。
急に家に来た衛兵に伝えられた言葉に驚いたまま、答えを返し、そして今に至る。
以前、皇妃様の生誕のお祝いにと、歌ったときからたまにこんなことがある。
「ねぇエル。いい案でしょ?」
嬉しそうに、わたし抱きしめたまま皇妃様はそうおっしゃった。
「はい。そうですね」
礼節が抜け落ちた乾いた返事にも、皇妃様は嬉しそうに「まぁ。平坦な返事も可愛いわねぇ」と気にも留めない。
むしろ周囲に立っている皇族専門の侍女さんたちのもの言いたげな視線が怖い。
そんなこんなで。
わたしは今とても憂鬱な気分で壁と向かい合っていた。
皇妃様のご希望は簡単だ。
とても簡単。
皇太子となったトゥバン様の挨拶が終わり、乾杯の音頭ともに晩餐会は始まる。
始まった晩餐会では多くの会談と挨拶、思惑と欲望が入り乱れる。
慶事を祝うより、今後の欲得。
立食の開始を告げる7時の鐘に合わせ、わたしが歌いだすというのが皇妃様の計画だ。
伴奏もなく、開幕を告げる声もない。
唐突に始まり、劇的にせよという。
無茶を言うなと眉間に皺がよる話だけれども、皇妃様たっての頼みという命令では仕方ない。
五杯目のグラスを開け、壁からスッと離れる。
両手を広げ。
背を伸ばし。
少し顎を上に向け。
高い高い天井が目に入る。
フッっと息を吸って。
さぁ、わたしの劇の開幕だ。
―――――――――・~~・―――・・~
出席した全ての人がその歌声に動きを止めた。
伴奏もなく唐突に響いてきたその声は、晩餐会の会場となったグラシア外殿の高い天井まで登り、天窓に反射して人々へと降り注ぐ。
~~~・・――・――――・~~・――
片手に葡萄酒を持った貴族も、立食をしていた隣国の外交官も、給仕をしていた侍女も執事も。
起こしていた行動も密談も、息すらしていることを忘れるほどに、エルの歌声に一瞬で魅了されていた。
――――
小さい体に大きく伸びやかな声。
~~~・―――――
見事なブロンドヘアーに、大人しい藍色のドレスが似合っている。
―・―・―――
ゆっくりと晩餐会の会場を歩き、周囲の人達に笑顔を見せながら。
―――――・~~・――――――
晩餐会の奥、皇妃フィーリアの玉座の前。
その玉座への階段の一段目に膝をつき、頭を下げ、右手を胸に、左手は床に。
二呼吸ほど歌が止まる。
僅かな静寂のあとに、エルは天井に向かって頭を上げ、その小さな体から出せるすべてを天に向かって吐き出した。
――――――――――――――――――っ
万雷の拍手は、一拍どころか三拍は遅れてやってきた。
まるで劇場でのスタンディングオベーションのように、止むことのない拍手に埋もれながら。
失礼にならぬよう、皇妃様へと頭を下げつつその場で回り参加者の皆様へと一礼。
再び回り、目線を上げ、皇妃様と一度目線を合わせる。
「見事」
短く確かな讃辞を頂き、そこで皇妃様へと一礼。
「リィントルテ・ウルム・エルフィーヤ」
「はい」
「次曲は余の希望で構わぬか?」
すこし砕けた口調で皇妃様がおっしゃる。
頭を下げた状態の見えないわたしの口元も緩む。
「ご希望がございましたらなんなりと」
「そうか。では―――」
その日の晩餐会に出席した者たちは、次の日の職務中でも、その次の日の家の中でも、
しばらくの間は話題に事欠かかなかったという。
かくて歌姫の物語は始まり。
そして歌姫になりたくない少女の物語も、また始まった。