房総の夏
5人と満里は房総の夏を思いっきり遊んだ。いや、4人と満里、かな。
海に浮かび、波と戯れ、浜を駆け回り、お腹が空いたら梅男の家族が営む海の家で思い思いの食べ物をご馳走になり、疲れたら砂浜に立てたビーチパラソルの下で横になる。
「ね、ねぇ」
「いや〜、房総の夏だねぇ」ビーチチェアに横たわる梅男は、奈津の呼びかけに答える代わりに大きく伸びをする。
「房総の夏は日本の夏だねぇ」風流だがよく聞くと実はよくわからない相槌をうつ富田。
深い紺碧色の海は緩やかにさざなみ、飽きることなく繰り返し押し寄せる波は地球の鼓動を感じさせる。
人が密集する海辺から少し沖を見ると、晴、紺、満里の三人がゴムボートに乗り静かにうねる波間を漂っている。
「ね、そろそろ出してくれない?」奈津は横になりながら顔だけ梅男と富田の方に向けている。
「なんか、レモンジュース一気飲みしたくね?」
「あ、俺も今そう思ってた」
「レモンって、太陽のフルーツなのかもな」
「絶対そうだよ。だって太陽浴びると飲みたくなるもん」
「おし、一本行っとく?」梅男は勢い良く立ち上がると、海の家に向かって走り出す。
「マックスも行っとく?」それに続いて富田も少し出た腹を揺らしながら走っていく。
「あ、ねぇ、ちょっと!」
奈津が梅男と富田を追いかけようとする。が、2人を追いかけているのはその気持ちと顔だけ。
奈津の叫びは目に痛いくらいの青い夏の空に虚しく吸い込まれていった。
「きゃー!やったー!」
こちらは沖のゴムボートの上。
晴と満里がパー。紺がチョキ。先ほどのゴムボート・ジャンケンに負けた紺は、海に入りゴムボートをバタ足で漕ぎ始める。
「こりゃぁ、、、」
当分出られそうに無い。
奈津の額を伝って汗が滑り落ち、砂浜に染み込んで行く。
奈津は体の上に覆いかぶさる砂の山で身動きが取れなくなっている。
限度というものを知らない梅男達に埋められ、その上には世間でお馴染み青い2頭身の猫型キャラクターが築かれた。
太陽に焼き付けられ、加熱された砂浜を足早に通り過ぎていく海水浴客。
その海水浴客達が通り過ぎる度に、奈津は得体の知れないようなものを見るような目で見られ、時には失笑され、時には子供たちのおもちゃとなっていくのであった。
■
「奈津、いつまでそこにいるのよ」
満里の声で、奈津は目を開ける。青い空の真ん中に、満里の顔が浮かんでいた。
好きでこんなことしてると思われてるのだろうか。
満里は黄色い生地にヒマワリの絵が施されたビキニを身に付けている。先ほど那美に借りた水着だ。
あのグレープフルーツ泥棒 那美の水着がぴったり合うなんて、知り合ってから10年近く経つが意外な発見だった。
奈津は膝を抱えて顔の傍らにしゃがみ込む満里の方に顔を向けることはできなかった。
「あれ、奈津もういいの?遠慮しないでもっとゆっくり楽しんでればいいのに」
奈津が掘り出されたところに梅男が通りかかった。手には俄かに薄黄色に染まった液体の入ったペットボトル。
奈津は先ほどの梅男と富田の会話を思い出す。レモンジュース!
「あ」
短く声を出した梅男。奈津は梅男からペットボトルを奪い取り、勢い良く口に含む。
奈津は一瞬動きを止めると、含んだ時以上の勢いで液体を吐き出した。
「ぶー!」
■
「ちょっと梅男、何であんなもん持ってんのよ」
レモンスジュースを取りに行った梅男は、厨房で切らしてしまった酢を隣の海の家から調達して戻る途中だった。
「しょうがねえだろ。おれん家で切らしちゃったからお隣さんにもらってきたんだよ」
夏の稼ぎ時に家の手伝いを免除してもらっている手前、梅男はお使いを はいはい と素直に引き受けた。
先ほどまで真上から照り付けていた太陽は、やや角度を緩めて浜辺を照らす。
刺すような日差しやゆらゆらと漂う熱気は少し優しさを帯びていた。
奈津はまたもや砂浜の上に横たわっている。海水を飲むと死んでしまうという話を思い出す。お酢はどうなんだろうか。すぐ吐き出したから大丈夫だよね。と自分に言い聞かせる。
青空を見上げながら過ごす夏。
声をあげ、走り回りながら過ごす夏。
波と戯れながら過ごす夏。
甘酸っぱい夏。奈津の場合、酸っぱいだけだが。
夢のような時間はあっという間に過ぎていく。
■
「いやー、食った食った」
「ほんと、あんた食べすぎじゃない?」
腹をさする富田に満里が言う。
「百貫デブだからな」梅男。
「百貫もないわ!」百貫が何Kgあるのかはわからないが、デブの部分は否定しない富田。
夕暮れまで海で遊んだ6人は、今度は紺が家族で経営する民宿「安房」にお世話になる。
民宿安房は、一見すると普通の民家と変わらない佇まい。しかしおもてなしも温かく、アットホームな民宿だ。
海水浴場から歩いて5分、水着で海へ行ってそのまま帰ってこれる好立地。
梅男の海の家で遊び、紺の民宿で泊まり、信が獲ってきた魚を富田の父親が調理する。そしてその料理が今まさに6人の前に並べられた。
お金なんてかけなくてもいい。心をこめて迎えてあげる。それだけでもてなしの心というのは伝わるものなのだ。
入浴を済ませた一行は、風呂上りツヤツヤの鼻をてからせながら豪勢な夕食を平らげていた。
「夏祭りの日だったら、俺とじーちゃんで作った花火見せられたんだけどな」
1人催し物が出せなかった晴。
「ほんと残念。じゃぁ、来年は花火に合わせて来るわ」
「来年も来るの?」
「もちろん来るわよ。来年は伊勢海老が食べたいわね」
「ゲンキンなやつ」
「あら、素直って言ってよね」
満里はそう言うと、窓から外を眺める。陽はとっくに沈み、暗闇の向こうから波のうねりが聞こえてくるだけだ。
「来るわよ。来年も。再来年も。ずっと、ずっと。。。」
浜辺に打ち寄せる漣とリズムを合わせるように満里はその言葉を繰り返す。寂しそうに見えるその横顔を、奈津はぼんやりと眺めていた。
■
「痛たたた。。。」
「房総の陽射しをなめてるからだ」
布団にうつ伏せになり、呻き声を漏らす満里に梅男が言う。
真夏の太陽を一身に受け止め、満里の背中は合成着色料のふんだんに使われたウィンナーのような色になっていた。
「梅男、あんたはこっち来るんじゃないわよ」
「何もしねぇよ」
「いいから、とにかく近づかないで」
部屋の入り口から一番遠い場所の満里。その隣では、奈津が霧吹きで満里の背中に霧吹きで水をかけ、団扇で扇ぐという動作を繰り返していた。
浴衣を腰まではだけたその状況で、奈津はなるべく満里の背中を見ないように目を逸らしている。油断をすると瞼の裏に焼きついた満里の水着姿が浮かんでしまう。
「満里、いつ帰るの?」奈津の隣に自分の布団を敷きながら晴が聞く。
「明日。明日の昼くらいに出るわ」
「明日?!もう帰るの?」晴の隣でシーツを整えていた富田が手を止める。
「この部屋1週間取っちゃったよ?」富田の隣の紺。やることがいつも極端だ。
「わたしはどんだけ暇人なのよ」
「そんな急に帰るって言われたら、これも、これも、これも予定変更じゃんか」
梅男は「旅のしおり」と汚いで書かれたノートを開き、 ばんばんばん と叩きながら一番遠くの布団から満里に迫る。
満里はうつ伏せのままノートを受け取ると、ぱらぱらと開いていく。表紙には『たびのしおり』と汚い字で書かれている。
「梅男」
夏のしおりを閉じ、枕元に置く。
「どうだ。帰りたくなくなっただろ」
梅男が胸を張る。
「なんで運動会みたいになってるのよ」
隣の奈津に、スケジュールの一部がちらっと目に入った。ビーチフラッグ、ビーチバレーから始まり、ビーチ騎馬戦だとか、ビーチ棒倒しとかいう文字があったような無かったような。
「梅男、0点〜」
満里のダメ出しに富田が点数を付けると、他の面々も好き勝手言い始める。
「女心がわかってない」
「脳みそまで筋肉」
「筋肉生命体。。。ぐっ」
梅男が富田の背中に跨り、キャメル・クラッチを極める。富田の体が名古屋城の鯱のように美しく反る。
紺がレフェリーとなり二人の脇に滑り込むと、富田の顔を覗き込む。富田は目を白黒させながらも、首を細かく横に振る。
二人の間では、
「ギブ?ギブ?」「まだまだ、まだまだ」
というプロレスさながらのやり取りが行われているのだろう。
梅男は大げな動きでキャメル・クラッチに力をこめる。
部屋はいつもの如く動物園のような騒々しさとなる。
それは冬の雪山のペンションにいても、夏の海辺の民宿にいても変わることは無い。
ペンションで野球まがいの事を始めて大騒ぎしたときには、さすがに満里が怒鳴り込んで来たが。
「騒がしいなぁ」
今日の満里は笑い転げるでもなく、怒鳴り込むでもなく静かに微笑みながらその様子を見守っているだけだった。
「。。。ま、ちょうどいいけど」
満里が小さく付け加えた一言は、富田の悲鳴に掻き消され、奈津以外の耳には届かなかった。
ごーーーん
富田がギブアップすると、遠くの寺で鐘がなった。それはちょうど試合終了のゴングとなり、それをきっかけに部屋は静かになる。
泣いているのか、布団にうつ伏せになったままの富田を除いて5人はスケジュールを決め直す事にした。
「この、雀島って何?」
運動会の競技一覧が書き並べられた中、一際異彩を放つ「雀島探検ツアー」と書かれた項目を満里が指差す。唯一運動会っぽくないプログラム。
満里の指し示したものは、地元の住人しか知らないプライベートビーチ、「雀島」。
南国かと思うほどの情緒豊かな風景で、浜辺の写真で絵葉書を拵えてもそれが国内であると判断するのは難しく思える。
晴がその説明を進めて行くに連れ、満里の目は輝いていく。明日の予定に異論を挟む余地は無くなった。
翌日の予定が決まると、遊び疲れたのだろうそれぞれが布団に横たわり、発せられる言葉も疎らとなった。
眠ってるんだかいじけてるんだかわからない冨田。
それ以外の5人も房総の太陽光線をふんだんに吸い込み、その身を倍にして包み込む布団の中で静かな寝息を立て始めた。いや、静かでもないか。
「んがー」
「ぐがー」
■
目を開けると満里は暗い部屋の中にいた。
息苦しく、ドス黒い空気が充満している感じ。
一歩足を前に踏み出しても、進んでいる感覚は得られない。
声を出そうと腹に力を込めるが、喉は何かで栓をされたように声が出ない。
ふいに、背中に刺すような痛みを感じる。
思うように動かない体に鞭打って何とか背中を見る。ブサイクな三毛猫が満里の背中に爪を立ててぶら下がっていた。
ちょ、、、ちょっと、やだ、、、
根拠は無いが、富田の家の猫だと直感的に感じた。
振り解こうとすればするほど猫の爪は食い込み、痛みが増していく。
やだ、やだ、やだ、、、!
背中の猫と格闘していると、いつの間にか富田が目の前にいた。
知っている顔の出現に、満里は安堵し助けを求めようとする。
富田、ちょっと富田
が、富田の様子はおかしい。
気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら、黄色いペースト状の何かをバケツの中で練っている。
な、何?富田何やってるのよ
富田は練り上げられたペーストをおたまで掬い上げ、にた〜 と笑った。
「からしー!!」
■
「からしー!!」
自分の声で目を覚ます。
奈津達5人は驚いた顔で満里を見ていた。
布団の上で上半身を起こした満里は、肩で大きく呼吸をしながら周囲をゆっくりと見渡す。清々しいばかりの日差しが差し込み、窓から眺める空はどこまでも青く澄んでいる
満里は首を回し、自分の背中を見る。
猫の姿は無く、昨日身に着けた浴衣の模様が目に入る。
激しく寝返りをうったのか、背中がヒリヒリと痛んだ。
「からし、、、」
息も絶え絶えに満里が言う。
「か、からし」
満里の言葉を復唱する富田の手には、からしで真っ黄色になった納豆が糸を引いていた。
5人は既に布団を片付け、テーブルに並べられた朝食を囲み、全員が納豆をかき混ぜていた。部屋には鼻にツンと抜けるからしの香りが充満していた。
■
「満里、ほんとに帰るのか?」
ご飯に海苔を器用に巻きながら梅男が聞く。
「うん」
満里は背中に纏わる悪夢で目を覚ますと、そのまま朝食の卓に着いた。背中の痛みは日焼けというより、猫に引っ掻かれた痛みに感じられるようになっていた。
「残念だなぁ」富田は2杯目の黄色納豆をかき混ぜている。
「一ヶ月でも居てもいいのに」相変わらず極端で無謀な紺。
「私はどんだけ暇なのよ」
「じゃぁ、次会うのは冬か」晴がかき混ぜた生卵をご飯にかけながら言う。
「。。。うん」
満里はアジの開きをつついていた箸を止めて俯く。
急にトーンダウンする満里に、5人は視線を集める。
「どったの?」
様子を伺うように梅男が満里を覗き込む。
「。。。ううん」
満里が俯きながら顔を左右に振る。
「ただ。。。」
「ただ?」
「寝不足なだけ」
「ほら富田!お前のイビキがうるさいから」
「それは違う。梅男でしょ」
二人共だよ。