「魔王、人妻女戦士のお宅で晩御飯する!」
魔王は両種族のマナー教本を作る為の調査として様々な人と魔族に声をかけ、そして異種族間での恋愛をすることに対しての意識調査をしている、と話した、嘘だ。
その過程でお宅の娘さんとその他生徒と出会い、ナンパをしていると誤解され、自分の母親を紹介すると、そこで足をプラプラさせながらご満悦としている彼女に言われたことを説明した。
「えー、じゃあ再婚しないの?」
「シロップ、私は私の旦那さま一筋よ?」
「えー、……だってそれってムグ」
「そこにいる先生とは違うの」
母親は娘の発言権を隣から物理的に制御している。そこから脱し、
「じゃあ先生はここに何しに来たの?」
「新しい生徒の下宿先を探してたんだよ……それでたまたまここに来た」
「お母さんに会いに来たんじゃないんだ……」
「残念ながらそうだな――」
「残念だったら今日はこのまま泊まって! もう夕方だよ? 帰ってる途中で暗くなっちゃうよ?」
魔王は以前からこの生徒に妙に懐かれていることは知っていた。が、少々これは懐かれ過ぎではないかと――嬉しくも困り笑いをする。
しかし、
「ダメだよ? お母さんが大変だ」
泊まるともなれば夕食だけでなくもてなしに力を割かなければならない。こんな突然ではその準備もなにもままならないだろうと。
「私も手伝うからそれくらい平気だって」
「ああ、そうだな、そうして貰おう――」
魔王は女戦士に向き直る、大人なら分かるだろうと。だが、
「……いつも娘がお世話になっている、できれば是非、振る舞わせてほしいのだが……」
まるで夫をたしなめる妻のよう艶やかな表情で、嫋やかに微笑まれる。
聖母を絵に描いた様な姿だ。それくらい、感謝している、ということなのだろうと判断するが、
「いやいや、こちらとしては教師として当然のことでそんなご厚意を頂くわけには……」
それを責める様に少女は魔王の隣に来て服の裾をしきりに引っ張った。その思わぬ本気の抵抗に心がぐらつく。
そこまで父性に飢えているのかと。
母親もそれを少しでも満たそうとしているのか、その我儘をあえて叱らず、逆に背中を押す様に、
「――なに、その代わり、この子の学び舎での様子を詳しく聞かせて貰う……その報酬として受け取ってもらえればいい……」
言い訳を取り繕う。
その、どこか弱り切った眼を見たのがいけなかった。
「……ああー、教師の業務的なことですか? それは」
魔王は弱かった――
子供と女性に。
「ああ。そう受け取ってもらえると助かる……」
「……分かりました。じゃあ今日だけ、よろしくお願いします」
渋々。
でも、
「……えへへ」
生徒にニコニコ、頬が上気するほど微笑まれては仕方がない。
そのとき魔王は思った。
やはり、魔王は勇者たちから逃げられないのだと。
先程から炒めた野菜の匂い――少し甘みのある芳香とブイヨンの煮える暖かな匂いが漂ってくる。
魔王は慣れた様子で生徒の面倒を見ていた。
十歳という微妙な年ごろだが、彼女は膝の上の間でご満悦の様子である。ここに落ち着くまで家の中を案内――子供風に云うならば探検させられたのだが。
今は専属の美容師になり長い髪をチョココロネ型のお下げに編んで結んでいた。
「先生なんでこんなこと出来るの?」
「家でたくさん女の子の面倒を見ていたからね」
「どうしてそんなにたくさん女の子がいるの?」
「子供を拾ってきて育てていたからだよ」
「ふーん、じゃあやっぱり私のお父さんと一緒だ」
「へえ、そうなんだ?」
「うん。私のお父さんも子供を拾って育ててたって。そんで世界一優しいって」
「良いお父さんだったんだ……ほら出来たぞ?」
「――似合う?」
手鏡で見ながら、
「似合う似合う」
「じゃあ撫でて?」
「はいはい」
「イイって言うまで」
「はいはい」
魔王は髪型が崩れないように、その上辺だけを優しくふわりと撫で続ける。
猫に毛繕いを要求され、飽きるまで身体を擦り付けられる様な気分になった。
それはしばらく続き、
「……………………………んー、いいよー?」
「満足したか?」
「んー、まだまだ? でも疲れるしょ?」
「まだ平気だよ。ほら、じっとして」
「えへへー」
もう一度、今度は深くその小さな体を抱え込み、密着して頭を撫でる。
その中でもぞもぞと器用に尻で方向転換し、ややお姫様抱っこの体勢に座り直すと少女は胸板に顔を預けて来た。
好きにさせ、その髪を継続して優しく撫で続ける。と、
「……夕食の用意が出来たわよ? シロップ――」
うとうとと眠っている。
それを唇に指先を立て教える。
母親は困り笑いをして、随分しおらしい顔をして、
「……すみません。もう少しそのままでいさせてあげてください」
「ええ。ようやく手籠めにしたところです。そうさせて貰いましょう」
「ふふ、悪い言い方をして」
「素ですよ? 何せ魔王ですからね? ……そちらこそ、ずいぶん嫋やかになりましたが?」
「前の職業柄、女らしくしていると組み伏せようとして来る輩が多くて。それに女所帯だと、なにかと軽く見る人もいます、だから口癖代わりにしていたのですよ」
そのとき、毛繕いが止まっている、と、自己主張するように少女がしがみ付いて来た。
腕の中で増したその存在感に、グルーミングを再開すると、ほっとしたように握力が緩む。
「……こんなに甘えるなんて、」
「普段はないのですか?」
「……ええ、ここまで熱烈には……」
「誤解しないでくださいね?」
「……それはありえません」
「なぜ?」
「……この子も信頼しているから、ですよ」
また嫋やかに微笑んで来る、女戦士としてより、母親としての姿の方が板についていると言わざるを得ないほどだ。
が、
「……先生結婚して……」
「……」
「……」
子供の無邪気な一言に両者に動揺が走る。
が、
「先生、お母さんと結婚して……」
「……」
「……」
「――弟が二人、妹が二人よ?」
どうやって作るのか知ってるのか!? と、母親の顔が見辛くなるが、寝言にしては明瞭で、妙にニヤニヤとしたその寝顔に母は冷たく目を細め、
「……シロップ、今すぐ狸寝入りを止めないと、一人別のところで食べさせるわよ?」
「はーい!」
突き飛ばす様にスライド、膝とソファーから床に降り立ち足早にキッチンへ駆け込んでいった。
「……」
「先生も、お手数ですがキッチンのほうに来てください」
「……どこから?」
「多分ギュッとしたところから、徐々にです」
一体誰に似てこんな悪戯好きになったのだろうか。少なくとも、母親の遺伝子は感じないのだが。
向かった先、テーブルの上を見れば一つの鍋、それにパンが盛られた籠が中央にドンと置かれている。
既にスープ皿は用意されているが、中は空だ。
シロップが鍋の蓋を開ける。見ればオレンジ色のポタージュのようだ。小さな手でレードルを持ち、揚々と皿に盛っていく。そこに緑のパセリを散らし、
「はい先生!」
「ありがとう――」
全員分盛り付け、席に着いてから。
手を合わせて作り手に、そして食材に祈りをささげ、
「――いただきます」
静かにスプーンで一口含む。
――ニンジンの柔らかい味がする。
「先生、おいしい?」
セロリなどの香味野菜を多く使っているのか、甘ったるい甘さではなく、香ばしい、何度も口に運びたくなる優しい味だ。
そして……酷く懐かしい味だった。
魔王城に居た子がよく作ってくれた。
妃になった女だ。それを思い出し、思わず閉口する。彼女とは、離婚した。
丁寧に裏ごししたポタージュのとろみが口に広がり喉を通る度、じわりじわりとその暖かさが身体の芯を満たしていく。
炙って焼き直したパンをちぎって、バターを塗り口に入れると、そのコクと香ばしさが優しい甘みを引き立たせ、繊細な味がより豊かになる。
郷愁にも似た切なさと、胸を満たす温かさが同居する。
もう一口、もう一口、何も言わずに食べていく姿に疑問を覚えたのか。
「先生、どうしたの? お母さんのスープ、世界一でしょ?」
折角のおもてなしなのだ、率直に賛美するべきなのだろうが。
「――ああいや、すごく懐かしい味がしたから、驚いた……もう二度と食べられないんじゃないかと思ってたからなあ」
「世界一じゃないの?」
そう言って欲しいのだろう、どこか不満気だ。
対して母親は、なぜだか涙ぐむのを堪えているようだ。父親と母親が揃った家族、そんな団欒を夢見ていたのだろうか。
しかし、
「……さて、それはどうだろう? でもこれを今世界一好きなのは、シロップじゃないのかな?」
「……うん、それはそうだけどね」
その票に、不服はないのだろう。しかし奥歯に物が挟まった様子――何か言いたげだ。魔王はそれを、自分の母親と何が何でも目の前の男をくっつけたいのだろうかと推察するが。
この料理を、世界一おいしい、と口にするわけにはいかない、そう思った。
「じゃあいっぱい食べなよ。世界で二番目くらいに。どうせいつも外で食べてるんでしょ?」
「……じゃあもう鍋ごと全部食べさせてもらおうかな?」
「それはダメ! 私の分も!」
「じゃあ競争するか?」
「ダメ! 私が一番! ちゃんと半分こ!」
「冗談だよ。一緒に、ゆっくり食べようか」
「――うん!」
どうにか嬉し気に微笑む生徒の頭を撫でる。
その様子を、女戦士は眩しい物を見る様に、そしてどこか影を潜めた目で見ていた。
魔王は一度だけスープをおかわりし、丁寧にパンで器を拭い最後まで味わいきった。その途中で葡萄酒も進められた。
一杯だけ嗜んだ。
そして食事が終わるとすぐに、
「先生、こっちこっち!」
「うん? どうしたんだ?」
「こっちこっち!」
とまたソファーまで連行され、そこに腰を下ろさせられる。
そしてまた足の間に座り背中を預けて来た。
もう帰らなければならないのだが。
「んふふー!」
してやったり、という顔をしている。
「なるほど。このまま寝ちゃえばベッドまで運んでもらえると」
「ほんとに?」
いじらしくも可愛らしい甘えだ。このまま膝の上で寝てしまえば大人が寝るときかそれまで傍に居られる。運んでもらえればベッドに降ろすときにしがみつき、ぶら下がっていれば添い寝してくれるかもしれない――そういう作戦だ。
だが、
「……そういう子には!」
「きゃー!」
「さあこれでもうおしっこにも行けないぞ? どうする?」
逆に魔王はしがみ付いて言う。更にお腹の上から膀胱を押して揉み解し、脇も思い切りくすぐり強制的に尿意を催させる。
「いやーっ! 漏れちゃう! 漏れちゃうってば!」
「さあどうする!?」
「でっ、でもそうしたら! 先生びしょびしょキャハハ!?!だから一緒にきゃはははははお風呂ははは!」
「なんだと? もう十歳淑女なのに大人の男と入るつもりかこの娘は?」
「あっあっあヒヒヒヒヒヒヒィ!?」
「さあ降参するかー? さもないと明日恥ずかしい洗濯物を干すことになるぞ?」
「ぎゃひひひひひひひ!」
ガッチリ捕まえた腕をタップしてくるが認めない。いやいやをして涙を零しながら最後まで抵抗する。
「……ほーら? 今すぐ降参するなら寝るまで手を握るくらいはしてやるから、ほら! 早くしないとー?」
「こ、こうさん! 降参するするするもう限界だか――ははは!」
「――はい、じゃあいってらっしゃい」
シロップは膝から飛び降り「後で覚えてろー!」と捨て台詞を残しながら、小さな歩幅で全力でトイレに向かった。すると部屋の入口から静かに見守っていた母親が、穏やかな苦笑を浮かべながらやってくる。
「……女の子になんてことをしているんですか」
「まだ子供です。子供には、あれくらいでいい」
酒瓶とグラスが飾られた棚を指先でなぞり、
「――子供が寝たら、どうですか?」
「いいんですか?」
「農協の付き合いで貰ったものですが、私は一人では飲まないので」
母親はどこか艶然と微笑んでいる。
めくるめく大人の時間を想像するが、そんなことにはならないだろう。
すると生徒がトイレから帰還し、
「――あ、先生お風呂沸いたみたいだから一緒に入ろー?」
そのまま部屋に着替えを取りに行った。
遠ざかる音を聞きながら、魔王は幻聴が聞こえたらこんな気分だと言わんばかりに女戦士を見る。そこで淑女の教育はどうした、と問い掛ける筈が、しかし。
彼女はそこで穏やかな微笑みを浮かべながら、どこか切なげな顔をしていた。
「……どうかしましたか?」
「……あの子が、こんなに大人の男に甘えているところは初めて見ました。……どんなに親しくとも、心を開いている様子は見せなかったのに」
言外に、父親が必要だったと言っている彼女に、
「……それは貴女の愛情以外要らなかった、ということですよ」
そうではない、と伝える。仮にそうだったとしても、そうはさせない、という意気を込めた。
「……魔王様……」
「今は教師ですよ、優しいお母さん。――それと同じです。貴方は立派な母親です。絶対に、それだけは変わらない」
彼女は何かを堪える様に目を細める。
そこで、足早に着替えを掴んで戻って来る娘の気配を感じ、悲しみに歪みかけた顔を隠す為彼女はキッチンへと駆け込んだ。
ほんの二秒遅れてやって来た娘は、ついそこまでいた人の気配を感じたのか、
「――お母さんは?」
「――お母さんのスープは世界一! もう毎日食べたいくらいだ! ……と、やや誤解を招く発言をしたら、顔を真っ赤にして向こうに行ってしまわれました」
「……もう先生、口説くならもっとちゃんと口説いてよ」
「ええ? どうしてですか?」
「そうじゃなくてもお母さん、私の事が一番だもん!」
……ああ、これはどう見ても大丈夫だ。
魔王はそう思ったが、きっとこの声が聞こえているだろう母親が下手をすると泣いている可能性も含め、それは言わないでおいた。
毛こそ生えていないが胸に皿が付き始めた微妙な年ごとの生徒と、髪も背中も洗いっこした。
生意気盛り、やんちゃ盛り、されどかわいい盛り。こんな年頃の娘が居たら――間違いなく将来お嫁に行くことを考え複雑な胸中に陥る頃だろう。
当然、母親も同じだ。
だからもう少しお母さんのお手伝いをしながら甘える様に、と言っておいた。嫌な顔をされたが「その方が後で幸せだったと気付く」と、包み隠さず教えた。子供として幸せになれる様に、大人として立派になれるように。彼女は静かに「うん」とだけ頷いた。
着替えなど持ってきていないので同じものを着るしかなかった。
生徒の夜の勉強時間に付き合い、約束通り寝るまで手を握ってやった。そこで再び、
「本当にお母さんと再婚しないの?」
「……それはまだ分らないかな?」
「……」
「じゃあ脈がありそうだったら、一度だけ告白してみようかな」
「……それだったら、ときどき遊びに来てくれた方がいい」
「――ふられるのが決まってる?」
「本気じゃないんでしょ?」
「……そりゃそうさ。だって愛の告白は、まだ始まったばかりの気持ちで決めるもんじゃない」
「……」
「でも、君のお母さんなら、時間を掛けて本気で口説き続ければ、間違いなく本当の家族になれるよ……こんないい子を育てられる人なんだ。傍に居続けたらいずれ必ず愛してしまうね」
「……うそでしょ?」
「お父さんが一番です、って、言われなければね」
「…………ほんとうに?」
「うん。……だからまあ勝ち目はないかな?」
「……お父さんが一番じゃダメ?」
「全然いいけど、お母さんの気持ちが一番大切だよ?」
「…………じゃあ、やくそくして?……」
「うん?」
「…………離れててもいいけど、……お母さんのこと、忘れないで……」
「……わかった。絶対忘れないよ」
「ん……」
すぅすぅと寝息を立て始めてから、しばらくそのまま手を握り、完全に意識が落ちるまで横顔を見守り続けた。
部屋を静かに閉じる。
その間に湯浴みを済ませた女戦士が、肌と一つになったような薄いナイトドレスに着替えてリビングで待っていた。それもまるで高級娼婦のように口紅を塗り、アイシャドーにチーク……うっすらと妖しげな化粧までしている。
これまで見た、他人、戦士、母親、そのどれでもなく――
しかしどれもが入り混じり合った一人の女の顔をして、
「どうしたんですか……その格好……」
「……もてなすはずが娘が随分お世話になりました。なにより……私自身、本当に感謝しています……だから、お気になさらずに」
ほつれていた髪も綺麗にシニヨンにして纏め上げ、整然と夜の化粧をした彼女は、筆舌しがたいほどに色っぽかった。
「……そんなこと気にされなくても」
「いえ……。それに、飲むこと自体久しぶりですから、気合も入れないと」
脇に着いた彼女は言いながら酒を用意していく。グラスに氷を入れ良く冷やし、そこに栓を切ったボトルから琥珀色の酒精を注ぎ、そして匙で数回回し温度を馴染ませ魔王に手渡した。
片膝を着き、目の前で二つ作られたそれをどこか呆然と眺めていると、静かにグラスを合わせてから一拍遅れで魔王は一口。そして彼女も一口――
しばらく、そのまま何も言わずに飲み合った。
特別、何かを語ることも聞くこともせず、酒の味だけを注視する様な時間を二人して揺蕩い幾何かして、
「……貴方は、普段から教師をしているのですか?」
「……昔取った杵柄という奴です。まだまともな人だった頃にね……いつもは書類仕事に、後宮の妃や引き取った子供の世話をして……まあ世間でいうところの魔王らしくはないですね……そちらは?」
「農家です。私も昔に――それに立ち戻ってみたのです。やるべきことを……と、思っているのですが」
「……やるべきこと?」
「……子供に、可能性を与えられるようになりたいと……生きることで手一杯ですが。昼の市や、契約した商家や協会、料理屋に直接下ろしています……娘は、そちらで粗相をしていないでしょうか?」
きっと、母親としてだろう、子供に可能性を与えようというのは。
それは、親として当然抱くであろう気持ちだ。
酒を注がれる。
「魅力的な生徒さんですよ? はつらつとして、それでいて利発で……粗相と言いましたが、むしろ彼女はそれを解決する側ですよ」
「――そうなのですか?」
「ええ。人と魔族に限らず、魔族間での異種族同士の喧嘩を物おじせず止めたり、逆に何の分け隔ても無く悪戯を仕掛けたり……お陰で彼女の周りでは笑いが絶えません」
「それは、どう受け取っていいのか」
「とてもいいことですよ。教科書の勉強が出来るより、遥かに優秀な生徒です。教師が手を出す必要が無い位……何より、懐いてくれているのが嬉しいですね。教師と生徒はどうしても一定の距離が開いてしまうものですから」
「……そうですか……」
母親はほっとしながら、
「……でもそれは、先生がすばらしい先生だからです」
すぐさまのそれに、
「いいえ。それはあなたが今まで、彼女にちゃんと愛を注いでいたからですよ。それが無ければ決して、あの子はあんな立派には育ちませんよ……ここまでの十年、苦労も絶えなかった筈です、その中でよくやり遂げましたね」
「……子供として、健やかに育っているのでしょうか……私は片親なので、それだけは心配だったのですが……」
「あの子は立派な子です、安心してください。そして貴女も、立派な母親です――そして、立派な親子です」
「……ふふっ……本当に魔王という言葉が似合いませんね……先生は――まるで聖人か何かの方が、似合いそうです」
そう言いながら、ついに母親はポロリと涙を零した。
そして、小声ですみませんと呟くと、それから声を出さず、堰を切ったように流れ出す涙を背中で庇った。
魔王は溜まらずポケットからハンカチを取り、背中から抱き締める様に寄り添い、それに手を当てた。彼女は驚きを露わに抵抗しようとしたが、構わず目元に当てる。
見られたくない、と思えば思うほど溢れるそれと、ハンカチから微かに香る暖かい手の感触に、遅れて忌避を抱き、
「あのっ、お、お化粧が」
「いいんですよ。――これで帰っても、貴女の匂いを堪能できる」
「……なっ、何を言って!」
「なんて冗談ですよ――くふふ、もう少ししたら、元気を出して、ね? 今はこのままで」
眼を隠されたまま。その冗談ではない下品な冗談の中に、魔王の意向を理解した。その瞬間、母親は、身体の芯にどうにもならない熱を覚えた。
そして流されるままに、引き寄せられる感覚に任せ、魔王の腕にしな垂れかかって抱かれた。
顔を覆われ、何も見えないまま、髪を撫でられ、背中をあやされ、そして、
「……匂い、だけで、いいんですか?」
「……ダメですよ、貴女は、シロップちゃんのお母さんでしょ?」
「……魔王様……」
離される。
「さあ、飲み直しましょうか……今日は酔いつぶれるまで、飲みましょう。朝は私が起こします」
「――っ! ……はい」
二人して酒を注ぎ合い、酔い潰れるまで飲んだ。
悪酔いした母親に付き合い、飲まされるうちに、魔王も悪酔いし――
足元には酒瓶が散乱している。調子に乗って瓶を空にせず味見味見と全部栓を開け呑み回ししている内に彼女の動力源が変なギアに入った。
魔王はどうにか彼女に彼女の寝室に案内させそしてベッドに下ろした。
だが、そこで記憶を失った。