「魔王、聖母になった妻に説教される」
家に帰ると娘は 全身で訴える様な足音を響かせ、一目散に部屋に駆け込みバタン!と叩き付ける様にドアを閉め中にこもった。
直ぐに追い駆けるが、知らない、の一点張りで。顔を合わせたくないと。
それに露骨に気落ちしがちな父親に反して、母親は苦笑いもそれに狼狽えず、それどころか超然とお茶を用意してきた。
離婚を切り出したばかりの相手に尽くす礼ではない、まるで嫉妬も怒りもどこ吹く風だ。
やはりあれはただ衝動的に口走った妄言だったのだろうかと、魔王はそのまま彼女が悠然とソファーに腰掛ける姿を見て思う。
そして彼女はふうと一息、
「――まず、言わせてください」
「はい」
「いいですかあなた、これは今は私が居るとか娘がいるとかいないとか重婚可だとかそれ以前の問題です。いい歳した――それも責任ある立場の方が気軽にその辺の女の子に声を掛けて引っ掛けて良いわけないことぐらい、重々承知している筈ですよね?」
「はい。分ってる、それは分ってるんだけど――」
「――なんですか?」
にっこり。
「はい――」
反論は許されない。
元女勇者With聖女様のお説教モード、母親になって貫禄増しの聖母モードだ。
これは長期戦になると魔王は一瞬で察した。
お茶は周到な補給水分だ、これでは中座することはできない。
ひしひしと、その愛と怒りと悲しみが後光でシャイニングしている。
だがさりとて口調自体は優しく、まるで子供の面倒を見る様に言い聞かすよう――それがまた何ともいえない恥かしさを込み上げさせ、魔王にダメージを与えてくる。
魔王、お父さん一年生・一月未満、先生《お母さん》に叱られる。
先生がソファーに居るにも拘らず、魔王は床に正座していた。
自主的にである、指示されたわけでも示唆されたわけでもない、彼女には敵わないと魔王の心が屈服しているのだ。
その立ち位置は低い、元からそんなになかったけど父の威厳は台無しである、子供に見られなくてよかったかもしれないと思った。
が、それはともかく、
「……とりあえずのっぴきならない事情を説明させてくれないだろうか? 君が言いたいことを全部言ってからでいいから」
「まるで感情的に怒っているみたいな言い方ですね?」
「違うの?」
「――初期症状は概ねその通りでしたがなにか?」
「――いいえ」
現在は予後不良ではないかと思われる、が、その口答えを魔王は自粛した。
その間を後ろめたさと誤解したのか、
「……魔王様、私は悲しいです。確かにあなたは夜の魔王とか言われていますが節奏無しという訳ではありませんでした。みんな訳ありの子を保護しているだけで……それがどうしたのですか? あんな普通の若い子をナンパだなんて」
聖母は更なる苦言を呈してきた。そこで魔王は改めて己を省みて、しかし、
「うん。それは我ながらどうかしてたとも思う――だけどそれには深いわけがあるんだ」
「――では、お教え下さい。――なんですかその理由は」
信じてくれないよなあと思いながら、
「……勇者の資格が何だか知っていますか?」
「……それが何か関係あるのですか?」
「ある、処女だ。今の神は勇者に処女・それも恋心すら覚えたことのない完全無欠の処女を求めている」
「……は?」
「……概ね神は自分の理想の嫁、もしくは旦那に神の加護――勇者の力を与えていたんだ。つまり職権乱用、公私混同のセクハラ人事をしていた――だから当代・女勇者を口説き略奪愛してその性癖を矯正しようとしていていた。その情報集めだ」
聖母オーラが消え失せヤンキー染みた眉間の皺が刻まれている。
言いながら魔王は思った――自分はすごくバカなんじゃないかと。
きっかり五秒後、
「…………………はぁ……魔王様……怒りませんからどうか本当の事を話してください。怒りませんから」
聖母の暗黒闘気が静かに膨れ上がった、脳は怒りの沸点を越え超臨界状態に達している。
ベタな話「それもう怒ってるよね」とすら言えない気配だ。だがある意味それは正解だ、これは怒るとは言わない――キレている、という奴だから。
魔王は理解していた、怒らないというのも、あくまで「その内容如何によっては……」であることも、魔王は理解していた。
完全にマウントポジションだ。ここから状況が逆転することは難しい、そういえば彼女がベッドで上になる時も完全に理性がプッツンして――いやこれはよそう、別の話だ。
だが、魔王にもその気持ちは分かった、信じられない、信じられるわけがない、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。彼もその事実に気付いた時最初は信じられなかった。そしてその事実を否定できなくなったときまずしようと思ったのは仕事をぶん投げてサンドバックをボコボコにフルスイングすることだった。
しかし信じてもらうしかない、残念ながらこれは全て事実なのだ。なによりここで返答を間違えたら聖母が鬼嫁に闇クラスチェンジする。
幸い、彼女を説得する何よりの材料はある。しかもそれは魔王が集めた資料以上に確かな証拠だ。
内容は、子供には聞かせられない内容である。だがしかたない、言うしかない。
「なら、君が一番わかりやすく、そして私の言うことを信じられるようにしよう」
「……どうぞ」
魔王は遠慮なく、
「……君の勇者の力……それが失われたのは、いつだった?」
「……それは――」
聖母は、一瞬狼狽えた。
――だってそれは。
「……」
「……うん」
「……え?」
「うん……でしょ?」
「……」
それはもちろん、魔王とヤッっちゃったときだ。
――実体験である。確かに『事後』彼女は勇者の力――神の加護を完全に失った。もっと言ってしまえば片想いを始めたあたりから徐々になのだが。
その所為で、魔王以上にその真実味を実感していた。
なんとも名状し難い、当時、それはただ単に自分の意思で勇者であること、そして聖女であることを放棄したからだと思っていた。
が!
「……本当、なのですか?」
「……女勇者の出荷率は教会が一番だろう?」
「……あー」
聖母はJESUSと神に祈りたくなった。
「それでも信じられなければ、私の机の引き出しの奥、二重底になっているそこに茶封筒があるからその中身を見るといい……証拠資料がある」
「ああ、あの二重底……エッチな奴じゃなかったんですね」
「――知ってたの?」
「それはその……お、お掃除の一環で。あ、開けてはいませんよ?」
「……今度トラップとして付箋とチェックを入れた夜の下着カタログを入れてやる!」
「――それは大歓迎です」
「――いいのか?! じゃあさっそく!」
「コホン!」
咳払いしながら聖母は立ち上がった。一応の確認である。下着ではない。
自身の知識と資料の擦り合わせの為に、魔王に私室として宛がった書斎へ向かった。
そして、帰って来た。その間、魔王は正座していた。
だが聖母は魔王を素通りして台所に行きそしてダラリと片手に包丁を下げて戻って来て、そのまま玄関へフェードアウト――
「――まて。元・勇者よ、お前は今どこへ何をしに行くつもりだ?」
「ちょっと教会にカチコミに」
「落ち着け元勇者よ! 眼が完全に闇堕ちしているぞ!」
「今の私は阿修羅をも凌駕する存在です」
「どこの声豚だ貴様は!」
「大丈夫ですよ。ねえ、これ、訴えれば勝て――」
「こら止めなさい!」
「あ〝~~もう! あ〝~~もう! 信じられない!」
「その気持ちは分かる、分かるからとりあえず包丁を仕舞ってこようか!?」
魔王はそっと背中に手を添えを同伴した。
聖母は笑顔で包丁を手に取り、神を殺すアピールをいじらしい上目遣いでおねだりしてくるが、包丁は魔王が厳重な処置をして封印した。
リビングに戻ると手を取りながらさり気なく魔王はソファーに腰掛け、聖母をその腕に抱いた。
思い切り甘えさせる、聖母もまたさり気なくその流れに自然と乗っかり胸板に額をぐりぐりと押し付ける。
だが怒りは収まらず、
「……そんな下らない理由であんな苦労をさせられていたなんて!」
「――だよねぇ……」
プチ噴火。やりきれない聖母はあごをぐいぐい魔王の胸板に乗せ、上目遣いの犬仕草で撫でろとアピールをした。そんな彼女を魔王はただひたすら駄々甘に、手櫛で髪ごと背中まで何度も撫で漉いた。
愛情たっぷりのグルーミングだ。聖母ももはや遠慮せず全身を擦りつけスーハ―スーハ―匂いまで嗅いだ。そして一時停止、それからようやく溜飲を下げご満悦に顔を上げる。
甘え掛ったままの彼女は、魔王に更なる事情の内訳を視線で尋ねた。
それに応え、
「――で。だから神がもう二度と公私混同の人事なんてする気が起きないように、勇者を悉く口説こうと思ってたわけ……今回は私が担当するが、今後男の勇者が出ればサキュバスのお姉さんやなんかも駆使して――と」
「そんなまどろっこしいことせずに息の根を止めたら――」
「首がすげ替わるだけで別の神が同じことをするよ。あくまで恋愛人事を自主的に辞めて貰わないと」
魔王と聖母は糖分過多で眼を背けるほどラブラブしながら真っ黒な会話をした。しかし、母親としての姿しか見せてこなかった彼女にしては珍しい――おそらく先ほど本当に嫉妬していたし不安に思ったのだろうと察し、魔王は存分に聖母を甘やかし、甘やかし、甘やかし尽すことにする。
「……別にあなたがしなくたって」
髪ごしに頭上にキスした。ビクンとしたが、もう一度――
「――ああ。だからその作戦はもう止めてるよ、君たちにこの街で再会した時からね、くだらない……」
チュッ、チュッ、ちゅっ。
驚き、くすぐったそうにしながら、嬉し気に目を細め、もっと、と頭を差し出す。
くすぐったがり失笑が漏れているが、もう一度、もう一度、もう一度……。
その上さり気なく強く掻き抱いてくる魔王に、聖母もその瞳の奥に艶が差して来た。
手の平がその豊満なボディラインの女性的曲線に掛かり……しかし場を弁え、それ以上はと自制するように制動を効かせる。性感なんてなくても情欲なんて満足させられる、妙を得た手つきだ。
その代わりなお一層深い抱擁をする。聖母も思わずもっとして欲しいと思ってしまった。その欲に負け、身を乗り上げたっぷり二つの乳房を服越しに押し付けた。
もう自己主張どころではない、理性が消えかけた甘ったるい声で夫を呼ぶ。
「あなた……」
「――こんな素敵な奥さんと娘さんがいるんだ、浮気なんて出来るわけがないだろう? 今はもう君たち二人のことしか考えていないよ?」
自然に唇を交わす。
「……そんなこと言って、どうするつもりですか?」
「……もの凄い下着にチェック入れておこうかな? いや、買ってあの引出しに入れておこう――すると君の下着はいつのまにか朝とは違うものに替わっているんだ」
「――お風呂に入ったら、そりゃあ替わりますよ?」
意味深である。
「本当かな?」
「――確かめてみますか?」
「……今日は何も入っていないはずだが?」
「……確かめて、みますか?」
「……グレーナ……愛しているよ?」
「魔王様っ、ぁ」
膝の上で二人は自然に手を重ね合わせ、目を閉じ、唇をまた重ね合った……舌まで絡め……その手がついに――
「あ、その前に子供にもちゃんと説明しましょう――」
が、
聖母はするりと魔王の腕から抜け出し、また何事も無かったかのよう裾を正した。
清廉とした仕草のそれを、若干呆気にとられながらも残念に思わずむしろそれもいい、と魔王はソファーで地味に眺め、
「……流されてくれないのかい?」
どこか満足げな不満を漏らす。
「母親ですから――子供が最優先です。……あなただって父親でしょう?」
「……手強くなったなあ」
魔王はそう言われては敵わず、困った様子でしかし目尻をしならせる。
それを許してくれるということに、聖母もやはり微笑みを浮かべ、魔王の頬に唇を一つさっと捧げた。
魔王も彼女の頬にお返しすると、不意に眼が合ってしまいやはり我慢できずに唇同士をもう一度だけ重ねた。
そして、
「――少なくともあの子は今、も~っと手強いですよ? お父さん?」
それを覚悟しながらも、さりげなく腰を抱き合いながら二人は階段を上がって行った。




